イツワリノぎしり、と微かな音を立ててフリードはベッドから身を起こした。
薄暗い部屋の中で、服が床に散らばっているのが見える。いつまでも素っ裸のままというのも心許ないが、ベッドから降りるのも億劫だ。しばらくこのままでいいか、とフリードは座ったまま再び目を閉じた。
ここは社長室から扉一枚を隔てた仮眠室である。その名の通り社長であるスピネルが仮眠を取るための部屋なのだが、スピネルが1人で呑気に寝ている姿など見たことはない。主な用途は休憩と称してフリードを連れ込むためのものである、ように思う。
少なくともフリードにとってはそうだった。
名ばかりの社長というわけではなく、なんだかんだと忙しく動き回っているスピネルに「少しは休んだらどうだ?」と声をかけても「休んでいるじゃないですか」といつもの笑顔が返ってくる。
激しい運動つきのこれが果たして休んでいるうちに入るのだろうか。
フリードの「休め」という忠告の中には、純粋にスピネルの体調を慮る気持ちが半分、他の思惑が半分である。
(思うようにはいかないな…)
フリードは短くため息をついた。もう少し1人になる時間があれば、内情を探ることもできるのだが。
フリードが記憶を取り戻したのは少し前の話である。
長い夢を見た。彼らとの冒険の夢だ。
あのラクアで、落下する寸前に聞いたキャップの叫び声が頭に響いてハッと目を覚ました。
そうだった。自分は『フリード』と呼ばれていた。
目を覚まして、最初に目に飛び込んできたのはこちらを覗き込むスピネルの顔である。
何故ここに?何故スピネルが?と混乱に陥りつつも思わずグッと唾を飲み込んで、声を上げずにいた自分を褒めてやりたい。何故かそうしなければと強く思って、訝しげな顔をしたスピネルに対して微笑んでさえ、みせた。
その時のスピネルは安堵したような、少し残念がっているような曖昧な笑みを浮かべていたような気がする。
少し落ち着いた後に蘇ってきたのは眠りに落ちる直前の記憶だ。
スピネルに抱かれた記憶。
部屋に響く自分のものとは思えないような淫靡な声と、意外なほどに熱い体温。
そして掠れた声で「シトリン」と偽りの名前で自分を呼ぶスピネルの声。
そうだった。この男にそう名前をつけられたのだ。
客観的に見て、いつのまにか男に身体を暴かれているなど悍ましいと思うだろうに、何故かそんな気持ちは湧かなかった。
ただ偽りの名前で自分を呼ぶスピネルの声が何故かフリードの胸を軋ませた。
数日もすればフリードは現状をほぼ把握していた。過去の自分を思い出し、スピネルと過ごした日々のことも覚えている。しかしそれはここ3ヶ月ほどのことで、落下直後からそれまでのことはすっかりと抜け落ちている。
どうやって助かったのか、何故スピネルと共にいるのか。
気がついたらスピネルの側近のような立場になっていたとしか言いようがない。
口の悪い者はフリードのことをスピネルの「愛人」だと囃すが、対外的な立場はスピネルの側近である。たとえ「愛人」と呼ばれてまったく言い訳ができないようなことをしていたとしても。
とはいえ、スピネルがメディアに顔を出す時などにフリードを伴うことはなく、フリードの存在を知るのはエクスプローラーズの幹部連中のみなのだが。
記憶を取り戻して真っ先に頭に浮かんだのはもちろん仲間達の事である。
何故かライジングボルテッカーズの悪評が流され、消息のつかめない者もいる。
一度戻るべきだ。皆に心配もかけているだろう。そんなことはわかっている。
しかし今、ここにいることはまたとない好機だった。今を逃せばこんなチャンスは2度と巡ってこないだろう。
スピネルが何を企んでいるのかを調べる必要がある。そのためだけにフリードはここにいるのだ。そう自分に強く言い聞かせている。
ふと手首に違和感を感じてフリードは瞼を上げた。
目の前にかざした手首にはぐるりと紅い痕が残っている。スピネルの手に掴まれてできたものだ。
これはよくあることだった。
スピネルはけして乱暴な行為を強いる男ではない。しかしフリードの身体が強い刺激に耐えきれずに逃げを打った時などにきつく手首を掴む癖がある。
もちろん本当に逃げているわけでも、拒否しているわけでもない、ただの反射的なものなのだが、それでもスピネルは「逃げるな」とでも言うように腕を掴む。
いつもの胡散臭い笑顔が消え、一瞬泣きそうに歪む瞳と、縋り付くような手の熱さ。
それらが何故かフリードの心を蝕んでいる。
(まったく、なにやってんだか…)
そもそも気づいた時には身体が慣らされてしまっていたとはいえ、すっかりスピネルのことを受け入れてしまっていること自体どうかしている。
あまつさえスピネルのことを知りたいなどと。
知りたいのはスピネルが何を企んでいるのかと言うことだけで、スピネルが自分に向ける心の内などどうでも良いはずなのだ。それだと言うのにふとした瞬間にスピネルの瞳を思い出してはその意味を考えている。
その思考を振り払うようにフリードは頭をくしゃくしゃと混ぜ返すと、今度は長くため息を吐いた。
微かな音を立てて扉がスッと開いた。
「起きたんですか?」
逆光になって顔はまともに見えないが、ここに立ち入るのはもちろんスピネルしかいない。
フリードはいつものように微笑みを返してみせた。
「ああ。もう仕事終わったのか」
「ええ。もう帰りますよ。いつまでそんな格好をしてるんです」
「脱がしたのはお前だろうが」
こんな姿にした元凶が何をと悪態を吐きながらフリードは渋々とベッドから降りて服を身につけていく。
部屋を出て、一度自分を振り返るスピネルの瞳を見つめ返して。
今日もフリードはスピネルの横に並んでイツワリの居場所へと帰っていく。
帰るべきホンモノの居場所があるというのに。