引っ越しの日 引っ越しをした日は、曇りだった。
今にも雨が降ってきそうなグレーの空模様で、大型家具の搬出入が降り出す前に済んで良かったと思う。
とは言っても、新一の部屋から持ち込んだ大きな家具はベッドと本棚だけだ。ベッドはフレームのないマットレスに脚がついただけのシングルベッド。その他の家具家電は降谷の部屋では特に不要だし、大学時代から使っていたものだったので、これを機に実家に移したり処分したりした。
「……本当にベッド持って来たんだ」
引っ越し業者が運んできたそれを見ながら、降谷は不満そうだった。
「まだ言ってるんですか」
新一は空き部屋に運んでもらった段ボールを確認しながら、とりあえずすぐに使うものから開けていく。
昨日、新一の部屋の荷造りを終えて、今日は降谷の部屋に移動した。明日の朝は早番で早朝にここから出勤しなければならないので、ある程度の片付けを夕方までに終えねばならない。
一緒に住むと決めてから、一週間。
こんなに急に引っ越すとは思わなかったので、余裕のある日程が取れなかったのだ。世間では平日だから業者の手配も出来たのが幸いなくらいだ。
「降谷さんも手伝ってくれよ。……急かしたの、あんたなんだし」
「分かってるよ」
苦笑した男が部屋に入ってくる。まあ、そうは言っても、降谷だって出勤の合間を縫って新一の為にこの部屋を空けて掃除したりしてくれた。部屋に運んだ荷物の大半は本だし、これは追い追いでも構わない。
新一が衣服を詰め込んだ段ボール箱を開けていると、降谷も持ち込んだ衣装ケースをクローゼットに運んでくれた。
「これはこっちでいい? 他に収納必要そうなら余ってるの探してくるけど」
「多分、大丈夫。そんなに服ねぇし」
「……新一はあまり衣服に頓着しないよね」
「働き出してから私服着る機会ほとんどねぇし、男なんてそんなもんじゃねぇ?」
降谷だって制服かスーツなので、休日に着る服はさほど必要ないだろう。
「有希子さんが嘆いてたんだよ。折角飾り立てたくなる素材なのにって」
「……素材って」
母親は女優なんてやっていたせいか元々の性格か、息子をおもちゃにしたがる節がある。本人曰く、可愛がっているだけだということだが、成人した息子からしたら着せ替え人形は勘弁して欲しい。
「多分それ、今度から降谷さんも含まれると思うけど」
いや、もうすでに含まれているかも。LAでは一緒に食事をしただけだったのだが、有希子はやたらと降谷を気に入っていたし。
「君の両親に気に入ってもらえたなら、光栄だよ」
穏やかに笑った男は本当にそう思っているようだ。
まあ、降谷なら有希子とも上手く付き合うだろう。
「あれ? シーツどこ入れたっけな……」
ベッドに掛けていたボックスシーツが見当たらなくて、新一は首を傾げる。直前まで使っていたし、すぐ使う用の段ボールに入れた筈なのに。
「……ここ、窓もないし、君がここで寝る必要はないと思うんだけどな」
「降谷さんって、意外と諦め悪いよな」
新一は笑ってやった。それでもまだ男はむすっとした顔のままだ。以前はあまり見たことのなかった顔。
――降谷の部屋に引っ越すにあたって、新一は事前に「お願い」をした。
寝室とは別に、新一のベッドを置くスペースを設けること。二人の時間が合わない時は、新一はそこで寝ること。
お互い、不規則な仕事をしている。新一はシフトを繰り返しているだけだが、早番から夜勤まで毎日生活サイクルが違うし、降谷もフライトによって出勤も勤務時間もまちまちだ。それに、パイロットはフライト前は一定の睡眠時間の確保が義務付けられている。
だから、変な時間にベッドに入って寝ている方の睡眠を妨げたり、お互いのアラームで起こしたりすることのないよう、必ずしも一緒に寝るわけではない、と。
降谷も最初は抵抗を示したが、理解も責任も勿論あるので、不承不承ながらも了承してくれた筈なのだ。
「本当は納得もしてるくせに」
「……納得はしてるけど、不満ぐらいは言いたいさ。ようやくその鍵も日の目を見るようになったんだし」
「あぁ、……これ」
荷物の上に無造作に置かれた鍵に視線をやる。複雑なディンプルキーになっているそれは、この部屋の鍵だ。数ヶ月前に渡されてから、数回しか使ったことのなかったやつ。
「……一応、ちゃんと使ってたけど」
「確かに。フライトから帰って来て、新一が待っててくれた時は、もう部屋から出したくないくらい可愛かったんだけど」
「そ、その話はもう止めようぜ……!」
夏頃のことだ。
国際線のフライトが立て込んでいてなかなか会う機会がなかったのだが、ようやく二人の休みが重なった日。
新一は前の日から降谷の部屋に泊まっていた。男が帰ってくる前にはちゃんと起きて、部屋の換気をして、何なら食事でも作って待っていようと思っていた。
だけど、それは叶わなかったのだ。
新一が降谷のベッドで寝ている時に、男は帰って来たから。
――しかも、新一が久しぶりだし、とベッドで自分の身体を慣らしている時に、だ。
「大体、あれはあんたが時差を間違えて伝えてたから……っ!」
「ごめん、ちょっと感覚が狂ってたんだよ」
昼過ぎに帰ってくると言ったのに、朝方帰ってくるなんて思わない。確かに新一も夜勤明けで時間感覚がおかしくなっていたところはあったし、人様のベッドですることではなかったと、心底思う。
だけど、やっぱり、あれは降谷が悪いだろう。
「でも、あれ以降本当に合鍵使ってくれなくなったから」
別にそれだけが理由ではないが、確かに、使い辛くなったのは事実だ。
「だから、君が引っ越してきてくれたことは本当に嬉しいんだよ」
その顔は、本当に嬉しいと伝えてくれて。
「…………」
新一だって、もうすれ違ってばかりよりは、一緒にいれる日が増えるのは嬉しい。
だが、ベッドの件は譲れないのだ。体が資本の仕事だからこそ、降谷にはちゃんと寝て欲しいし。
「……あの、さ」
どう伝えようか迷っていると、ひょい、と新一の手から段ボール箱を取った降谷が笑った。
「まぁ、僕のベッドで名前呼んでる新一を、もう一回見たいとも思ってるけど」
「降谷さん……っ!」
それが本音なら、絶対に新一は一人で降谷のベッドで寝れないではないか。
「はは、ごめん。冗談だよ」
「……本当かよ」
「まあ、冗談半分、本気半分かな」
「素直になりすぎだろ……」
「新一が、全部教えてって言ってくれたから」
「うぅ……」
駄目だ、敵う気がしない。LAから帰って引っ越しが決まってからずっと、降谷はこんな感じだし。
「……もう、これ早く片付けねぇと、ゆっくり出来ないんだけど」
「そうだね、じゃあさっさとやろうか」
「誰のせいだよ」
「浮かれてるから、大目に見てよ」
そう言って降谷は段ボールを床に置いて開封していく。浮かれているとの言葉は男に似合わない気がしたけど、鼻歌でも歌いだしそうな姿は、そうなのかも知れない。
あぁ、もう。
「……俺も、だけど」
「何か言った?」
「……何でも」
これ以上作業が進まなくなるのは困るので、それは言わなかったけど。
♢ ♢ ♢
作業は概ね終えたけど、ハンガーやら小物で足りないものがあって、夕食前に車で買い出しに行くことにした。
「悪ぃ。畳んでたのが、吊るせるとは思わなかったからさ」
夕方から雨が降り出していた。ザァァと車に雨粒が降り注ぎ、フロントガラスを雫が滴っている。
「いいよ。ちょうど食器とかも少し買い足したいと思ったし」
新一が住んでいたワンルームの部屋より、降谷の部屋のクローゼットの方が広かったのだ。降谷の部屋には調理器具や食器もきちんとあるけれど、二人が毎回使うには少し足りない。
何度か泊まっていたし特に問題はないと思っていたけど、これからずっと暮らしていくとなると、やはり色々と足りないものがあったようだ。
「天気は引っ越し日和とならなくて残念だったけどね」
「もう家具の搬入は終わったんだし、天気に引っ越し日和も何もないと思うけど……」
「でも、一日目だしやっぱり晴れた方が良かったかなって」
ワイパーがウィン、ウィンと揺れていた。空はどんよりとした曇り空で、このまま直に暗くなるだろう。
「……雨も、嫌いじゃねぇけどな」
「え?」
「今日はもう見れねぇだろうけど、雨が上がる瞬間とか、虹が掛かった空とか、その時しか見れない空も多くて好きだぜ」
そういえば、降谷とターミナルビルの一角、隠れ家みたいな場所で雨上がりの空を見たことがある。
新一のお気に入りの場所。初めて一緒に缶コーヒーを飲んだのも雨の日だった。
「……確かに」
ハンドルを握った降谷がふっと笑う。
「僕も、新一と見るなら何でもいい」
「何でもはおかしいだろ。俺は嫌いじゃないって言っただけだし」
「僕も新一と見るならって条件つけたよ」
駄目だ。降谷が機嫌が良いのはまだ続行中らしい。
むずむずした気分でシートに背を預けた新一は、ふとこの車に乗るのも久しぶりだな、と思った。
降谷の愛車は白いスポーツカーだ。マツダのRX−7。
時々新一の部屋に迎えに来てくれたり、送ってくれたりして、何度か乗せてもらった車だ。
「……この車」
「うん?」
「使い込んでる感あるよな。降谷さん家の家具とかと、一緒」
「まあ、これも就職したての頃に買ったしね。年季は入ってるかも」
降谷は気に入ったものを長く大事に使うタイプなのだろう。これから、二人の部屋になったあの部屋にも、それが増えるだろうか。
二人が気にいるものが増えればいいな、と思う。
空の写真も、アンティークのワールドクロックも、もう新一のお気に入りだけど。
「使いたい時があれば、君も使ってくれて構わないよ」
降谷はそう言った。
大事なものを惜しげもなく新一に許してくれる。
それは嬉しいし、新一もゼロと謳われるスポーツカーの運転には確かに興味がある。
「うーん……」
「あまり車は好きではなかった?」
「そうじゃねぇんだけど、この車に乗るなら、助手席がいいな」
「何で?」
不思議そうな降谷に、新一は小さく笑って。
「降谷さんが車の運転してるとこ、結構好きだからさ」
いつも、思っていたのだ。
「ハンドル握る手ってちょっと操縦桿と似てるし、飛行機の操縦は滅多に見れないけど、車の運転なら隣で見れるだろ」
助手席に座る新一だけの特権だ。
「……そんなこと言われたら、緊張するな」
「操縦桿握ってる時だって、そんなしねぇだろ」
「するよ。君には本当はいい格好だけ見せたいんだから。今更だけど」
「今更って」
ははっと笑みが漏れた。
本当に今更だ。新一は、降谷の格好いいところを好きになったのではないと、もうとっくに知っただろうに。
「あ、あっち、雨が止んでる」
前方の離れたところの空は、雲が切れて光が覗いていた。もう陽が沈みかけだからか、暖かなオレンジ色。灰色の空と混ざって、不思議な色に染まっていく。
サァァ、と薄く細く線が光っているのは、雨が夕陽に照らされているからだ。
――ほら、やっぱり、雨の空だっていいじゃないか。
「本当だ。もうすぐこの辺も止むかな」
「……こんな空にランディングしたら、気持ちいい?」
「気持ちいいよ。いつか、見せてあげたいな」
「……うん」
でも、今、降谷の隣で見れたから、いい。
この瞬間だけの空を。
新一が目の前の光景に魅入っていると、そんな姿をチラリと見た降谷が、柔らかく頬を緩ませる。
「確かに引っ越しが晴れじゃないとって言うのは、撤回するよ」
「へ?」
「新一が今日引っ越してきてくれたから、一緒にこんな空が見れた」
「……うん」
同じことを考えていて笑ってしまった。
赤信号で停まった降谷が、こちらを向く。
「改めてだけど、これからよろしく。新一」
「……こちらこそ、零さん」
車内にも夕陽の光が差し込んで、ふわりと、明るくなった。