phobia-恐怖を抱える者たち- 恐怖症疾患
特定の対象に異常な嫌悪、忌避感を覚えること。
重度の発症者は自身の恐怖を周囲に漏洩、拡散することにより、物的、人的被害を発生させる。
恐怖症疾患の段階レベル
レベル1:特定の対象に対し、並々ならぬ恐怖を覚える。
レベル2:内面的な異変の表れ。症状は動悸、発汗、震えなど。
レベル3:外面的な異変の権限。周囲にも影響が現れ始める。
レベル4:外的な影響が強く現れ、破壊、傷害など社会的損害を発生させる。
レベル5:『殺人者』
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下坂部平太は自他共に認めるビビりである。
ちょっとしたコト、ちょっとしたモノに驚き、慄く。物、人、音、光、その他もろもろ。世界は怖いもので溢れていた。
平太が恐れないものなどなく、それでも日常生活に影響が出なかったのは、平太の周りの人々が優しかったからだ。
父母や祖父母を含む親類縁者。ご近所さんたち。幼稚園や小学校で出会えた友人たちだって。
そうそう、優しい先輩だっていた。卒業して、そろそろ受験のシーズンだと思うけれども、あの人はどうしているだろうか。なんて時折思い出す。
下坂部平太はビビりだけれども。これまでの人生おいて己のそれを悲観することがなかったのは、多くの優しい人たちに支えられてきたからだ。平太自身、それを自覚していた。だから、平太は周りの人々に常に感謝していたし、とてもとても、大切にしていたのだ。
今、目の前で友人たちが倒れ伏している。
「…――伏木蔵、怪士丸、孫次郎」
最近、素行の悪い者たちが学区周りをうろついてる。だから下校時は必ず同じ方向の生徒が一緒に、複数で帰るようにと学校から指示がでていた。
平太にとって心強いことに、彼の大好きな友人たちがそれに該当した。気の置けない彼らとの帰宅時は楽しい。
今日だって、帰ったらなにをして遊ぼうか、新作のゲームを買ったんだ、機種を貸してあげるよ。でもまず先に宿題をやろうね。…なんて。
そんなたわいのない会話をしていただけなのだ。
決して目立つことをしていたわけではない。人の耳障りになるような話をしていたわけでもない。ただソレらの目の前を歩いていた、それだけで目をつけられた。
自分たちよりもはるかに大きな男たちに、突然よくわからない因縁をつけられて。周りを囲まれ逃げ道を塞がれ、恫喝されて。
最初に蹴り飛ばされたのは誰だった? 殴り飛ばされたのは?
そうしてそんな酷いことができるの? どうして笑っていられるの?
道行く人々は、見て見ぬふり。顔を反らしてそそくさ、そそくさ。
「あ、――あぁ」
下坂部平太はビビりである。
ありとあらゆるものが、平太にとっては怖い。けれども頼りになる友人たちがいてくれたから。だから――。
その友人たちは、地面に倒れ伏してもうピクリとも動かない。投げ出されたランドセル。散らばった中身。
違う、違う、気にしなければいけないのは友人たちの体の具合だ。あんな、ボロボロの、あんな、傷だらけの、あんな、酷い。――早く救急車を、助けを。
けれども無慈悲に。
ニヤニヤ笑う顔が平太に近づいて、大きな掌が伸ばされる。
怖い、怖い、怖い。
助けはない。頼る者もない。大好きな友人たちすら助けられない。
すべからくの恐怖が、平太の周りで凝り固まっている。
――近寄らないで、触らないでっ。
気が付けば、下坂部平太は絶叫をあげていた。
『アラート、アラート、アラート。
恐怖症疾患発症。発症レベル4。
種類は対人、接触。速やかに発症者を拘束されたし』
どこかで、遠くで、平太とは違うナニかが叫んでいた。ああ、世界が裏返る。
――――――――――――――――――
スーツ姿の男が、拡声器を使って路地の向こうへと叫んでいる。
「恐怖症発症による障害、破壊行為は国の法律にのっとり、罪に問われることはない。だから投降しろ!」
声に応える者はない。
大通りから一歩内側に入った路地一面。辺りは倒れ伏す人、人、人、…の、カタチをしたモノたち。その最奥に立つのはまだ小学校上級生ぐらいの子供だ。
とっくに喉が枯れそうなものを、ずっとずっと言葉にならぬ叫びをあげ続けている。
周辺の人のカタチをしたものは、ヘルメットに防弾チョッキ、全身武装した警察の特殊部隊の者たちだ。“こういうこと”専門の部隊であるのだが…、須らく無残な有様。袖口やメットから、だらだらと粘性の液体を垂れ流して、腐った肉の臭いを辺りに充満させている。
男――恐怖症疾患対策本部所属、潮江文次郎警部は…、まだ幼い子供とそれが生み出す地獄の痛ましさに呻いた。
恐怖症疾患。
その単語の意味だけなら、特定の対象に異常な嫌悪、忌避感を覚えることを指す。だが重度の恐怖症発症者は、自身の恐怖を周囲に漏洩、拡散させ、物的、人的被害を現実に巻き起こす。そのカタチは恐怖症患者によってさまざまだが…。
まだまだ幼い子供が、己が恐怖で及ぼす異常事態。こんなものは、あまりに惨いではないか。
これが、あの子供の恐怖のカタチ。
あの子供は、保護のために集まった屈強な特殊部隊の面々を、一切触れぬまま、一定距離近づいた段階で弾き飛ばし、腐り溶かした。
文次郎が一歩、前に進もうとする。ちりりっと肌が焼かれるような痛みがあった。今の彼の立ち位置が限界だ。地獄との境界線。あの子供の恐怖が及ぶ世界の境。
しかしそれは、いつまでも保証されるものではない。
「――落ち着いて、投降してくれ。頼むっ」
「よせよ、文次郎。子供相手になにガチなこと言ってんだ」
「遅くなりました、潮江警部」
あまりに必死になりすぎて、背後から近づく護送車に気づかなかった。
重罪犯を護送するための警察車両。そこからやってくるのは、青みがかった癖の強い髪。歳は十代半ばか、なかなか端正な顔立ちだが、吊り上がった目が周りを威嚇するかのように鋭い。
彼に沿うように立つ、文次郎と同年代の青年が敬礼を送る。
「善法寺刑務官、護送ご苦労様です。――食満留三郎か」
「よくよく俺を呼び出すよなぁ、文次郎。警察ってな、殺人犯に協力要請出さなきゃいけないほど、無能の集まりかよ」
「……」
「いや、いつもみたいに皮肉の一つあびせてみろよ」
留三郎、と呼ばれた少年が肩を竦める。「こんなやりとり、している場合じゃないか」とちょっと痛みを耐える顔をした。
「あれか」
「発症者は下坂部平太。レベル4。対人恐怖症≪Ophthalmophobia≫と、接触恐怖症≪Haphephobia≫の複合型と思われる」
文次郎の言葉に、留三郎は唸る。
「レベル4? 人間が腐って溶けているように見えるんだけど、生きてんのかアレ」
「対恐怖症疾患患者の特殊部隊が着るスーツは、内側にバイタルチェック装置がしこまれている。今のところ、生命活動が停止した者はいないな。見た目が派手なだけ、まだ“集団幻覚”の範疇だ」
「集団幻覚、ねぇ。現実に恐怖は及んでいるのに、まだカタチになりきっていないのか。なら、ここで止めとかないとな」
「いけるかい、留三郎」
「頼む」
「無論だ、伊作。あと文次郎、素直なお前は気持ち悪い」
あっかんべぇ。今時の子供でもやらない仕草だ。悪戯っぽい笑みは、どこにでもいそうな中学生相当の少年である。だが、ただの中学生ではない。
彼が普段いるのは刑務所だ。本来十六歳以下は罪を犯しても少年院行きが普通である。だが彼は犯した罪とその異常性ゆえに、少年法を逸脱して刑務所行きとなった。
その罪は、『殺人』。
「怖いよなぁ。ある日突然恐怖が爆発して、そしてこんな、周囲をまきこんで。世界が一変する」
留三郎がいまだ叫び続ける子供の方へと進む。恐怖の境界線ぎりぎりに立って、子供に語りかけた。
現在、恐怖症のメカニズムは未だ解明されておらず、前触れもなく発症することが多い。
誰かが止めてやらねば、いつまでも恐怖は垂れ流されたまま。だから食満留三郎はここに来たのだ。あの哀れな子供を救うために。
その背を見つめながら、文次郎は顔を歪める。例え犯罪者であろうとも己の三分の一ほどの年の少年が、こんな地獄に立っていること。この場で笑っていられることの異常さ。
生真面目な性格の彼に、それを認められようはずもない。
それでも、文次郎は警部なのだ。市井の民を守るのが仕事だ。そのためなら、少年一人だって地獄に放り込む。だから呼んだ。現状、恐怖症疾患に対抗する、その最善手を。
「留三郎」
文次郎が留三郎に差し出したのは、一本のナイフ。それを留三郎は厭うことなく受け取った。右腕で握りしめ、先端をまっすぐ前に伸ばした左腕へ。
「怖いか? 怖いよな。世界は恐怖であふれている。――俺も怖いよ。
だからお前の恐怖と俺の恐怖、どちらがより怖いか」
ナイフを己が腕へ、迷いなくつきたてた。
「――勝負だっ」
血しぶきが舞う、筈だった。
しかし代わりに噴出するのは無数の、黒い、小さな群体だ。
皮膚を、筋肉を、ぶつ、ぶつ、ぶつ、とナイフでさらに引き裂いて、そうすれば塞ぐものを失った留三郎の“恐怖”は体の中から外へと飛び出してくる。
わさわさとせわしなく動く六本の足。嫌悪感をもよおす節くれだったそれが支えるのは、黒い胴。小指の先ほどしかない蜘蛛の群れ。無数に、無限に。
溢れて、地面に落ちて、わさわさ、わさわさ。路地を黒く埋め尽くして。
「俺の症状は集合恐怖症≪Ttypophobia≫。特に小さな虫が集まっているのが駄目でさ。それでガキん頃とか馬鹿にされてたよ」
誰だっけかな。すっごくムカつくヤツだったんだ。
呟いて、こてりと留三郎は首を傾げてみせた。けれどもすぐに思い直したらしく、一歩、一歩、少年の方へと歩み寄る。
「いまだって。普段は体内にいてくれるから動き回る感触だけで済んでいるんだ。いざ目にすると気絶しそうになる」
「それは困る」
背後の文次郎が腕組み。
恐怖症の発症、発言は発症者の意識がある限り続く。つまり意識さえ奪ってしまえば“集団幻覚”は収まるのである。
「活動時間のタイマーをセットした。留三郎、十分以内だ」
「助かる、伊作。そのまま残り時間確認しといてくれ」
蜘蛛の影響を受けないように、文次郎と伊作が後ろへさがっていく。
留三郎のくるぶしの高さまで嵩を増した蜘蛛の群れは、そのいくつかが留三郎の脚を這い上がり、這いまわる。
恐怖症を持たない文次郎が見ても怖気がした。ましてあの蜘蛛は、人を喰らうと聞く。
「喰らうなよ」
一応の、念押し。
恐怖症は、意識でもって制御の利くものではない。疾患者本人でもだ。人がなにかを恐怖することに理屈はなく。制御そのものが存在しない。
それでも殺すな、と文次郎は願うのだ。
たとえ留三郎が、レベル5:『殺人者』の恐怖症疾患患者なのだとしても。
留三郎が切り裂いた腕を振るう。蜘蛛の群れが、脈動するように波打って津波と化し、路地向こうの子供へと襲い掛かる。
上から覆いかぶさり、覆いつくす。――瞬間、津波の群れがはじけ飛んだ。ぱん、ぱんっと破裂音と共に、蜘蛛たちが宙を舞う。
「おい文次郎、対人恐怖症って言わなかったかっ!」
「接触恐怖症とも言っただろう。もっとも、人以外の接触はこれが初めてだが」
「人以外の、触れるもん全拒絶かよ」
弾き飛ばされた蜘蛛たちの破片が、こちら側まで飛んできて、文次郎たちの頭上からばらばらと降り注いでくる。伊作は「うわわっ」とさらに距離をとり、文次郎は義務感からその場から動かなかったものの…、手で払っても、払っても、無数の蜘蛛は尽きることがない。
自分たち以上に頭のてっぺんから悲惨な様の留三郎は、微動だにしていなかった。
「ははっ、いい様。文次郎、お前もなるか? 恐怖症」
「ごめん被る」
文次郎が口を開いた瞬間、その中に蜘蛛の破片が入ってきて路地に吐き出す。まったく、恐怖症疾患患者というやつは、すべからく常識の枠外だ。
この留三郎と知り合って長いが…。まだ少年だからと素直に同情してやれないのは、この異常性ゆえか。
「伊作、残り時間」
「六分――あまり遊ばないでね?」
そのくせ、その異常性には限界がある。恐怖症疾患の発作継続時間。
たいていその発症者は、己が恐怖をカタチにすると、その恐怖そのものに耐えきれず最後は気絶してしまう。そこまでの時間は発症者の胆力で個々に差があるが、留三郎の十分は長い方である。
気絶してしまえば発症者の異常は消える。
だが、向こうは暴走状態。留三郎は正気の状態。こちらの条件はすこぶる悪い。
「――――ァ」
路地の向こうで、子供が動いた。こっちに向かって、一歩踏み込んでくる。
「まずいな。患者が移動を開始する」
「潮江警部。さっきこの先の大通りを通って来たけれど、人通りは結構あった。
人の多い場所で恐怖症を振りまけば、被害が拡大する。その結果として症状の悪化、レベルの向上、――誰かの命を奪う事態になったら目もあてられない」
「わかっている」
発症レベル5。それは発症者がその恐怖症により他者の命を脅かす状態。レベル4では奪うまでいかないこの異常性が、明確に、殺意をもって振りまかれる。
こんな、子供に?
まだ小学生の子供に、そんなことが?
できてしまうのが、恐怖症である。そこに、理屈理論は関係がない。先にも言った。制御は、ない。
「させねぇよ。恐怖は当人のものだ。自分の恐怖で他人を殺してしまうなんてそんなこと、絶対にダメだ」
「留三郎」
「俺の恐怖症も複合だ。
集合恐怖症≪Ttypophobia≫と、そして恐怖恐怖症≪Phobophobia≫。本来は恐怖症を起こしかねない事象に対する、その須らくに反応する恐怖症。
ただ俺の場合は、恐怖症患者自身も対象になる。そしてだからこそ、俺は俺自身すら恐怖する」
恐怖恐怖症は常に留三郎の中で発症し続けていると聞く。合併症である集合恐怖症で生まれた蜘蛛たちが、留三郎の内側で蠢き、増え続けているのがその効果のひとつだ。集合恐怖症が、恐怖恐怖症によって促されている。
――それが、罰なのだと留三郎本人から聞いたのは、いつだったか。
だから自分の体に傷をつければ、即座に恐怖が排出される。おかげでタイムラグなく自分の意思で、外側に発症を促すことができるのが、留三郎の強みである。先ほどの、無限の蜘蛛たち。
そして、もう一つの強み。
恐怖恐怖症。こちらは逆に外側に出すには時間がかかる。恐怖症患者に向ける恐怖は、普段自分に向けて発症している。
それを表に出すためには、一端集合恐怖症の蜘蛛たちをすべて出し切る必要があるのだ。恐怖症を向ける対象を失って初めて、ソレは表にでてくる。
恐怖恐怖症の症状は、恐怖症患者に対してしか発言しない。
すでに体内の蜘蛛は出きっていた。
「俺は、恐怖症患者が怖い。ただなにかを恐れているだけのに。それが他人を傷つけ、しまいには殺してしまう」
留三郎もまた、子供の方へと歩いていく。恐怖の境界を越えて、相手の世界へと。じりじりと、その皮膚が焼けていく。酷い臭気がした。
子供が、ぴたりと足を止めた。近づいてくる留三郎を見て、そうして腕を広げる。
「た、た、た…」
地面に倒れ伏す、無数の人間。特殊部隊だという者たち、それに誰とも知れぬ男たちもいるけれど。それら交じって、彼の背後に彼と同じ年頃の子供たちの姿もある。無傷とはいえない様子だけれども、気絶しているようだけれども。――溶けているわけじゃない。
「助けて」
――こんなことがしたいんじゃない。誰かを傷つけたいわけじゃない。
――ただ、怖かっただけ。友達が、みんなが、傷つけられるのが、助けられないのが。
――向けられる暴力、恫喝。伸ばされる腕。それらが怖い。
――自分を、友達を傷つけるものが怖い。
――それでも、僕は。誰かを傷つけたいわけじゃない。
「うん、知っている。俺も怖いよ」
留三郎の歩みは止まらない。
少年の目の前まで来て、その肩に触れる。触れることができた。ただ、それだけ。留三郎の恐怖恐怖症は、他者の恐怖症を否定する。
「ありがとうございます。――やっぱり、先輩は優しいです」
「……先輩?」
平太の体がぐらりと傾いで、留三郎の腕の中に納まる。気絶したのだ。発症者が気絶すれば、症状もまた消える。
辺りから、腐臭が消えていく。
確かに溶けだしていた人々の体が、なにごともなかったかのように。
遠く大通りの方から人々の喧騒の声。いつも通りの日常。レベル4までは影響こそでるもののすべては“集団幻覚”の内側だ。
留三郎は腕の中の平太を横抱きに抱え上げる。伊作と文次郎がそれに駆け寄った。
「いま救急車を呼んだ。その子も、友達だろうそっちの子らもすぐ運んでくれる」
「ああ、文次郎。すまない」
「かまわん、これも仕事だ」
伊作が留三郎から平太を受け取ると、顔色を観察し、脈を診る。うん、と頷いた。問題ない、ということだろう。
「彼は目覚めたあと、記憶処理を受けることになるだろうね。
段階を踏まずいきなりのレベル4だ。やったことを顧みても、このままではショックが強い。あとは改めて、カウンセリングかな」
「伊作がやるのか?」
「え?」
「カウンセリング。資格持っているんだろう?」
「あ、ああ…、そっち。うん、そうだね。多分そうなるだろう」
伊作はうなずいて、文次郎と留三郎を交互に見た。
「子供は多感だよ、恐怖症も発症しやすい。再発もね。現代では、これが最良の対処療法だ」
まるで、自分に言い聞かせるように伊作は言った。
「だがレベル5まで行く前に沈められたのは良かった。レベル4を発症すると、5はあっという間だからな。そうなれば、流石に無罪放免とはいかん。――善法寺刑務官、お疲れ様です。」
「潮江警部こそ。いつもこんな現場に出されて大変ですね」
「仕事ですから。上が決めたことでもありますし」
「そうですか」
会話する大人たちを半眼に睨んで、留三郎がぼやく。一番の功労者は、彼であるはずだ。
「伊作、この生真面目男のことなんざ、気を使うだけ無駄だぞ?」
「お前な、年上は敬え」
「知らねぇ」
「まったく。――それだけの実力があるなら、いっそ全面協力の姿勢をみせればいいものを。政府所属の恐怖症患者は、レベル5でも恩赦があるというが?」
恩赦。それこそレベル5の殺人者でも無罪放免になるほどの。だが留三郎は首を振った。
「誘惑すんな、俺だって考えないわけじゃない。ただそれ以上に、俺は俺の恐怖に負けたくないんだ」
留三郎の顔は真摯だ。文次郎は内心で首を傾げる。こうして会えば会うほど、会話すれば会話するほどに、留三郎が人を殺したとは思えない。いや、恐怖症は制御できるものではないから、恐怖に飲まれて、というのもあるだろうけれども。
だがそれならばば書状酌量の余地はある。こうも自罰的なのはなぜなのか。
文次郎は、留三郎がどんな事件を起こしたのか知らない。
政府は恐怖症患者の情報を集めていながら、それを秘匿している。留三郎のようなレベル5は、刑務所という名の研究所に詰め込まれて、そこですべてが遮断されてしまうのだ。
表に出るのは、こういう彼らが必要となる事件のときだけ。
「なあ、文次郎」
「なんだ?」
「俺さ、さっきあの子に先輩って呼ばれたんだ。なんでだろうな」
伊作が、息を飲んだ。留三郎が苦笑する。文次郎は、己のこめかみを抑えた。――痛い。
「あと、さ。ごめん、そろそろ限界」
そう言い残して、留三郎は後ろ向きへ倒れていく。慌ててその体を文次郎は支えた。思ったよりも小さな体だ。いや、年相応の体だろう。けれど、小さい。
「……?」
「潮江警部?」
「あ、いえ。思いのほか、負荷が大きかったようですね」
ええ。と伊作はうなずいた。「護送車に彼を運んでください」と文次郎にお願いして、伊作は平太を抱えたまま他の気絶者たちの様子を診に行く。
その背を見つめながら、こめかみが軋むように痛んだ。
違和感、違和感、違和感。
どこに、なにに、どれに。
「俺も、疲れているのか」
留三郎の体を横抱きにして、護送車に近づいた。扉を開けば、誰もいないと思ったそこに、一人の男が腰を下ろしている。
扉の鍵は開いていた。この護送車が乗せるのは殺人犯ばかりだ。なんと、危機感のない。
「久しいな文次郎」
男、と思ったのはその体格からだ。顔は、見えない。そこにあるのに、見えてこない。
「恐怖症患者か」
「醜形恐怖症≪Dysmorphophobia≫でな。顔が無いのだ」
「醜形…」
なぜだろう、違和感がある。そもそもコレは久しいと文次郎を呼んだか。しかし文次郎は、こんな顔無し男を知らない。顔が見えないから歳もわからない。
違和感、違和感、違和感。
「お前の顔は、美しいだろう」
気が付けば、そんなことを口走っていた。
「うむ、いい返しだ。ではご褒美にひとつ。私の顔はここにはない。世界の裏側にあり、常にそこを見つめている。
お前がかつていた場所だよ、潮江文次郎」
「……?」
「ご褒美はここまで。留三郎をこちらに寄越してくれ、ソレの胆力は大したものだが、一度気力が切れるとなかなか復活しない」
逆らえない圧を感じて、顔無しの男に留三郎を引き渡す。彼はそれを、大事そうに抱きしめた。
「私が思うにだが、この世界を今のカタチに造った何者かは、とても慈悲深くて優しい奴なのだろう。
よく言うだろう? 『人の痛みを理解できる人間になりなさい』とな。今の世界がそれだ。他人の恐怖、苦しみ、悲しみ、それをみんなで感じることができる世界。
なあ文次郎、思い出してみろ。
私たちが子供の頃、世界は本当にこんな形だったか?」
また、こめかみの痛みがぶりかえしてくる。意識せず、文次郎の腕が留三郎へと伸びる。そこへ、行かなければ。それに、触れなければ。それの。
『おーい、○○○っ! 勝負だぁ‼』
文次郎は首を振る。
誰の声だ。いつの。
「ふむ、ひとつと言いながらご褒美を上げすぎた感があるな。そろそろ本当に口を噤まねばな。なに、生きていればまた会える。少なくともお前の周りに、死は起きない」
レベル4程の被害が出ていながら、本当に現実の被害が残らないなんてことがあるだろうか。そこに、恣意を感じるのはおかしいか。
例えば、なぜ同じ恐怖症疾患対策本部に所属していながら、文次郎だけ特殊装備が与えられていないのだ、とか。
「さあ、そこを閉めてくれ。未だ私たちとお前の世界は隔たれたまま。一度はこちら側だったのが、お前があまりにコレを求めるから、結果としてお前たちだけがこちら側に残された。
――次はお前の手で、扉を開いてくれよ?」
今だって、この護送車の扉を開いたのは文次郎である。だが、だが。
文次郎は無言で護送車の扉を閉める。その向こうに、顔の無い男と留三郎の姿が消えていく。その向こうにはまだ、この手は届かない。
少し離れた場所で、伊作の呟きが風に乗って届いた。
「流石、死体恐怖症≪Necrophobia≫と死恐怖症≪Thanatophobia≫の合併症。本当に人が死なないや。
当人が一度殺されたからなのか。あるいはもう、殺させないためなのか」
――さあな、誰かさんのせいで忘れちまったよ。