泥中蓮華 ――自分たちは、地獄の住民なのだろう。
それは、戦で焼き尽くされた村だった。
死と燃えカスの臭いが、辺りに充満している。地面は黒々とした炭と灰で覆われ、ところどころ硝子化した砂や岩石が陽光を反射していた。
みすぼらしく乱立するのは、炭化した木材。…家だったころの名残。
あちこち転がる骸も、すべて真っ黒こげ。なにかを求めるように突き出した腕は、なにも掴めず虚空に触れていた。
黒、黒、黒。黒ばかりの大地。――頭上だけは憎々しくも清々しいほどの青空と白雲。
そんな地獄のような光景に、旅商人姿の男がひとり佇んでいる。――食満留三郎。
忍術学園を卒業してより数年、やや精悍さを増した青年は無表情にこの場を眺め、その空気を吸い込む。――肺を焼く熱気に咽込んだ。
(遅かったか…)
未だこの地に燻る熱は、皮膚からもじわじわと侵食してくる。この村の住民がどれほど苦しんだのか、熱かったのか、無念であったのか、知らしめるようだった。
周りを山で覆われた、小さな村だ。逃げ場はなく、火で囲まれればひとたまりもなかっただろう。
生存者は、いないのか。
いる筈はない。
そうわかっていながら、村の奥へと駆ける。
かくして、生存者はいた。
村の裏口付近。他の骸たちに守られるように、中心にひとつの骸。村から脱出する最中だったのかもしれない。その骸にすがるように蹲る、子供が一人。
質素な成りだが、生きた者の色彩はこの“黒”ばかりの世界において鮮烈だった。
「童」
留三郎が呼びかければ、子供が勢いよく振り向いた。すがりついた骸のものだろう煤で顔を汚しているが…、おそらくは数え十歳ぐらい。男の子だった。
ふと、忍術学園を卒業前に見た、後輩たちの顔が思い浮かんだ。
「その人は…」
「……おっ母ぁ」
子供が縋りついていた骸を示せば、彼はそう答えた。熱気に焼かれたせいだろうか、その目は涙を浮かべて光っている。
留三郎がさらに子供に近づけば、子供は警戒するように体を縮めた。
「お前は、この村の子供か?」
子供は小さく頷いた。
「……近くに、頼る親類はいるのか?」
今度は小さく首を振った。
留三郎はしばし逡巡した。――さて、どうするべきか。
「おいで」
頭が決めるより先に、体が動く。幼い子供に向けて、手を伸ばした。
「俺は見ての通り、旅の商人だ。山奥に村があると人伝てに聞き、商売の話をするためにやってきたんだが…。まあ、ご覧の有様ではなぁ」
わざとおどけてみせて。心底困りましたというように肩をすくめて。
「ま、いまさら俺のことはどうでもいい」
手を差し伸べたまま、子供と目線を合わせるように地面に膝をついた。
「お前を保護してくれる場所を探そう」、と優しく語り掛ければ、子供のくりくりした目が留三郎をまっすぐに捕らえている。
――馬鹿なことを。厄介事だぞ。と、脳内の冷静な誰かが訴えた。
子供が、おずおずと留三郎の方へと近づいて、そうして手を握った。柔らかな手に、肉刺の硬さがあった。
「おっ父ぉ」
「違ぇ」
子供が、留三郎を見上げてにっこり笑う。愛嬌のある笑みだ。困り眉が庇護欲を誘う顔立ちだった。
しかし、誰が「おっ父ぉ」だ。流石の留三郎も十の子供を持つにはまだ早い。
だと言うのに、子供は得られた庇護者に「おっ父ぉ」「おっ父ぉ」と嬉しそうに懐く。
やれやれ。子供に気づかれない程度に、留三郎は己に向けて嘆息する。
できるなら、この村の骸たちに墓を建ててやりたい。しかし、この村を襲った何某かが戻ってくる可能性もいなめない。――留三郎は無言で、子供を握る手に力をこめた。
あと単純に、留三郎ひとりで村一つ分の規模の墓は無理である。
留三郎は、子供が縋っていた骸に一礼する。
まろみのある遺体が、それが確かに女であることを示していた。腹は裂けて真っ赤な胎をさらしている。へその緒をつけた赤子が冷たく硬く丸まって、表へと飛び出していた。
戦国の始まりは、室町中期の応仁の乱から始まる。このころ留三郎はまだ生まれてもいない。そして留三郎が物心ついたころには、戦は世の常であった。父や兄たちが戦に赴き、華々しい武勇伝を幾度も聞いた。
同時に、焼け出された村人や傷ついた武者が炊き出しに集まる様を何度も見た。
だが、それらは家の外と内ほどに隔てられて、留三郎に世の無情さを実感させなかった。
留三郎の家族は、遅れて生まれた三男坊を慈しんだ。
忍術学園という今世でもっとも安全な場所に、わざわざ高い資金をかけて預けられたことを顧みてもそうだ。
かの地で出会った尊敬できる教師たち、頼りになる先輩、優しい後輩、そして苦楽を共にした同期たち。与えられるのは実用性高い教育、好きなだけ吸収できる知恵、知識、技術。飢えを知らず、医療は万全、遊ぶことすら自由に。
世間では考えられぬほど、留三郎は大切に育てられたのだ
だが、成人すれば守られるばかりの時間は終わる。留三郎も、いつまでも実家の世話になるつもりはなかった。
もっとも留三郎の家族は、もし己が生活苦や傷病などで実家を頼ったのならば、心置きなく歓迎してくれるだろう。学園とて同じだ。卒業後とて道に迷えば適切な指導と助言をくれる筈である。
留三郎の人生は常に、“当たり前”の愛情。“当たり前”の安全。“当たり前”の温り、“当たり前”の優しさがあった。
留三郎の周りにはいつだって、本来人の世にあってしかるべき『正しさ』が揃っていたのだ。
――それにひきかえ、己自身は。
独り立ちして。
己の身一つで生きていくと決めて。己がどれだけ恵まれているかを思い知った。
しょせん知識として知ってはいても、身をもって実感することはまったく違うのだ。
拾った子供をどこに預けるか。これはけっこう難儀した。戦ばかりの明日をも知れぬ世の中だ。どこの村もよそ者の子供ひとり、引き受ける余裕がない。寺はすでに孤児たちで満員。商屋に働き手として受け入れられないか頼んでも、伝手がなければ無理だと突っぱねられる。たまに受け入れ先が現れても、子供の方が逃げてきてしまった。
「おっ父ぉ、もっと遠くへ行こう。ここではない、もっと遠くへ」
そう、子供は留三郎に言い縋った。
子供の言い分は、分かる気がする。どこへ行っても、戦、戦、戦。加えて災害、飢饉、病と世の災禍は枚挙にいとまがない。荒廃した社会は荒廃した人心を育て、退廃的に、排他的に、より利己的に。
留三郎の子供時代のような、安心して過ごせる場所がない。
だから遠くへ、もっともっと遠くへ。戦の無い、どこか遠くへ。ただの子供が“当たり前”を甘受できる場所へ…。
だが、いつまでも子供と一緒に旅を続けられないのも事実だ。旅商人を装っていても、留三郎の本業は忍びだ。子供連れでは仕事もできない。
――幾つめの村、幾つめの町を通り過ぎ、幾度目かの野宿。
子供は今、焚火に下げた鍋の中をかきまわしている。時折火力を見て、枯れ枝を追加する手つきは慣れたものだ。
森を覆う夜の暗闇、火の灯り、それらが子供に年相応らしからぬ影を与えている。今、彼は何を思っているのだろうか。
子供は切り詰めた生活でも文句ひとつ言わなかった。むしろ率先して炊事や洗濯を行い、万事器用に立ち回る。村で出会ったころ顔を汚していた炭を落とせば、なかなか整った顔がでてきたから、落ち着くところに落ち着けば、そこそこ可愛がってもらえるだろうに……。
「とはいえ、流石に稚児趣味の寺には預けられんが」
そこならば、涎を垂らして受け入れてくれただろうけれども。などと思いつつ、留三郎は内心で舌を突き出した。
子供との旅は、そろそろ一か月を迎えようとしている。
子供は自分の身の上を殆ど語りたがらなかった。父親のことも、母親のことも。村のことを聞くと「善いひとたちだった」と、ぽつりと呟くぐらい。
ただ留三郎については知りたがった。こちらも当たり障りない程度に語ってやると、子供は俄然興味を覚えたらしかった。
……慈しんでくれた家族、切磋琢磨した友ら、自由に学び遊べる学舎。
「おっ父ぉ」
子供が、鍋をかきまわす手を止めぬまま留三郎を呼ぶ。
「おっ父ぉ、明日はどこへ行く?」
「父親じゃないって…。――そうだな、もう少し西へ行くか」
「遠くか?」
「そうだな、もっと遠くだ」
「そうか、おっ父ぉとならどこまでも行けるな」
「だから、おっ父ぉじゃない」
このやりとりも、幾度目か。いったい、留三郎のどこに父性を見出したのか。せめてはそこは、「兄ぃ」とかで留めておいて欲しい。
お互い、名乗ってはいない。どうせいずれ別れる付き合いだ。留三郎から名乗るつもりはなく、そして子供の名前を聞くつもりもなかった。
……子供は、留三郎の名を聞きたがったけれども。
頭上で、名も知らぬ鳥が鳴いている。
風が梢の囁きを促していた。
虫たちはなぜか、息をひそめている。――がさ、がさ。背後の草むらが揺れる音に、とっさに留三郎は身構えた。
こんなに近くに人が来るまで、気づかないなどと……。
「――留三郎」
聞こえて来た声は、懐かしくも覚えがあるものだった。ならば、物音をたてたのはわざとだろう。背後の草むらをかき分け現れたのは、暗色の忍び装束の男。口元を覆う布を下げればやや雄臭い顔立ちが覗く。
その姿を上から下かを眺め見て、留三郎はちらりと子供の様子を伺った。
子供は突然の闖入者に体を固めている。
「知った声が聞こえると思って来てみれば、またずいぶんと久しいな」
潮江文次郎。忍術学園の同期であり、卒業後に留三郎とは別の城に仕え、そして着々と名をあげているというこの男。
「いつの間に子供なんぞこさえた。子連れの野宿は関心せんぞ?」
「金がないんだ。子連れだからこそ、切り詰めるところは切り詰めないとだな…」
改めて、文次郎の顔を見上げる。彼との関係は、いい加減腐れ縁だ。
卒業後、ちょくちょく顔を合わせることもあれば、数か月単位で空くこともあるが、今日に至るまでお互いの関係は途切れていない。
ちなみに今回は後者のほうだ。また少し、背が伸びたか。体の厚みも増した気がする。
「お前こそ、こんなところでなにをしている?」
「見ての通りだが?」
文次郎はおどけるように、両腕を広げて己の恰好を示して見せた。――ああ、そうかよ。
留三郎の表情に何を見たのか、ニヤリと笑って、そうして断りもなく焚火の傍に腰を下ろす。ちょうど子供と留三郎の間に身を置いた形だ。子供が静かに文次郎と距離をとって、焚火の外周に沿うようにして留三郎の方へと近づいた。
「留三郎。最近お前の噂を聞かんが、どこでなにをしていた?」
「普通に、諸国漫遊」
「小平太みたいなことを言いやがる」
く、く。喉を鳴らして文次郎は笑った。
気難しい顔立ちの男だが、親しんでみればそれなりに愛嬌もある。学園時代から喧嘩ばかりの自分たちだが、こうやって穏やかに会話したことがないわけではない。
「お前、いっそうちで雇われるか?」
「お前と一緒の勤め先なんざ、心底御免だ」
「そう言うだろうなぁ」
子供がさらに、留三郎の方へと近づいてきた。
「というか文次郎。お前このまま居座るつもりかよ」
「駄目か?」
「……せめて働け。この先に川があるから、水の追加を頼む」
「ああ、任せておけ」
竹筒を差し出せば、文次郎はあっさりと受け取る。そうして立ち上がるとわざわざ己から遠い位置に腰かける子供の襟首を、流れるような動作で掴んだ。
「お前も手伝え」
留める言葉も、抵抗する隙も与えず。顔だけは穏やかな笑みを浮かべ、子供ともども文次郎の姿が森の向こうへと消えていく。
――遠くで、悲鳴が聞こえた。
留三郎は静かに目を閉じた。
くつくつ。汁が茹る音に目を開く。数秒鍋の様子を眺めてから、留三郎は子供が握っていたお玉匙に手を伸ばした。持ち手がぬくいのは、子供の熱か、鍋の熱か。
ごんっ、とすぐそばの木の幹が蹴りつけられて、頭上からぱらぱら葉が降ってきた。
「――留三郎」
先ほどまでの穏やかな雰囲気はどこへやら。姿を消した方角から再度現れた文次郎は、彼一人だけそこに在り、傍の木に片足を蹴りつけたまま留三郎を睨みつけている。
気難しくゆがめられた顔、咎めるようなそれ。もう隠しもしない機嫌の悪さに、鍋に葉が入らないよう払いながら留三郎は嘆息した。
「てめぇ、あのガキに殺されるつもりじゃなかっただろうな」
「ああ…、やっぱり忍びの子だったんだな」
ごんっ。もう一回。
確かこの男は、留三郎よりよほど育ちがいいはずだ。留三郎の家には富があったが、文次郎の家には格があった。ゆえにしつけ、礼儀は相応。
それが随分と足癖の悪いことをするものだ。それだけ、苛立っているのか。
「殺したか?」
「気絶させて待機している仲間に引き渡した」
「そう、か」
留三郎は周りを伺う。気配は感じないが…、さて。
留三郎の反応に、気の無い風を感じたのだろう。文次郎はずかずかと留三郎の元へ歩み寄ると、袂を掴み上げた。尻が地面から浮く。
「お前の所属する忍び里は、アレに潜り込まれてやられたんだろうが」
――間諜。
そうなのだろう。あの子供は、骸たちに守られた一つの骸を「おっ母ぁ」と言ったけれども。そんなことはありえないのだ。
あの村に、子供をはらんだ女は一人しかいないはずだ。そしてあの頃あの御方には、腹に抱えた胎児以外に子はいなかった。かつて、男子を流行り病で亡くしたぐらい。ちょうど、十歳だったと聞く。
さる城の奥方様と、その世継ぎ。その城はとうに落ちて、城に仕える忍び達の里で隠され、守られていた。
留三郎がみつけたとき骸の上にうずくまっていたのは、その中身が確実に死んでいることを確かめるためだ。その腹を裂き、胎から胎児を取り出し、投げ捨てた。
おそらく火事の最中は隠れていたであろう。そして火が収まった後、最後の始末をした。
わずか、十の子供が……。そういう忍務を受けた、忍びが。
「落ち延び者など、放っておけばいいのにな」
「バカタレ、それでも胎に居るのは嫡男だ。だから忍び里に囲われ、守られていた。攻めるに硬く、道は限られ、罠が蔓延り、猛者も多い。
だから子供の間諜が潜りこまされた。村の配置、どのような猛者がいるか、罠はどこにあるか、調べ尽くしてから味方を誘導する。あとはその味方が村丸ごと焼き尽くして終い」
「――まだ、十歳だぞ?」
「十歳でも、教え込めば相応の働きをする。忍術学園の一年生でも、それなりの実践経験は持つ」
「今の戦国を、なんだと思っている」。静かに、怒りすら込めて文次郎は言った。その怒りは、どこへ向けたものだろう。あの村を…、留三郎が所属していた忍びの里が落ちる元凶となった子供を、普通に連れ歩いていた留三郎に対してもあるけれども。
あんな子供すら戦の道具にした敵国に対して。
あるいは子供すら巻き込まずにはいられない戦国の世へ。
優しいこの男だ、きっと全部だ。
「よく、こちらの事情を調べたな」
「お前の城を落とした国が、今相手取っているのがウチだ。諜報活動に関しては、向こうが上手だ。“正しい”上手じゃない。子供を、女を、弱者を使い、相手の情を利用して確実に懐に忍び込んでくる。なにであれ、隙間を見つければそこを突いてくる。
正道を意識していては、絶対に勝てない相手だ。向こうは嬉々として裏手を使ってくる」
知っている。こちらの城もそれにやられた。
虐殺、強奪、流言、誘惑、先導。じっくり煮込むように権謀と謀略でこちらの民と兵の不安と不満を煽り、精神的に疲労が蓄積したところを一気に大軍で攻め入って来る。最後には籠城戦のうえ内部崩壊ときた。
大殿は従者共々、降伏と交渉の場で首を撥ねられて終い。その晒し首は、周辺諸国のいい笑い種だ。
たとえ相手のやり口がどんなに悪辣なものであれ、敗北すればそこまでなのだ。いくら“正しさ”を訴えたところで、勝ち残らなければ一寸の意味も価値もない。そして絶えてしまえば訴えることもできない。
「ああ、地獄だな…」
留三郎は、殿の奥方様についてはさほど知らない。忍び里に関しても、一、二度足を踏み入れたことがあるぐらいだ。基本、城仕え、外回りの役割を受けていた。
だから城が落ちたときは外にいたし、落ちた後は同じく生き延びた頭領の命の元、御家再興のため殿や奥方様の親族を頼って方々を駆けていた。
時折届く命令書に、たかが一介の忍び相手に忍び里の詳細など書かれているはずもなく、あの子供がどういった経緯で里に入りこみ、生活していたかも知らない。
あの日留三郎が忍び里に向かったのは、頭領から里への召集の手紙が届いたからだ。
そこには、――里が狙われている、すぐ戻れ、とだけ記されていた。
そうやって戻って、間に合った者はあの場で死んだのだろう。間に合わなかった者は、留三郎のように行く当てを失っているのであろう。
子供は、己のせいで死んだ村人たちのことを「善いひとたちだった」と言った。己の父母については語らずとも、ただ一時身を預けた村の民を、「善いひと」と。
「聞いた話だが…、奥方様は胎の子の前に、流行り病で男子をひとり、亡くしておられたんだそうだ。ちょうど、十歳だったと…」
「……」
「あの子供が、奥方様にどうやって遭遇せしめたかはわからんが…。奥方様が、あの子供に情を覚えたんだろうな。だから、村で受け入れた」
あの村で一番偉いのは、殿の正室であられた奥方様だ。だから、奥方様が良しとすれば受け入れざるを得ない。
もとより整った顔立ちに、要領のよい性格。どこの組織でも受け入れられやすく、意図して“形づくられた”であろう、あの子供。
無論、忍び里の忍び達が、それに気づかなかったはずはないけれども。相応に、警戒はしていただろうけれども。あの子供だって、己の役割がどんなものかは自覚していただろうけれども。
そのうえで彼はあの村を、「善いひとたちだった」と言ったのだ。
留三郎は、唇を噛みしめた。
あの言葉の意味を考えれば考えるほど、胸が痛くなる。
あるいは、奥方様の骸に縋っていた子供の、あの目。涙を浮かべていたのは、熱で焼かれたからではなく、……本当に。
「文次郎」
留三郎は己の袂を掴む文次郎の手に己のそれを沿えて、するすると腕をつたい、掴まれている袂と逆の袂を開いて見せた。
「頼む、あの子にあまり酷いことをしないでやってくれ」
たとえ子供でも。忍びの教えを受けているならば、それだけで情報の宝庫である。どのような場所でどのような教育を受けたか。その場所に、どんな顔が揃っていたか。
人と対峙するときどう反応し、どう語り掛けるのか。戦い方は? 身の守り方は? 技術は? 当人がなにも知らされていないつもりでも、生きてそこに在るだけで価値がある。
文次郎は留三郎の開かれた胸板を見て、そうして顔を見合わせた。最初の表情は瞠目。次いで、明確な蔑み。侮蔑。――ああ。
「留三郎。お前、この時代に自分ひとりが善人ででもあるつもりか?」
唾棄するように、文次郎は言った。留三郎は笑う。婀娜めいて見えただろう。さらに、胸元を開いて。
「頼む。お前の立場ならそれが可能なんじゃないか?」
この男ならとうに信頼を得て、ある程度の采配も許されているはずだ。実際、噂に聞くも、再会するたびに当人から聞くも、彼の出世が順調であることが知れた。
「アレを、恨まんのか」
「それでも、子供だから」
すこしでも、あの子の周りに“正しさ”を。この、地獄の世界で。
あるいは、里の者たちが、奥方様が、彼に与えたかもしれないその続きを。
子供のころ、留三郎は“正しさ”の中にあった。留三郎の子供時代には、それが当たり前だった。
偽善であれ、虚実であれ、自己満足であれ。この地獄に、せめて留三郎の周りの子供には、“正しさ”を与えたい。
けれども今の世で、留三郎にそれはできないことなのだ。――できるのは。
「その自己犠牲は、反吐がでる」
「ああ、頼む」
反吐で上等。己は、反吐に値する。所詮己は地獄の住人だ。どこへ行っても、戦、戦、戦。仕えていた城が落ち、忍びの里も落ちたのならば、今の留三郎に行く当てはないが。それでも忍び家業を止めることはない。止めるつもりも、ない。
文次郎が留三郎の袂から手を離し、森の向こうにむけて口笛を吹いた。短く鋭いそれに、同じ音が返される。やはり、まだ仲間がいたらしい。
「すまん」
「別に。子供の説得と懐柔は、昔から飴が定石と決まっている」
「……お前は、“正しい”男だなぁ」
こんな反吐のような男に頼られて尚、清く、強く、正しい。
己では、“正しさ”を与えてはやれないけれども、文次郎なら、それができる。
留三郎は、文次郎の首に腕を回した。この腕の中に、今の世の“正しさ”がある。酷く、薄暗い喜びが胸に満ちた。あるいは文次郎に拒絶され、突き飛ばされても、留三郎は悦んだだろう。
強く、美しい男の腕が、留三郎のそれに応える。――ああ、我が“正義”。
開いた鎖骨に噛みつかれ、鈍痛と共に赤いしずくが垂れ流れる感触にすら、悦があった。
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また更に艶が増したな。――己が下で喘ぐ男に、文次郎はほくそ笑み。
見下すように睨みつけてやれば。
揶揄と罵りの言葉を与えてやれば。
乱暴に、その身を扱ってやれば。
月の光もささぬ薄暗い森の中で、白い裸身をさらす男は、文次郎の手管ひとつひとつにその身を悦びでゆらめかせた。
この男は、再会するたびに艶を増す。
それは戦国の世が騒々しさを増すたびに、彼の仕える城がおちるたびに、この世の地獄が増えるたびに。
まるで世界の汚泥にまみれ、そこで咲く蓮の花のごとく。
ああ、美しい。
あの、子供。
留三郎が連れていた、敵軍に間諜として育てられたあの子供。
あれとて本来の役割を考えるなら、留三郎もその手にかけなければならなかったのではないか。
妊婦の腹すら裂いてみせる子供だ。同道者一人、手にかけられぬはずはない。実際、文次郎が川に連れ出せば、二人きりになった途端刃物を抜いたのである。子供ながらに、それだけ覚悟が決まっていたのだ。ある意味、留三郎より余程忍びとしての適性があるだろう。
まあ、文次郎も相手を煽る意味で、わざわざ忍び装束のまま姿を現したのだけれども。
ここ数日、あの子供と留三郎は見張られていた。
正確にはあの子供を探していたら、留三郎が傍に居たのだ。彼の仕えていた城が滅んだのは知っていたが、あまりの巡り合わせに流石の文次郎も頭を抱えたし、そして笑えもした。
もう少し事情を遡ると、敵対した国に滅ぼされた国の奥方が生き延び、胎に世継ぎがいるらしいと知った。男か女かはわからぬが、御家再興の手助けを餌に向こうの忍び部隊を抱き込む算段もあった。
結果的に後手に回ったのは、それだけ相手の諜報が優れていたからこそだ。それほど今文次郎が所属する城が相手取るのは、万事に油断なく容赦のない国なのである。
そこで育てられた子供が、忍び仕事を見事に完遂した子供が。しかし、留三郎は手にかけなかった。彼を「父」と呼んだのは、子供の身に着けた忍び術のひとつだろう。そうやって情に訴え、相手の懐に潜り込む。だが子供はそこまでしながら、留三郎と一緒にただ遠くを目指した。
きっと道中、あの子供も留三郎の美しさに惹かれたのだ。
昔から、留三郎は自然とそれをやってのける。“当たり前”を“当たり前”に断じ、“正しさ”を“正しさ”のまま与えようとする。傍にいればいるほど、それを甘受できる。
常識から外れた者。社会通念から逸れた者ほど、留三郎に引き付けられるのだ。
この戦国の世でも。地獄の世でも。ここまで変わらず在れる者は少なかろう。それはもちろん、今の時代では偽善に過ぎない。ただの綺麗ごとだ。彼自身にその綺麗ごとを実現できる手段がないのならば、もう自己満足でしかない。
だが尚、留三郎は変わろうとしない。”正しさ”を求めて、汚泥の中で一際美しく輝く。――ああ。
「俺のものだ」
いくらでも、自由に生きさせてやるとも。好きなようにこの地獄を歩めばいい。地獄を彷徨えば彷徨うほど、お前は美しさを増す。
年々、留三郎に対する執着が増すことを、文次郎は自覚していた。
外れた者、逸れた者。文次郎も例外ではないのだろう。なにせ今の世で、最前戦で動き回っているのだ。――いっそ己こそ、汚泥そのものではなかろうか。
「――文次郎?」
「……」
手が止まっていたらしい。留三郎が伺うように文次郎を見上げている。潤んだ目、上気した肌、そのすべてに欲が煽られる。
けれどもそれは理性で留めて、あえて冷たく、あえて乱暴に手を伸ばした。
「文次郎。――ああ、俺の“正義”」
腕の中で、美しい花があえかに香る。
己を抱くのが汚泥と気づきもせず、愛し気に、誇らしく、縋る。その姿を掻き抱き、薄暗い愉悦にひたりながら、花を、犯す。
夜明けは、まだまだ遠かった。