フィガロ先生の腰が痛い話「フィガロ先生! もう朝ですよ、起きてください! あっ、寝返りを打たないでくださいってば!」
ドアのノックもそこそこに部屋に入り込んできたミチルの怒鳴り声に、目を閉じたまま思わず口角を上げる。もう少し平和な一日の始まりを噛み締めていたかったのだが、布団を引っぺがされた事で観念した。
「はいはい、分かったよ。おはようミチル」
いつも全力で起こしてくれる可愛い生徒の頭を撫でながら上半身を起こすと、片腕を取られて立ち上がらされる。もう随分前から起きて活動を始めているのだろうミチルの足取りは軽くすぐに部屋から連れだそうとするから、その直前で指を一振りして服を着替えた。いつもの白衣に聴診器を下げた格好で廊下に出ると、そこにはルチルとレノックスの姿もあって南の国の魔法使い勢揃いだ。
「あれ、今日は任務に出かける日だったかな?」
記憶にないスケジュールに首を傾げると、ルチルが柔らかい声で「違いますよ」と否定してくれる。
「偶然同じタイミングで三人が部屋のドアを開けたんです。なんだか楽しくなって、フィガロ先生も呼ぼうって」
「仲間はずれにしないでくれてありがとう」
南の国の人々のこういう所が好きだなと本心から思うのだ。見落としてしまいそうな小さな幸せを掬い上げ、他者に共有しようとする。それはやろうと思って出来る事では無い。それをごく自然に行ってしまう彼らに笑顔が零れた。
「朝ご飯は何でしょうね。昨日はパンプティングだったから、しょっぱい系かもしれません」
「今日は焼き魚の筈だ。昨日釣って来た魚をネロに持っていったから」
「あら、煮魚の可能性もありますよ」
扉を開ければ答えが出てくるというのに朝食のメニューで盛り上がっている彼らの三歩後ろにくっついて歩く。まるで親鳥を追う雛になった気分でいたが、突如感じた体の違和感に腰を曲げた。
「いたた……」
小さくだが漏れてしまった声に前を歩く三人が振り返ると、腰に手を当てている俺と目が合う。
「フィガロ先生、腰痛ですか?」
ルチルが驚いた声を上げて、ミチルが駆け寄って心配そうに見上げてくる。そして近所に住んでいたおじいさんにしていたように腰をさすろうとするから、やんわりと断った。流石に老人と一緒にされては堪らない……おじいさんよりも年上なのは確実だが。
「大丈夫だよ、暫く経てば治るから。うーん、ちょっと使い過ぎちゃったかな」
「昨日力仕事とかしましたっけ? 魔法舎では畑仕事も無いですし……書庫の整理もしてませんよね」
「昼間は僕達に魔法を教えてくれていましたけれど、夜に何かあったんですか? 危ない事とかしてないですよね?」
真剣に原因を考えてくれているルチルとミチルには悪いが、「どうだったろうね」とはぐらかす事しか出来ない。腰を上下にさすりながら我先にと食堂の扉に手を付いた。
まさかミチルの前で正直に本当の話は出来ないし、嘘に嘘を重ねるのも得策では無い事くらい解っている。うっかり漏らしてしまったら大変だ。怒られるならともかく、嫌われるのは堪らない。声を出してしまった自分が悪かったのだが、ズキリとした痛みに気付いたら声が漏れてしまったのだ。しかしそれは痛いから発せられたのでは無くて、小さな幸せに気付いてしまった声だった。
「……腰痛くらい、フィガロ先生なら魔法で治せますよね?」
そう耳元で囁いたレノックスは原因に検討が付いているのだろう。じとっとした視線が痛いが、笑うしか無い。
「治したくない痛みもある事に気が付いたんだよ」
ふふ、と笑うと呆れたような溜息が斜め上から降ってくる。
――昨日のファウストは珍しくテンションを上げていて、普段は嫌がりそうなのに繋がったまま抱き上げたら愉快そうに笑っていた。直前までシャイロックのバーで酒を飲んでいたせいかもしれない。積極的というよりもただただ楽しそうだった。まるでカボチャの馬車に乗った少女のような、廻る木馬に跨がっている子供のようなはしゃぎように俺の方も楽しい気分になっていた。張り切ってしまった、なんて言葉はおっさんくさいのかもしれないが、正に言葉の通りだ。細いが幼子に比べれば十分に体重のある男を抱き上げたまま、長時間に渡って腰を使った結果がこれだ。
「全く、あなたって人は……口元緩んでますよ」
「はは、仕方ないでしょ、真顔じゃいられないよ」
以前、情交の痕跡をファウストが眠っている間に消した事を酷く怒られた事がある。身体中に残る鬱血痕に、体液で汚れた寝具、それから受け入れた体内も……そのまま朝を迎えたいのだと真面目な顔をして訴えられた。その理由が今は解る事が嬉しい。
ああ腰が痛いと嘆くくらいが幸せなのだ。