ルチルから見たフィガロ先生の話 ひょっこりと扉の隙間から顔を覗かせると、診療所の主であるフィガロ先生は安心させるような笑顔を浮かべて手招きをしてくれた。部屋に入ると音を立てないように慎重にベッドに近付く。するとさっきまで真っ赤な顔をして息を切らしていた弟が安らかな表情をして眠っているのが見えた。ようやくほっと息を吐くと、力が抜けたのかその場でしゃがみ込みそうになった。
「深く眠っているみたいだ。もう心配しなくて大丈夫だよ」
昨日の夜はいつも通りだったのに、朝目が覚めたら額が沸騰したポットのようだったミチルをおぶってフィガロの診療所を訪ねたのはつい先程の事。幼い子どもはしょっちゅう熱を出すとはいえ、ミチルの事となると一抹の不安が過るのだ。もしもの時の事を想像すると心底恐ろしくて手足が震えたというのに、あっという間にフィガロ先生は安心感をくれる。
「やっぱりフィガロ先生は凄いです。私もミチルを助けられれば良いのに……」
フィガロ先生は笑いながら「すぐには無理だけど、ちょっとずつ教えるよ」と言いながら腰を上げた。
「隣の部屋に移動しようか、おしゃべりするならお茶とお菓子が必要でしょ?」
知り合いの誰よりも綺麗なウインクに少しだけ笑ってから、フィガロ先生の後を付いていった。
コポコポと注がれる透明なガラスのティーポットの中には何の植物かは分からないが乾燥させた茶葉が踊っている。花弁も混ざっているそれは、フィガロ先生の特製ブレンドティーらしい。時々そうやって出されるお茶は大抵苦くて、多分薬草が主な材料なんだろう。
「不安だったろうに、よくミチルをここまで運んできたね。箒の操縦が上手くなったんじゃない?」
「実はずっと特訓してるんです。他の魔法は全然ですけれど、箒は自信ありますよ!」
聞くところによると物心つく前から箒が遊び道具だったらしく、呪文を唱えるより先に空を飛ぶ事を覚えた。飛行法は母さまから教わった数少ない魔法の一つだ。それに空を飛ぶ事は単純に楽しい。上空から見下ろす景色は雄大で美しいし、雲の上はちょっとしたお伽噺の世界のようで現実味が無い。空には建物も畑も無いし、通行人もいない。真っ直ぐ飛ぼうが、突然宙返りをしようが誰の迷惑にもならないし、全てがルチルの自由だ。友達が秘密基地を作るのと同じで、ルチルは空に自分の居場所を作った気分になった。
「じゃあ今度少し遠出してみようか、南の国には沢山面白い所があるんだ」
「面白い所ですか? 綺麗な所じゃなくて」
「そう。南の国はまだまだ手つかずの自然が残ってるからね、変わった植物とか、そこでしか生息していない動物とかきっとルチルも面白いと思うよ」
「先生は本当になんでも知っていますよね」
時折フィガロ先生は南以外の国にいたような口振りになる事にも気が付いている。他国の話題になると妙に詳しかったり、歴史や地理、特産物などよどみ無く出てくる。まるで辞書みたいに物知りで、母さまも頼りにしていたように記憶している。それもやっぱりお医者さまだからなのかな。
「どうして母さまはフィガロ先生じゃなくて父さまと結婚したんだろう」
「ええ……? なぁに、俺が父親が良かったの?」
ちょっと考えてから、強く首を横に振った。そういう訳じゃないのだと伝えると、フィガロ先生は複雑そうな表情でお茶を啜る。
「父さまが父さまで嬉しいし、フィガロ先生はフィガロ先生でいて欲しいです。でも母さまはフィガロ先生を頼りにしていたし、どう考えても優良物件じゃないですか」
「……そういうのどこで覚えてきたんだい? 褒められて悪い気はしないけど」
両手で包んだティーカップはまだまだ熱くて口に運べそうにない。背中を丸めてふぅふぅと息を吹きかけて、揺れる水面を眺めた。度々訪れてしまう湖を思い出しながら。
「それなのに、フィガロ先生じゃ無くて父さまを選んだ母さまは素敵だなって」
「うーん……それは俺が当て馬みたいな……まぁいいけどさ」
ようやく飲める温度になってきたブレンドティーを口に運ぶ。絶対に苦いものだという予想のもと覚悟をして口に含んだら、それは驚く程に甘かった。
反射的にフィガロ先生の顔を見上げると悪戯が成功したような顔で笑っているから、つられて笑ってしまった。
「私もいつか、母さまと父さまみたいな恋がしたいな」
「出来るんじゃない? ルチルがしたいと思うなら。あの二人の息子なんだしね」
「フィガロ先生にはそういうひとがいなかったんですか?」
「……そうだなぁ、今の俺が答えじゃないかな」
どういう事かと小首をかしげると、フィガロ先生は両方の手の平を上に向けて「何も持っていない」のポーズをした。南の国では他の国に比べて結婚の適齢期が早く、先生の年頃で未婚の男性は数少ない。というより、この近隣では誰もいない。フィガロ先生は魔法使いだから人間の感覚とは違うのかもしれないけれど、先生とレノックスさん、それから母さま以外に魔法使いを知らない私にはいまいちピンとこない感覚だ。
結婚なんてそう急いでするものでも無いとも思うが、こんなに魅力的な先生にお嫁さんがいないのはおかしいとも思ってしまうのだ。
「でもね、天命だったら良かったのにと思うひとはいたよ」
「天命?」
運命でも宿命でもなく、天命と言ったフィガロ先生は、無意識にだろう窓の外に顔を向けて、少し遠くを見つめた。私は天命の意味もろくに理解していなかったけれど、先生にも大切に思うひとがいて、それが今近くにいないのだという事実だけを理解して、椅子から立ち上がるとフィガロ先生のすぐ横に移動する。
「ルチル? どうかしたの」
そう言ってこちらを向いたフィガロ先生をぎゅっと抱きしめた。風が強い夜にひどく心細げな顔をするミチルにするように。先生はずっと大人だけれど時折ミチルよりも寂しそうにするから。
「少し安心しました。先生にも特別に思うひとがいたんだって分かって。先生は皆に優しいけれど、特別は作らないような気がしてたから」
「俺にとってはルチルもミチルも、チレッタやレノも特別枠なんだけどね」
「もう。そういう事じゃないって分かっているでしょう!」
はぐらかそうとするフィガロ先生の鼻をつまみながら、その宝石みたいな瞳を覗き込んで言い聞かせるように伝えた。
「先生は素敵なひとですよ。だからきっと大丈夫です」
「まいったな……ルチルに慰められるなんてね」
斜め上の天井を見ながら困り顔をする先生にくすくす笑っていると、両脇に手を差し入れられて抱き上げられた。小さい頃によくこうして抱っこされたなと思い出していると、その膝の上に乗せられる。
ミチルが生まれて随分とお兄ちゃんになった気でいたけれど、先生にとってはいつまでも子どもなのかもしれない。久しぶりに甘やかされて、さっきまで緊張していた心がほぐれていくのが分かる。慰めるつもりが慰められていたのだと気付いたが、これもお互いさまというのだろうか。
「そんな顔をしなくても平気だよ。でも、俺がひとりで寂しそうにしてる時は、またこうして抱きしめてよ」
「良いですよ。ミチルと一緒に飽きるまで抱きしめてあげます」
「ほら、俺には十分だ。チレッタのような恋をしなくても魔法使いは幸せになれる。でも、ルチルがしたいなら見届けさせてね」
◇ ◇ ◇
「……なんて言ってたのに、未来って分からないなぁ」
魔法舎の朝食の時間は皆バラバラで、早朝稽古をするレノさんやシノさんよりは遅いけれど、ルチルの朝食は割かし早い方だ。大体ミチルやリケ、ヒースさんと鉢合わせする事が多く、南の国ではフィガロ先生だけが遅い部類に入る。だから今日もフィガロ先生が食堂に来なくても不思議では無かったのだが、一足先に朝食を終えると慌ただしく部屋から出て来た姿を視認して立ち止まった。
「……朝一で座学を予定していたのに」
正確に言うと慌ただしく出て来たのは東の国の先生役であるファウストさんで、部屋の主は後ろからのんびり出てきた。眠そうに欠伸をしながら。
「だからって朝食を抜いて教鞭取らないでよ。知ったらヒースクリフが悲しむ」
「誰のせいだと」
「俺のせいだね。皆には俺から謝っておくから、ファウストは気に病まないで」
「……それはやめろ、別の意味で困らせるだろ」
正直なところ、ああまたか、と思った。度々こういう場面に鉢合わせているが、彼らは飽きずにこの会話を繰り返している。また遅くまで二人で起きていたのだろう、そして結果的に朝寝坊をした。彼らは魔法舎に来た当初はギクシャクしていた様子だったが、暫く経てば酒が好きな者同士、任務先で手に入れた酒瓶を手土産に晩酌をする仲になっていた。そして行き着いた関係性を意外にも隠そうとしないから、彼らの事はミチルやリケすらも知っている。
「でも、朝の廊下でするには似つかわしくない会話のような……」
「何をぶつぶつ言っているんですか?」
昨夜も眠れなかったらしいミスラさんが背後からやってきて、腰を曲げて顎を私の肩に乗せてきた。ちょっと重いけれど、甘えられているのだと思えば許してしまう。最近ミチルは甘えてくれる事が少なくなったから、その分ミスラさんに甘えてもらっているのだ。
「いえ、今日も仲が良いなと思って」
「……フィガロの部屋で一夜を過ごすなんて正気じゃないですよね」
ミスラさんはぼんやりしている所があるから、それがどこまでの意味を持っているのか計りかねたので、「うーん……フィガロ先生の部屋なら小さい頃私もよくお泊まりしましたよ」と応えてみたら、態度で拗ねられた。
「……本当に正気じゃないのかもしれませんよ」
ファウストさんはゆったりした動きで白衣を羽織るフィガロ先生の腕を取ると、私達の横をすれ違っていった。律儀に「おはよう」と言って通り過ぎるので、反射的に返事をして背中を見送る。
そのすれ違いざまに垣間見たフィガロ先生の表情で確信した。もう私が先生を抱きしめる事は無いのだと。
「恋とはそういうものでしょう?」