【芸能パロ】分からないこと ぐるんぐるん、と回るのは世界なのか自分なのか――。
そもそも地球は絶え間なく回転し続けるし、それに伴って自分も回っている事になるのかもしれない。けれどこんなにも景色が形を変えながら回るものか。馬鹿な事を考えているという自己認識が出来るくらいには理性を残しながら、くったりとテーブルの上で両腕を組み、頬を押しつける。
そんなファウストを特別気にした様子の人はここには居らず、皆似たり寄ったりで馬鹿騒ぎの真っ最中だった。立ち上がって何かを主張している者もいれば、横になってしまっている者もいる。店を貸切にしていて良かったというのは、本日の幹事が明日思う事だ。
無礼講もいい所のこの状況を咎める人間は既にこの場を離れており、このまま朝まで宴が続くのは確定している。打ち上げというのは度合いは違えど毎回羽目を外す者が複数現れるのだ。そして大概ファウストは帰るタイミングを見失う。未成年者達と連れだって出てしまえば良いのだろうが、酒を飲む行為自体は好きなのだ。早朝の撮影が多い現場だったため最近は控える日が続いていたから余計に飲みたい気持ちが強かった。明日も別の現場がある者はマネージャーに引き摺られるようにこの場を去ったが、ファウストは幸いにもオフであった。それならば問題は無いのだから飲んでしまえと今自分の判断でここにいる。
片手でコロコロと揺らすグラスの中身は透明な氷が三つ。溶けて水と化した液体が底に溜まっているが、それを飲む気にはならなかった。
ああどうしよう、誰かが飲み物を注文するついでに自分も頼んでしまおうか。ビールでもハイボールでもワインでもなんでも良い。喉が渇いた。それなのに自分から店員を呼ぶのも、手を上げる事すら億劫に感じる。そう自覚すると瞼さえ重くなった気さえして、喉の渇きを癒やせないのなら寝てしまっても良いかと思い始めた。
「あれ、ルチルはいないのかな?」
ファウストは騒がしい店内でその声だけが何故か明瞭に耳に入ってきた事が不思議に思ったが、現実では無い夢の中の声なのだと思えば納得出来た。それくらい現実と夢の境が曖昧で、今は回っている世界ではなく瞼の裏側しか見えていない。
声の主――フィガロは、騒がしい店内を見回しながら口だけで「困ったな」とこぼした。まともに話が出来そうな人をこの中で探して、再度同じ質問をすると今度は答えを得る事が出来た。
「ルチルなら酔っ払ってミスラを連れて行っちゃったよ。多分飲み直してるんじゃないの?」
「ミスラを、か。迎えに行くって言っておいたのにあの子は本当に酒癖が悪いんだから」
そう自分を棚に上げ、まあミスラと一緒ならば最悪な状況には至らないだろうと早々に捜索を諦めた。フィガロが自宅に送っていくのも、ミスラの家に転がりこむのは大差無い。週刊誌だけには気をつけてよねと内心で溜息を吐きながら店を後にしようとした。だが、視界の端に映った鳶色の髪に刹那動きが止まる。
「あの潰れてるのファウストじゃない?」
気付いてしまったら気になって、突っ伏しているファウストの顔を間近で覗き込んだ。深酔いしている割に綺麗な顔のままで、アルコールで赤くなった顔も愛らしくすら見えるから面白い。
「可愛い顔して眠っちゃって」
いつもやたらと視線が合うのに、目を合わせた途端に避けられるからこんなに至近距離で顔を眺めた事は今まで無かった。ファウストの後輩にあたるヒースクリフに対して「顔が好みだ」と軽口を叩いた時、どうしてかファウストに怒られた事を思い出す。ファウストに対しても同じ言葉を伝えたらやはり怒られるのだろうか。
そんな事を考えながらペット鑑賞よろしく眺めていたが、何となく声をひそめて、まるで内緒話みたいにファウストに訊ねた。
「きみ、迎えは呼んだの?」
「……こないよ。ネロは……二人にかかりきりだから、僕はひとりでへーき……」
「そういえばいつも現場には一人で来てたもんね。じゃあ朝までここで寝るの?」
「そう……なるな……」
どうしてかそれは可哀想だと思い至って、先程の酔い潰れていない酔っ払い相手に「ファウストは俺が送っていくから安心して」と告げていた。それを口にした人物がフィガロだと認識しているのかさえあやしいが、酔っ払いは了承の言葉を返してきた。この場に一人や二人増えても気付かれないし、逆に一人や二人いなくなっても問題は無い。普段ならそんなセキュリティの甘さに呆れが混じるが今夜は都合が良かった。
「立てるかい? ……そう、いい子だ。肩を貸すから体重かけていいよ。もし抱き上げて欲しかったらそう言って」
「いやだ、あるける……」
変な所で意思を主張してくるファウストに笑いながら店を出ると、ひんやりとした空気が一気に全身に絡みついた。素面のフィガロには酷く冷たい風だが、体温を上げたファウストにとっては心地が良いものだったようで、「きもちいい」と拙い呟きが聞こえる。
「少し歩こうか」
駐車場までの最短距離ではなく、少し遠回りする事を決めて進行方向を変える。返事の無いファウストは大人しく、まるで人さらいをしている気分になる。気分でなくて、殆どその通りなのだけれど。
普段であればフィガロがこのような他人に自分から関わって、酔っ払いの介抱という面倒ごとを引き受ける事はしない。言うならば、気まぐれだった。
ファウストとの関係を一言で表す事は難しい。フィガロの設立した事務所との関わりも薄いし、現役時代に何度か共演した事はあるけれど、友達かと問われれば首を傾げる。連絡先をギリギリ知っている程度。つまり同じ業界に属してはいるが、他人といっても不思議では無いのだ。
ファウストとは引退後も何度か仕事で顔を合わせているが、時折フィガロ自身は睨まれているような気がしていた。所属タレントのルチルやミチルは良く面倒をみてくれているというのに。ミチルなんてすぐに懐いてしまって、聞いてもいないのに「今日はファウストさんが本を貸してくれました!」などと報告してくる。ルチルだってそうだ、知らない間に二人で呑みに行っていた。どうして自分だけ、と思う気持ちがあったから、この行為にはほんの悪戯心も含まれているのかもしれない。
拒否されればすぐに引くつもりでいたのだが、どうしてかファウストは遠慮なく体重をかけながら時折ぽつぽつと言葉を零してフィガロの自家用車に向かっている。
「いつも毛を逆立てた猫みたいなのに、こんなに警戒心が薄いと心配になるよ」
「ねこ……?」
「こっちの話。猫好きなの? 可愛いね」
「ん……かわいい」
正しく言葉が伝わらない事に、あははと声を出して笑っていると、ファウストはむっとした顔で見上げてきた。馬鹿にしているように映ったようだ。気をつけないとへそを曲げられて夜道を一人で走り出してしまいかねない。もしそうなったら追いかけるかな、と自問しながら、いざそうなってみないと分からないと結論付けた。
「昔、ドラマで共演した時かな、一緒に台詞合わせをした事があったね。まだきみが新人の頃」
「……おぼえてたのか」
「そりゃあね。あんなに力の入った第一声は忘れられないよ。今時舞台でもあんなに声を張り上げないのに」
「忘れてくれ。あの時は緊張してたんだ……はじめてのドラマなのに、いきなりおまえとの掛け合いで。……稽古をつけてくれた事は感謝してる」
「あれ、酔いが醒めてきた?」
見上げてくる瞳を覗きこむと、外気温の影響か先程より意識が覚醒しているがしっかり酔っているようだった。でないとこんなに至近距離で見つめさせてはくれないだろう。宝石のような綺麗な瞳が今は夜の色で染まってよく見えない。それを勿体ないと思うくらいには綺麗だと記憶していた。いつのタイミングでそれを知ったのか考えてみるがすぐには思い出せそうにない。ドラマの撮影中か、バラエティに呼ばれた時か、それともテレビ越しなのか。
「それなら、駐車場に着くまでの間、適当な設定でエチュードをしようよ。そうだな、俺と君が恋人っていうのは?」
酔っ払いと即興劇をしたらどう転がるのか、まるで想像が出来なくて面白そうだと思った。その程度の提案だった。エチュードはオリエンテーションにもよく使うし、エチュードのという名前の通り練習にもってこいだ。そして相手を知るためのツールの一つでもある。
ファウストは何かを言おうとして口を開いてすぐに閉じた。けれど無言を了承の意に受け取って、フィガロは肩を抱いていた腕を腰に回した。予想以上に細い腰に内心で驚きながら、意識して声を甘く変化させた。遊びとはいえ演技をするのは久しぶりだったが、身にしみた芝居はスラスラと言葉を紡ぐ。相手が酔っ払いだというのも一因だろう。上手かろうと下手だろうと咎められる事は無いに等しい。稽古の時には無い気楽さがそうさせるのだ。
カメラに撮られる心配はしていなかった。都内とはいえ臨海部にあたるエリアで、オフィスビルが集積しており夜間は人通りが少ない。店を出てから一人もすれ違わない程で、外灯も点々としているから異様に暗く感じる。万が一撮られても恋人である事実は無いし、酔い潰れた知人を送っていく所であるのは間違い無い。ファウストの方は気にするかもしれないが、フィガロとの報道は上手く使えば良い意味で関心を集めるだろう。それに握り潰す事はフィガロにとってさして難しいことでは無い。
だから安心して、と気持ちをこめて腰を抱くのとは反対側の手で髪を梳いた。日中潮風に当たりながら撮影を行い、居酒屋に長時間滞在した髪はぱさついていて指通りが良いとは言えなかったが、とても柔らかく感じた。風呂上がりは触り心地が抜群に良いのだろうと想像出来てしまってフィガロは目を細める。
どうしてこの子が気になるのだろう。そう改めて自問するが、やはり答えはすぐに返ってこなかった。普段説明がつかない感情になる事や、先が予想出来ないまま闇雲に進む事はしないのだが、ファウストに関しては分からない事だらけになる。分からないから興味があるのか、どうしてファウストが分からないのか。頭の中で疑問を広げていると、暫く俯きがちで相槌くらいしか打っていなかったファウストが突然顔を上げた。
「……やっぱり駄目だ」
その表情ははじめて共演した時の少し緊張した表情に似ていたけれど、哀しげに眉を下げていた。
何の事を言っているのか分からずフィガロが首を傾げると、苦いものを噛んだときのような顔をする。理由も分からないまま、咄嗟に謝ってしまいたくなるような表情だ。ごめん、だからそんな顔をしないでと、そう間髪入れずに言っていたなら……理由を教えてはくれなかっただろうか。
「恋人は駄目だよ。……演技をやめた時苦しくなるから」
この言葉が即興劇の中の台詞なのか、ファウスト本人の感情からのものなのか即時に判断出来ずに、フィガロは口元の笑みを消した。腰を抱いていた手もどうして良いか分からずに固まる。
そのまま言葉の通りに受け取ってしまっても構わないのだろうか。ファウストは冗談を言うようなタイプでは無い事くらいフィガロでも知っている。だが今ならいくらでも誤魔化せるし、どうするのがファウストの経歴のために最善かは手に取るように分かっていた。
それなのに、すぐに言葉が出て来ない。ファウストといると自分らしくない事の連続だ。未だ知らない事ばかりだというのに。
「……なんだ、適当なことを言ってはぐらかすかと思ってたのに。もしかして僕が思っていたより脈があるのか」
ファウストはまるでフィガロが取る行動を分かったような口ぶりで、今度はフィガロの方が眉尻を下げる事になる。もし、ファウストが本当にフィガロに気があるというのなら、どんな人間なのか知られていてもおかしくは無いだろう。「まいったな……」と本心から言葉を零すと、ファウストは温かい両手でフィガロの冷えた頬を包み、九センチメートルの差を埋めるために踵を浮かせて背伸びをした。
「好きだよ」
こんなにラブシーンが上手な子だったかな。そんな感想が真っ先に浮かんで、そしてこればかりは撮られたらおしまいだとも考える。
いつだって理性が先に立ち、リスクを回避する事に長けていた筈。避ける事は容易に出来たが、避けない選択をしたのはフィガロだ。
ファウストの手首を鷲掴むと、早足で駐車場まで向かった。見えているというのにその数メートルがやけに遠く感じて、何故か焦りすらする。ファウストの顔は見る事が出来なかった。
助手席に乗せたファウストは、律儀にシートベルトに手を伸ばすけれど上手く止められずにいるから手伝ってやった。
「酔いが醒めて、きみが逃げ出したいと思っても手遅れだよ」
「手遅れって?」
「戻れないってこと」
エンジンがかかる音を聞きながら至極真っ当に言葉を返す。恐らくフィガロの方が少し緊張していた。先程よりも離れているのに、とても近くにいるように感じるのは密室だからかもしれない。
闇のような景色が時折外灯に照らされて通り過ぎていくのを横目に見ながら、隣の気配を追っていた。
多分この子は、人を見る目が無い。どうして自分なんかに引っかかったのだろうと思わずにはいられなくて、思わず自嘲してしまいそうになる。不幸にしてしまう予感がして、それなら今すぐ手を放すべきだと理解していて……でも、「うれしい」と言ってきみが笑ったから、どうでもいいような、どうにかなるような気がしてしまった。自分らしくもなく。
ああ、それが恋か、とどこか客観的に思い至りながら、カーナビの目的地を自宅に設定した。