あの日、貴方に贈ったもの天界の廊下を、バタバタと慌ただしく走る影がひとつ。
長い白髪を団子状に結んだ天使は、部屋の扉を勢いよく開けた。
「アダピ!!!おかえり!!!」
「…おい、なんでここにいる?」
アダムは気怠げだが、彼女はお構い無しにお腹に引っ付く。
「合鍵くれたのアダピじゃん」
「あー、クソ…忘れてた」
「それに今日は一緒にお出かけの約束だったでしょ」
「それも忘れてた」
「コラー!ちゃんとカレンダーに書いておきなさい!」
ぷくっと頬を膨らませた彼女は、アダムのお腹をポコポコと両拳で叩いた。
かなり思いっきりだが、全く痛くない。
「おーおー、わかったわかった!悪かったな。もう遅いから、今日は寝ろ」
「やだ!せっかく可愛い服見せたかったのに!アダピの嘘つきー!ぶーぶー」
彼女の髪を結っていたゴムを、アダムが何気なく外す。その手馴れた動作で更にムッとした彼女は、今にも文句を撒き散らしそうな勢いで動きかけたが、アダムは無言のまま彼女の唇に自らの唇を重ねた。
「んんっ!!!?」
彼女は忽ち顔がぽっと赤くなり、静かになる。
「………」
「ふん、相変わらずウブだな」
アダムはようやく上着を脱ぐと、疲れた身体をベッドへ投げ出した。
そして、そのまま無言で自分の隣をぽんぽんと叩く。
それを合図に、アヴィはにっこりと笑って、ベッドにダイブした。
「アダピってば大胆〜♡」
「うるさい」
「だ〜いすき♡」
「寝ろ」
「うん♡」
アヴィの頭はアダムの腕の上。金色の翼に包まれて、彼女は幸せそうに目を閉じる。
彼女に仕事の内容を告げず、曖昧にごまかすのは、これで何度目になるだろうか。
正直、コイツはチョロい女だ。
キス一つ、甘い言葉ひとつあれば、今までぶつけていた疑問なんてあっさり霧散する。
それは実に都合がいい。
時には助かるし、時には歯がゆい。
彼女の気持ちなど、いつでもどうとでも黙らせられるはずなのに。
そのたび、胸の奥にかすかに沈む__
罪悪感とも呼べない、小さく鈍い感情だけが、やけに厄介だった。
***
初めて会った日のことは、今でもよく覚えている。
「初めまして!春風 陽葵(はるかぜ ひまり)ですっ!」
“善”そのものを纏ったような彼女は、すれ違う人々に元気いっぱいの挨拶を振りまいていた。
そして__私のような、偉大である天使にさえ、一切の物怖じを見せなかった。
女は好きだ。だが、彼女が向けてくるあの曇りのない視線だけは、どうにも苦手だった。
「アダム様はそのドリンク好きなの? あーしも!!」
彼女と本格的に会話を交わすようになったのは、それから数日後のこと。
私がたまたま手にしていた飲み物が一緒だった。それだけの理由で、いきなり懐にズカズカと飛び込んできたのだ。
「アダム様のこと、あだ名で呼んでいーい?」
そんなことを訊いてきたのは、後にも先にも、彼女だけだ。
……が、珍しく機嫌が悪くなかったそのとき、咄嗟に口から出たのは否定ではなかった。
「別にいいが。イケてるやつにしろよ?」
彼女は「う〜〜〜ん……」と唸りながら、思案を始めた。
その表情が目まぐるしく変わっていくのが妙に面白くて、私は黙ったまま眺めていた。
「……あっ、そうだ! アダピ! アダピにしよっ!」
「え、雑ッ安直ッ」
「いいじゃん! 可愛いじゃん!!」
「異議あり!」
「異議は認めませーん!これが一番しっくりくるしっ! はい議決〜!」
彼女は勝手に決めて、勝手に喜んで、そのまま当然のように呼び始めた。
「アダピ!今日の髪型どうかな?」
「アダピ!ここ映えるよ!写真とろ!」
「アダピ!ネイルしたげる♡」
あれ以来ずっと、どこからともなく現れては毎日好き放題に話しかけてくる。
律儀に返事をしてやっている私を、もっと尊敬してほしい。
そんな図々しい態度に対抗するように、私も彼女のあだ名を決めることにした。
「お前のあだ名も考えてやるよ」
「ほんと!?付けて付けて〜♡」
「そうだなぁ…」
とは言ったものの、実際は何も考えていなかった。彼女をじっと見て模索する。
彼女は、陽だまりのような存在だ。
騒がしくて、お転婆で、馴れ馴れしくて、眩しい。それでも、そこにいるだけで空気が柔らぎ、世界が一段階マシに思えてくる。
彼女がたびたび口にする“青春”とやらは、私にとって無縁の概念でしかなかった。
それにもかかわらず、彼女は一方的に私をその輪の中へ引きずり込み、まるで当然のようにそれを共有しようとしてくる。
本来ならば鬱陶しいと切り捨てていたはずの振る舞いを、いつしか私は、心のどこかで待ち侘びるようになっていた。
そんな彼女に、私は果たしてどんな名を贈るべきなのか…
「…אֲהֲבִי…」
「んん??…ア、ハゥィー?」
「うん、これだな。しっくりくる。今日からお前はアハヴィだ」
「??なに?アハヴィって何!!」
陳腐すぎるとは思ったが、これしか浮かばなかったのだから、致し方ない。
「意味を知りたいか?」
「うん!」
「でも教えな〜い」
「なんで!?」
「今知ったら面白くないからな。その時が来たら話してやるよ」
「面白くないの?う〜ん…わかった!じゃあ約束しよ!」
彼女は小指を差し出した。
「んあ?小指がどうした」
「指切りげんまんだよ!知らないの?」
「知らねえな」
「えーとね、お互いの小指を絡ませて約束する…日本の儀式?」
「へぇーくだらんなぁ」
「そんなこと言わずに!ほら!」
彼女は無理やり私の小指を引き寄せ、絡めてくる。体格差で妙な体勢にさせられたまま、彼女が歌い出す。
「ゆーびきりげーんまん、うーそついたらはりせんぼんのーます♪」
「なんだそれ」
「誓う時の歌!確か、嘘ついたら拳で1万回殴った後、縫い針を千本飲んでもらうって意味だったかな」
「なにそれこわい」
「歌った後は約束成立の証にお互いの小指を切るんだよ!はい、指切るよ〜」
「まてまてまて!マジで切るのか!?」
「あははは!嘘嘘、切らないよ〜♡」
「脅かしやがって!お前の指から切ってやる!」
「ちょ、ふふっ!ごめんて!やめて〜っ」
***
渋々だった。そう。
渋々、受け入れたんだ。
ダサいあだ名も、無駄に近いこの距離も。
まさか、ここまで情が移るとは思っていなかった。ただ無邪気な子供と戯れているだけのつもりだった。それだけで済むはずだったのに。
今となっては、どこで区切りを付けたらいいのか分からない。
彼女のあどけない笑顔を見るたび、
手放せないまま、日々がするりと過ぎていく。
「……まったく、厄介な女だ」
ベッドの中。
すでに自分の腕の中で眠りについたアヴィの髪を撫でながらアダムは小さく息を吐いた。
"このまま、何も知らず
天国で、ただ傍で笑っていてほしい。"
胸の奥から湧き出たその願いは、言葉にならないまま、静かに溶けていった。