【真武】ヒーロー、君を守るよ【サンプル】ヒーロー、君を守るよ
履きなれた運動靴で地面を蹴る度、背中のランドセルがカタコトと音を立てる。中に放り込んだ筆箱の中身が暴れているようだったが、真一郎は耳に届く音を気にしてはいなかった。
はっはっ、と息を切らせて神社までの小道を走る。頭上から照り付ける日差しは九月に入って穏やかなものに変わってきていて、背中をぐっしょりと汗で濡らすようなことはなかった。それでも小学校から立ち止まることなく走り続ければ疲れは出てくる。真一郎はようやく神社の前までたどり着いたところで深呼吸した。荒くなっていた息を整え、ふぅぅっと大きく息を吐く。
住宅街の中にある神社は他の場所を知らない真一郎にはよくわからなかったが、大きい部類に入るらしい。真一郎の背の何倍もある鳥居がずんっと入り口に立っていて、そこから奥へと続く石畳の参道も幅が広い。数人なら並んで歩けそうな程だったが、平日の昼過ぎである今の時間に神社の中を歩いている人影はなかった。
真一郎は、よし、と呟いてからランドセルの肩ベルトをぎゅっと握りしめ、神社の境内へと足を踏み出した。ずんずんと歩いて鳥居をくぐる。そこで初めて真一郎は鳥居の裏に他人がいたことに気づいた。
太い鳥居の柱にも背中を預けるようにして地面に座り込んでいるのは青年のようだった。染めているように見える金髪は短く、なによりズボンを履いている。真一郎の周囲にはスカートやキュロット以外を身に着ける女性はいなかったので、その服装から相手は男性なのだろうと思った。
青年は膝を抱えたまま顔を伏せていた。上下ともに真っ黒な服の袖にはなにやら漢字が刺繍されているようだったが体を丸めた青年の姿勢のせいであまりよく見えない。足元は頑丈そうな白いブーツで、ベルトがたくさんついたデザインが格好よかった。
とはいえ、こんな場所で地面に座り込んでいる相手は近寄りがたかった。話しかける理由もないし、と青年を見なかったことにする。
真一郎は少し足音を忍ばせながら参道を進んだ。後ろから追いかけてくる青年の声はなかったので、ほっとしながら大きな建物の前にある賽銭箱へと向かった。太い縄をぎゅっと掴んで左右に振り、がらんがらんと頭上の鈴を鳴らす。それから真一郎はズボンのポケットの中に入れていた十円玉を取り出した。えいやっと投げて、大きな賽銭箱の中にちゃりんっと落とす。
ぱんぱんっと手を打ち、真一郎はぎゅっと目を瞑った。暗闇の中で一生懸命に祈る。
「母さんが元気になりますように、マンジローが病気になりませんように」
小声でそう呟いてから目を開ける。見上げた建物の奥には本当に神様がいるのだろうか。じぃっと目を凝らしても神様の姿は見えず、真一郎は諦めていつも通り頭を下げた。そうして、くるっと建物に背を向けて参道を戻っていく。
ひとの話し声が聞こえてきたのは参道の半ばまで来た時のことだった。気になって視線を巡らせれば、参道を囲む木々の下で学生服を着た青年たちがなにかを見下ろしていた。なんとなく嫌な予感がしてその場に立ち止まる。声は真一郎にも聞こえてくるほどの大きさだった。
「ほらっ!お手!」
え、と思って目を凝らせば、三人いる青年たちのうちしゃがみこんでいたひとりの影になったところに子猫の姿が見えた。怯えた目をしてふるふると震えている子猫に青年が乱暴に手を差し伸べている。
子猫に芸をさせようなんて無理な話だ。それなのに青年は思い通りに動かない子猫に苛立ったようだった。
「なんだよコイツ、せっかく構ってやってんのによぉ!」
そう吐き捨てるようにして言った青年はその場に立ち上がると足を後ろに引いた。まさか、子猫を蹴るつもりか。
気がつけば真一郎は叫んでいた。
「やめろよ!」
突然割って入った真一郎に三人の青年たちがぐるりとこちらを向く。そこで初めて真一郎は彼らが不良だということに気づいた。派手なリーゼントに改造学ランを着た不良たちが真一郎を睨み付ける。
「んだよ、ガキ」
凄んだ声でそう言われて身がすくむ思いをする。それでも真一郎は懸命に声を振り絞った。
「その子を苛めないで」
声は悔しいけれども震えてしまった。勇気を出して言ったはずの言葉に不良たちが失笑する。
子猫を蹴ろうとしていた不良が、はっ、と鼻で笑った。
「苛めてねぇよ、躾ようとしてんだ、よ!」
そう大声を上げながら不良が再度、子猫を蹴ろうとする。その瞬間、真一郎は駆け出していた。なんとしてでも子猫を守らなければ、と不良の腰にしがみつく。
「あ?邪魔すんな!」
不良の動きは一瞬止められたものの、あっさりと身を捻って振りほどかれてしまう。怒りを露にした不良が地面に尻もちをついた真一郎目掛けて拳を振りかぶる。殴られる。そう思ってぎゅっと目を瞑った時だった。
「なにしてんだよッ!」
割り込んできた声のおかげか、不良の拳はぴたりと止まった。不良たちも真一郎も声がしてきた方に視線を向ける。
ざっざっ、と神社の玉砂利の上を走る青年の姿が目に移った。金髪に黒い服、白いブーツといういで立ちから、先ほど鳥居にもたれかかっていた青年だとわかる。
駆け寄ってきた金髪の青年が不良と地面に座り込んだ真一郎の間に割って入ってくれた。しかし、突然やってきた青年に不良の怒りはますます高まっていったようだった。
「テメェも殴られてぇのかッ!」
吠えた不良の拳が青年の頬をゴッと打った。けれども青年の体はふらつくこともなく、真一郎を背後に庇った体勢のままその場に立っていた。けして体格が立派という訳でもない青年が吹っ飛ばなかったことに真一郎は驚いた。それでもすぐに不良の拳が再び青年を襲う。
「死ねッ!」
ドカッと腹に不良の拳を受けた青年の足がずずっと動く。しかし、それだけだった。呻くこともない青年の様子に不良が唸り声をあげるのが真一郎にも聞こえた。
ざり、と後ずさったのはむしろ青年に殴りかかっていた不良の方だった。それでも後ろに立っていたふたりの不良の方には逃げる気がないようで拳を握りしめるのが見える。
三対一だ。危ない、と真一郎が思ったところで青年が口を開いた。
「弱いモンを殴る蹴るするなんて、不良のすることじゃない」
ざ、と青年が一歩足を踏み出す。対峙していた不良がまた一歩後ずさる。それを追いかけるように青年がダッと駆け出し、そのまま拳を振り上げた。
「不良はもっとカッケェんだよ!」
青年が不良の腹を殴った、ドゴッ、という重たい音とともに殴られた体が後ろに吹っ飛ぶ。その青年の動きは、殴るという行為に反して真一郎の目にはなんだか綺麗で格好良く映った。すごい、と無意識のうちに声が零れ落ちる。
どしゃぁっと砂利の上に倒れ込んだ不良が怯えた声を上げる。
「ひ、ひぃ……」
情けなく震えた声を、青年が一歩足を踏み出した音がかき消す。じり、とにじり寄る姿は不良の目には恐ろしく映ったのだろう。青年がどんな表情をしているのかは真一郎にはわからなかたけれど、不良たちはすっかり恐れを抱いたようだった。
「お、覚えてろッ!」
吠えた不良が慌てたようにその場から起き上がり、三人とも走って逃げていく。その背中が遠くに消えるまで、青年は真一郎の前に立っていてくれた。
地面に座り込んだままの真一郎の目には、青年の姿は大きく見えた。ヒーローだ、と思った。ピンチの時に駆けつけてくれるなんて、普通はできることじゃない。このひとは恰好いい。そう思うと心臓がどきどきして、頬がかぁっと熱くなったのが真一郎にもわかった。
すっかり逃げた不良の姿が見えなくなったところで、くるり、とこちらを振り向いた青年が真一郎の目線に合わせるようにしてしゃがむ。そこでようやく真一郎は青年の顔をまともに目にした。いかつい外見はしていなかった。優しそうな笑顔を浮かべた、大きな青い目の青年の顔にほっとすると同時に心臓の鼓動がますます速くなった。
「大丈夫?」
先ほど不良に吠えた声とは違って優しい声色でそう尋ねられて、思わずこくこくと頷き返す。よかった、と安堵の表情を浮かべられて、真一郎はつい、思ったことを声に出してしまった。
「あんなに強いなら最初から戦えばよかったのに……」
けして非難したり馬鹿にしたかった訳ではなかったが、それでも真一郎の一言は助けてくれた親切な相手には不適だっただろう。気分を害してしまっても仕方がない言葉だ。しまった、と思う真一郎に対し、しかし青年は小さく微笑んだ。
「我武者羅に戦っても、大事なものを守れないこともあるんだ」
そんなことあるんだろうか。きょとんとする真一郎に青年が言葉を重ねる。
「守るってね、戦うより難しいんだよ」
微笑みながらそう言った青年の目は、その優しい声色とは裏腹に真剣だった。守ることは戦うより難しい。よくはわからなかったが、真一郎は青年の真剣さに押されるようにして頷き返した。
不良に地面へ転がされたままだったのが恥ずかしくなって立ち上がる。危なげなく立った真一郎の姿に青年がまたほっとした表情を浮かべた。にこっと目を細めて笑顔を向けられた真一郎の心臓がまたどきどきと跳ねる。
このまま、それじゃあばいばい、と別れたくはない、という気持ちが真一郎の中に生また。なんで、と聞かれてもわからない。ただ、この目の前の青年ともっと仲良くなりたい。そう思ったのだ。
真一郎はしゃがみこんでくれていた青年の目をまっすぐに見つめながら言った。
「オレ、真一郎」
突然名乗られた青年はぱちりと瞬きして、それからふわっと笑って応えてくれた。
「武道、っす」
「タケミチさん?」
名前を教えてもらえたことに嬉しくなりながらそう呼べば、タケミチはふるりと首を横に振った。
「くん、でいいよ」
どう見たって年上のタケミチ相手に君付けでいいのかは不安だったが、本人がいいと言うのなら、と真一郎は言い直した。
「タケミチくん」
真一郎の呼びかけにタケミチは嫌な顔をしなかった。それどころかくすぐったそうな表情をされて、ほっとする。
そういえば、タケミチとはどんな字を書くのだろう。ちょうど今日、学校で漢字の試験があった真一郎はあのさ、とタケミチに問いかけた。
「ねぇ、漢字は?俺は真実の真に、一郎って書くんだ」
「ええっと……武士の武に、普通の道、だね」
ぶし、と言われて真一郎は首を傾げた。どういう漢字なのかわからない。真一郎の戸惑いを読み取ったのか、タケミチが困った顔をする。
「あれ?小学校じゃ習わないんだっけ……うーん、こういう字なんだけど……」
そう言いながらタケミチは自分の手のひらに指で、武、と書いてくれた。なんとなくどこかで見たような気がする。祖父の万作が読んでいる新聞を一緒に眺めていた時かもしれない。そんなことを想いつつ、真一郎は大きく頷いた。
「ありがとう、おぼえた」
真一郎の返事に武道が嬉しそうな顔をする。ふわっと笑いかけられてまた真一郎の心臓がどきどきと鳴った。鼓動が速くなる理由はわからなかったが、少なくとも武道本人に言うことではないだろう。そう思った真一郎は跳ねる鼓動から目を逸らすようにして視線を動かした。そうして武道の着ている黒い服の袖に書かれた文字に気づく。
「にだいめ、とうきょう……?」
きらきらと輝きそうなほど立派な金色の糸で刺繍されているらしい大きな漢字は途中までは読めたものの次の二文字で躓いてしまう。
首を傾げる真一郎に武道は微笑んだ。
「マンジカイ、っていうんだ」
「へー」
これでマンジカイと読むのか、と目を瞬かせているうちに今度は武道の方から尋ねてくる。
「あのさ、今って何年?」
問いかけの意味を捉え損ねて武道を見つめる。そこにはとても真剣な表情をした武道がいた。どうしてそんな顔をするのだろう。そのあまりに懸命な様子に戸惑いつつも真一郎は問い返した。
「何年?何年生?」
もしかして真一郎の年齢のことを聞いているのだろうかと思っての問いかけだったが、武道は一度目を瞬かせてからふるりと首を横に振った。
「ええっと、そうじゃなくて……」
ということは今年が何年なのか聞いているのか。そうと理解した真一郎は、何故そんなことを聞くのかと疑問に思いつつも今年の年賀状に書いた数字を思い出して答えた。
「一九九〇年だよ」
そう真一郎が言った瞬間、武道は何故か酷く落胆してしまった。
「一九九九年じゃないのか……」
ぼそっと零した声は聞こえていたが、やはり意味は分からなかった。一九九九年、と言われても、まだ十年しか生きていない真一郎にはそんな未来の数字になんと思えばいいのか戸惑うばかりだ。
それでも落ち込む武道の姿になんとか励まさなければ、と思う。とはいえ原因もわからないのになんと言えばいいのか。真一郎がおろおろしていることに気づいたのか、武道はきゅっと唇を噛みしめてから、ひとつ頷いた。
「大丈夫。何度だって、やり直すから」
やり直すって、なにを。
武道はなにをそんなに強い覚悟を決めたような表情をしているのだろう。なにひとつわからないまま困惑する真一郎の足元にふわっとした毛並みが触れた。驚いて下を向けば先ほど不良に蹴られそうになっていた子猫が真一郎のひざ丈のズボンから覗く足にすり寄っていた。くるくる、と足にまとわりつくようにして体を擦り寄せていたかと思えば、にゃあ、と小さく鳴いた子猫はぴょんっと真一郎から離れてしまった。そのままタタタッと走り出した子猫があっという間に植木の向こうに消えていく。
「いっちゃった……」
ぽかんと子猫の後ろ姿を見送ってしまった真一郎に武道が声をかけてくる。
「真一郎君は帰らなくて大丈夫?」
「え、あっ!」
腕時計は持っていないので正確な時間はわからないが、神社に長居をして下校中に寄り道していたことを母親や祖父に気づかれたくはなかった。
真一郎は慌てて武道に頭を下げた。
「武道くん、助けてくれてありがとう!」
ぱっと顔を上げれば武道は笑ってくれていた。なんとなくほっとしながらきゅっとランドセルの肩ベルトを握りしめる。
「じゃあ、俺、帰るね」
ばいばい、と手を振れば武道も同じように手を振り返してくれた。
「うん、ばいばい、真一郎君」
武道の言葉を受けて、真一郎は小走りに神社の出口へと向かった。カタカタと音を立てながらランドセルを揺らして走り、途中でぱっと後ろを振り返る。視線の先には武道が立っていて、真一郎が振り向いたことに気づいたのかもう一度手を振ってくれる。武道に大きく手を掲げてぶんぶんと振り返してから真一郎は再び前を向いた。そのままタッと駆け出した真一郎は息を切らせながら家へと向かって走り続けた。
家の門までたどりついて大きく深呼吸する。はぁはぁと肩でしていた息をなんとか整え、真一郎はランドセルの脇の金具に縛りつけている紐を引っ張った。ランドセルの中からするっと出てきた紐の先端につけた家の鍵で玄関扉を開ける。
がらがらと扉を引き開けて中に入り、大きな声を上げる。
「ただいま!」
ぽいぽいっと玄関で運動靴を脱いでから慌てて揃え直す。自分のことは自分でできるようにならなければと万次郎が生まれた時に決めたではないか。そう思いながら真一郎は靴をぴしっと並べて家に上がった。
洗面所にランドセルを置いて蛇口をひねる。固形石鹸をもこもこに泡立てて数を数えながら手を洗い、丁寧にタオルで拭いてから今度こそ、と真一郎は母親の部屋を目指した。
勢いよく部屋に入ってしまいたいのを寸の所で堪えてトントンっと扉をノックする。返事はすぐに返ってきたので、真一郎はそぅっと扉を開けた。
「母さん、ただいま」
こそこそと顔を覗かせた真一郎に、部屋の真ん中に敷かれた布団に座っていた母の桜子が微笑みかけてくれる。
「お帰りなさい、真一郎」
小さな声だった。元々、ハキハキと元気よく喋る方ではない桜子だったが、万次郎を産んで病院から帰ってきてからはいっそうか細い声になってしまった気がする。いや、そんなよくないことを考えては駄目だ。真一郎は頭の中に浮かんだ言葉をなんとかかき消して、部屋の中にそろりと足を踏み入れた。
足音を忍ばせて近づいた桜子の腕の中には万次郎が抱かれていた。目を瞑ってすやすやと眠っている様子に思わず頬が緩む。
ちらり、と桜子を身が得れば微笑んで頷かれたので、真一郎は畳に膝立ちになって万次郎へと手を伸ばした。そっと優しく万次郎に手のひらに指を添えればきゅっと握りしめられる。
可愛い。可愛い、俺の弟。
もう万次郎が生まれてから何度だって抱いてきた感動を胸に桜子に声をかけようとした時だった。
「ねぇ、かあさ……」
「ごほっごほっ」
大きく咳き込んだ桜子の苦し気な表情に焦る。真一郎は慌てて桜子の背中を手で擦った。なおも咳き込む桜子の背中が苦し気に震えているのが手のひら越しに伝わってしまって、真一郎まで苦しくなる。
「大丈夫……?」
ようやく咳が収まってきたところで桜子に声をかけたものの、返事が返ってくるより先に万次郎が泣き出してしまった。ふぇぇん、と大声を上げて泣く万次郎をまだ軽く咳き込みながら桜子があやしていく。
ゆらゆらと体を揺らされ、とんとんと背中を優しく撫でられた万次郎が泣き声を小さくしていく。その様子を真一郎は黙って見守ることしかできなかった。
やがて落ち着き始めた万次郎から畳の上に座ったままの真一郎へと桜子が視線を移した。ふわっと微笑んだ桜子が言う。
「おじいちゃんとごはん、食べてきなさい」
優しくそう言われて真一郎は咄嗟に尋ね返していた。
「母さんは?」
一緒に来ないのか。そう思っての問いかけだったが、桜子は穏やかな笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「あとで食べるから大丈夫よ」
そう返されてしまうと一緒に食べようと言うのは我儘な気がしてしまって、真一郎は黙った。きゅ、と拳を握りしめてから立ち上がる。
「うん、俺、ごはん食べてくるね」
桜子を心配させてはいけないと、笑って頷く。そのまま桜子の部屋を後にした真一郎は少し廊下を進んだところで立ち止まった。俯いて唇を噛みしめる。
桜子はやつれてしまった。家には万作がいるとはいえ、男の万作では気が利かないことも多いだろう。父親はなかなか家に帰って来ず、真一郎だってまだまだ手のかかる子どもだ。
桜子に、そして万次郎になにかあったらどうしよう。その不安は桜子の儚い笑みを目にする度、真一郎の中で大きくなっていった。
翌日も真一郎は学校が終わると一目散に神社を目指した。帰りの会が終わった瞬間にランドセルを背負って駆け出す真一郎の背中を男子の声が追いかけてくる。
「やーい、マザコン!」
元々は仲の良かったはずの男子たちは、急に放課後の遊びを断るようになった真一郎に好意的ではなくなってしまった。けれどもなんと言われようとも真一郎は自分が悪いことしているとも格好よくないとも思えなかった。
マザコンでなにが悪いのだ。顔色の悪い桜子の姿を見れば、母親を大事にしたいと思うなんて当たり前のことだろう。
誰に理解されなくたって、真一郎は桜子とそして生まれたばかりの万次郎のことを心から案じていた。ふたりになにかあったら、と思うと心臓がぎゅっとして息苦しくなる。そんな未来が来ないようにと、真一郎は毎日神様に祈っていた。
駆けつけた神社の中を小走り足に進む。帰りが遅くなれば桜子と万作に心配をかけてしまうし、どこに行っていたのかと聞かれてしまえば説明は難しかった。真一郎が毎日のようにお参りしていると聞けば桜子はきっと困った顔をするだろう。ありがとう、でもそんなに心配しなくても大丈夫よ。そう言われてしまえばもう神様に祈ることすらできなくなってしまう気がして、真一郎は自分がしていることを桜子たちには気づかれたくなかった。
タッタッと走ってもすれ違うひとはいなくて、なんとなくほっとしながら参道を進む。その目に、ぱっと金髪が映った。
「武道くん!」
思わず大声で名を呼べば、神社の水場に座り込んでいた武道が顔を上げた。声をかけたのが真一郎だと気づいたらしい武道が笑顔を浮かべてくれる。真一郎は向かう先を変えて武道の下へと歩いた。そうして地面にしゃがみこんでいた武道の前までたどり着いた真一郎は違和感に小首を傾げた。
なんだろう、と思ってから、あぁそうか、武道の服装が変わっていないのだ、と気づく。来ている刺繍の入った黒い服も、白いブーツも、昨日とまったく同じだった。似た服をいくつも持っている可能性はあったが、それよりかは着替えていないと思うのがしっくりきた。
思わず武道に問いかけてしまう。
「武道くんって家出してるの?」
真一郎の問いに武道は目を見張って、それから曖昧に笑った。誤魔化されてしまったということは真一郎にもわかったけれど、否定もされなかったのなら家にはちゃんと帰っていないのだと言っているも同然な気がした。
もしも家出なら、どこで寝てなにを食べているのだろう。そう考えた途端、真一郎は武道のことが心配になってしまった。
「おなかすかない?」
そう尋ねられた武道はきょとんと目を見開いて、それからなにを心配されているのか理解したのか、笑って首を横に振ってみせた。
「それは大丈夫」
買って食べているということなのだろうか。本人が大丈夫だと言っているのにそれ以上追求することはできなくて、真一郎は中途半端に抱えてしまった武道を心配する心を持て余してしまった。
戸惑うように視線をうろうろと動かして、そうしてふと武道の唇の端がわずかに赤黒くなっていることに気づく。そういえば昨日、武道は不良に殴られていたではないか。まじまじと正面から武道の顔を眺めれば、すでにかさぶたになりかけているようではあったが唇の端の傷は痛そうだった。
武道は恩人だ。だったら、と真一郎はランドセルの肩ベルトをぎゅっと握って言った。
「ちょっと待ってて!」
言うが早いか真一郎は駆け出した。背後で武道の驚いた声が聞こえた気もしたが、構わず参道を走って神社の外に出る。すぐ近くにあったコンビニに入って、真一郎は陳列棚に置かれた絆創膏の箱を手に取った。その勢いのままレジで絆創膏を買った真一郎は武道の下へと取って返した。
がさがさとレジ袋を揺らしてたどり着いた武道の前で袋の中から取り出した絆創膏の箱のふたをべりっと開ける。指を突っ込んで出した一枚の絆創膏の紙をぺりぺりとはがし、真一郎はきょとんとしたままの武道の傷にぺたりと貼った。
絆創膏を貼られた武道はぱちぱちと瞬きを繰り返して、それからどこか照れくさそうに笑った。どうしてそんな表情をしているのかわからないでいる真一郎の疑問に気づいたのか、武道は小さく笑いながら教えてくれた。
「喧嘩するとちふ……ダチに手当てしてもらったなぁって」
武道の口から出てきた、ダチ、という言葉に真一郎の心がとくんと跳ねる。気が付けば、くしゃ、と手の中の絆創膏のゴミが音を立てるほど拳を作って真一郎は武道に尋ねていた。
「オレも武道くんの友達になれる?」
そう尋ねた真一郎を武道は笑い飛ばしたりはしなかった。少し驚いた顔をした後はふわっと笑顔を浮かべてくれる。
「うん、一緒に子猫、守った仲だもんな」
言いながら武道が拳をすっと向けてくれたので真一郎も作った拳を差し出した。こつん、と拳をぶつけ合ってお互い笑顔になる。
武道に友達だと言ってもらえた。その事実に心がふわふわしているうちに武道が声をかけてきた。
「真一郎君は、お参り?」
武道の問いかけに真一郎は躊躇なく頷き返した。絶対、武道は家族の無事を願ってお参りに来た真一郎を馬鹿にしないと思ったのだ。実際、こくり、と首を縦に振った真一郎に武道は、そっか、と言って笑っただけだった。続く言葉はないようだったので、代わりに真一郎は武道に問いかけた。
「武道くんは?」
どうして神社にいるのか、お参りに来ているのか、と思って尋ねれば武道はちょっと困った顔をしてしまった。なんで、と思っているうちに武道がどこか遠いところを見ているような目をしながら言う。
「俺も……うーん、お参りかなぁ」
真一郎の方を見ないままそう言った武道は悲しい顔はしていなかったが、笑ってもいなかった。きゅ、と唇を噛みしめてしまった姿に真一郎はどうしていいかわからなくなって、それでも武道がお参りに来たのだと言うなら、とおずおずと声をかけた。
「一緒に行く?」
その控えめな声でした誘いに武道がこちらを向く。何度か瞬きをしてから武道は微笑んでくれた。
「うん、行こうか」
そう言いながら武道が立ち上がってくれたのでふたりして参拝に向かう。参道を歩き、たどり着いた賽銭箱の前で真一郎はズボンのポケットに入れておいた十円玉を握りしめた。その横では武道もズボンに手を突っ込んでいた。
「あるかな……あ、あった」
ちゃりちゃりと微かな音がしたので武道もどうやら小銭を何枚かポケットに入れていたらしい。ズボンのポケットから手を出した武道が困った顔をする。
「お参りってどうやるんだっけ……」
「知らないの?」
そう返しつつも、真一郎だって最初はお参りの方法など知らなかったので、えっと、とやり方を武道に伝える。まず鈴を鳴らしてそれから賽銭を投げて、と一通り説明してから真一郎は先にやってみせることにした。がらんがらんと鈴に繋がった紐を振り、握りしめていた十円玉を賽銭箱に投げ入れる。
手を二回打ち鳴らしてから目を閉じる。神様に願うことはいつも通り、桜子と万次郎のことだった。そうして目を瞑っているうちに横で武道が鈴を鳴らす音がする。ちゃりん、ぱんぱん、という音も聞こえてきたところで真一郎の祈りは終わってしまった。ゆっくりと目を開けて礼をする。そうしてちらりと横を見た真一郎は驚きに固まってしまった。
視線の先で武道は泣きそうな顔をしていた。目はきつく瞑っていて、眉もぎゅっと寄っている。合わせた手は震えているようで、小さく動いた唇の間から声が零れ落ちた。
「マ……ー君……」
泣きそうな声だった。酷く胸を締め付けられるような呟きは完全には聞き取れなかったけれど、誰か大事なひとの名前を口にしたのではないかと真一郎は思った。
「武道くん……」
なにかを言いたかった訳ではなかったが、つい、真一郎の口は武道の名を呼んでしまった。その声が届いたのか、武道がはっとした顔をして目を開ける。
武道はその場でさっと礼をすると真一郎に向き直った。先ほどまでの悲痛な表情など嘘のようにふわっと優しく笑って言ってくれる。
「あんまり遅くなるとお母さんとお父さんが心配するよ」
それはちょっとした拒絶のような気がした。なにも聞かないでくれと言われているのかもしれない。一度そう考えてしまうとそれ以上武道に話しかけることはできず、真一郎は小さく頷いた。
「うん……またね、武道くん」
真一郎の言葉を受けた武道が手を振ってくれる。
「ばいばい」
笑って言われてもなんだか全然嬉しくなかった。むしろ心はずんっと重たくなっている気がして、それでもここで駄々をこねてもどうしようもないのだと真一郎はわかっていた。だから小さく手を振り返して、くるりと武道に背を向ける。
ひとりで参道を歩き、神社の外に出たところで後ろを振り返る。豆粒みたいになった武道の黒い服と金髪が目に映って、真一郎は唇をきゅっと噛みしめた。
武道の涙が零れ落ちそうな横顔が、悲し気な声が真一郎の頭の中から消えていかない。辛い思いはして欲しくない。でも、無理して笑ってもらいたい訳でもないのだ。
ふわっと浮かべられた笑顔は無理して作ったものだったのではないか。そうは思えども、では、どうしたらよかったのだろう。考えても答えは見つからないまま、真一郎はとぼとぼと歩き出した。
どうにも武道のことが気になってしまって仕方がない。真一郎は次の日も神社に向かった。勿論、桜子と万次郎のことがあって神社に来ているのだが、ついついたどり着いた境内で武道の姿を探してしまう。
武道は参道に沿って植えられた大木の下にしゃがみこんでいた。よかった、今日も会えた。そう思いながら参道から降りて敷き詰められた玉砂利を踏む。その音に武道の足にすり寄っていた子猫がびくっと体を震わせ、そのままダッと走り去ってしまった。
木々の向こうへと走っていった子猫の姿はすぐに見えなくなって、子猫の去った方を見つめた武道が寂しそうな顔をしている気がして焦る。それでも武道はすぐにこちらを向くと笑いかけてくれた。
「今日も来たんだ」
その言葉にこくりと頷き返す。真一郎は武道の隣まで歩いて、すとんっとその場にしゃがみこんだ。膝を抱えながらちらっと同じようにしゃがんだ武道を見れば、優しい笑みを浮かべた武道がいた。
「なかなか願いは叶わない?」
武道がそう思うのも当然だ。真一郎はもう三日も連続で神社にやってきていた。毎日熱心に祈る真一郎を気遣ってくれているような声に、自然と気持ちが素直になる。
「弟が生まれたんだけど、母さん、病院から帰ってきてから元気なくて……心配で」
喋りながら桜子が苦しそうに咳き込む姿が思い出されて、真一郎の心が急に不安に揺れた。
「母さんが、しんじゃうんじゃないかって思うと……こ、こわくて」
口に出して、死、と言ってしまうとそれが本当のことになってしまう気がして、真一郎は泣きそうになった。桜子は少しずつ痩せていっている。このまま消えてしまうのではないかと思うくらい儚い姿に、じわっと目に涙が浮かぶ。
その時、ぽん、と頭が撫でられた。俯いていた真一郎の頭を優しい手つきでくしゃくしゃと撫でてくれる。
「武道くん……」
ぐすっと鼻をすすりながら顔を上げれば、真剣な表情をした武道がいた。
「真一郎くんは家に帰った方がいいよ」
「え?」
なにを言われたのかわからず目を瞬かせる真一郎に武道が言う。
「お母さんと一緒にいた方がいい。ひとはいつか……どんなひとだっていなくなっちゃうから。それを止めることも、やり直すことも、できないから」
普通なら、と小さく武道が呟いて、それから真剣な表情をふっと変えて笑顔を浮かべた。
「家族との時間、大事にしよう」
武道の言葉を噛みしめる。お参りをすることを否定された訳ではなかった。まるで今すぐに桜子になにか起こってしまうのではないかと言わんばかりの武道の言葉は心配が過ぎると言ってもよかったかもしれないが、それでも真一郎のことを想って言ってくれたのは明白だった。
たった少し寄り道をするだけで桜子の調子が悪くなるところに居合わせられないとは思わなかったが、それでも真一郎は頷き返した。
「……うん。俺、帰る。母さんもじいちゃんも、マンジローも家で待ってるから」
何気なく口にした言葉に、しかし何故か武道は大きく目を見開いた。
「まんじろう?」
見開いた目が揺れている。はくり、と動いた唇が掠れた声を上げた。
「もしかして……もしかして真一郎君って、佐野真一郎……?」
突然名前を言い当てられて、真一郎の方こそ大きく目を見開く。どうして武道は自分の苗字を知っているのだろう。困惑しながらも真一郎は小さく頷いた。
「え?う、うん」
真一郎の返事を聞いた武道はぐしゃり、と顔を歪めた。え、と思う間もなく武道の目からじわっと涙がにじみ出る。え、え、と焦る真一郎の前で武道はぽろぽろと泣き出してしまった。
どうしよう、どうしよう、なにがどうして武道が泣いているのかさっぱりわからなかったが、それでもなんとか泣き止んで欲しいと思って真一郎はおろおろと手を差し伸べようとした。
「な、泣かないで」
差し伸べた手で武道の服の袖を弱弱しく引っ張る。つん、と引かれた武道は一度、瞬きをした。目に溜まった涙をぼろっと落として、それからくしゃっと笑顔を浮かべてみせる。
どうして今、笑うのだろう。訳もわからずぽかんとする真一郎に武道が言う。
「ありがとう」
「え?」
なんのことだろう、ときょとんとする真一郎に武道が言葉を重ねた。
「まい……万次郎のこと、ずっと大切にしてくれて、ありがとうございます」
そう言って武道はますます笑みを深くする。それは綺麗な笑顔だった。頬は流れる涙に濡れていたし、泣いているせいで目も赤くなっている。それでも泣きながら笑う姿は真一郎が見惚れるほど美しかった。
心臓がどきどきして、きゅっと拳を握りしめてしまう。頬がかぁっと熱くなっている気がして、なんだか眩暈がしそうだった。
なにかをとても、言いたかった。けれどもその言葉は明確な形を作ることができず、真一郎はただただ黙って武道の頬に流れる涙とその微笑みを見つめることしかできなかった。
ぐしゃぐしゃと伸ばした袖で顔を拭った武道がへにゃっと気恥ずかしそうに笑みを浮かべる。
「すみません、泣いちゃって」
そう謝られてもなんと返していいかわからない。まごまごする真一郎の顔を覗き込んだ武道が嬉しそうに目を細める。
「真一郎君に会えるなんて思ってもみなかったっす」
それはいったいどういう意味だろう。小首を傾げる真一郎に武道は少し慌てた様子で言った。
「えっと、その……とにかく、真一郎君に会えて嬉しいってことっすよ!」
そう言われても、突然泣き出したかと思えばもう出会って数日たっているのに今になって喜ばれても困惑してしまう。ぽかんとした真一郎は、ええっと、となんと答えればいいのか迷った。
くるくる回る頭の中で、ふと違和感を覚えて真一郎は目を瞬かせた。あれ、と首を捻る。
「武道くん、なんで敬語なの……?」
聞き間違いでなければ、いつの間にか砕けているとはいえ敬語になっている気がする。泣き出すまでは普通に話してくれていたのに、と不思議に思う真一郎の前で武道は目を泳がせた。うーんと、ともごもごと口を動かすばかりで上手く説明できないでいるらしい武道に真一郎はなんだか複雑な気分になった。
敬語で話してもらえるのはなんだか大人扱いしてもらえている気もするけれど、それよりも寂しさのような感情の方が真一郎の心を揺さぶっていた。先ほどまでは仲良く話せていると思っていたのに急に敬語になられても、困る。
しかし、そんな真一郎の気持ちなど武道が気づく様子はなかった。むしろ眩しいものを見るような顔をして頭を下げてくる。
「本当に、ありがとうございます」
深々と頭を下げられてぎょっとする。真一郎は慌てて武道に言った。
「俺、なんにもしてないし」
頭を下げられる理由も、感謝されるきっかけもなにもなかった。困り果てた真一郎の声に気づいたのか、武道が顔を上げる。けれどもその口は、変なこと言ってごめん、とは言ってくれなかった。
「真一郎君は俺の……大事なダチの命の恩人だから」
そう真剣な目をして言われて、真一郎はぐっと唇を噛みしめた。武道ほどの歳のひとの命を助けた覚えなどまったくなかったし、なにより武道が礼を言うのはその友達とやらのためなのか、と思うとなんだか心の中がもやもやした。
人違いなのではないか。そう言いかけて、しかし自分を見つめてくる武道のあまりに真剣な表情に言葉を飲み込む。
結局、真一郎が言えたのは思っていることのほんの一部だけだった。
「……敬語、嫌だ」
だって、武道だって言ってくれたではないか。真一郎は武道の友達になれたのだと認めてくれた。なのにどうして今更敬語で喋るのだ。これは譲れない、と思って言ったのに、ところが折れないのは武道も同じようだった。
「真一郎君は真一郎君っすから」
よくわからない理論でそう言って武道が敬語を止めてくれる気配はなく、真一郎は口ごもった。可笑しな関係だ。歳から言えば、真一郎が武道に敬語を使うべきところなのに、武道はその逆がいいのだと言う。
仕方ない、と真一郎はふてくされた気分になりながら言った。
「じゃあ俺も敬語にする」
あ、違った、敬語にします、だ。もごもごとそう言い直す真一郎に武道がぎょっとしたかと思うとぶんぶんと首を横に振る。
「そんな!真一郎君相手に恐れ多いっすよ!」
ますます意味がわからない。恐れ多いって、なんだ。戸惑いを通り越して怪訝そうな表情を浮かべる真一郎に、流石に武道もしまった、と思ったのかもしれない。ええっと、と困っているような言葉を探すような表情で目を泳がせ、それからぽつり、と言う。
「その……それだけ真一郎君がカッコいいってことっす」
絶対に違う。そう、真一郎は思った。けれども真っ向から武道の言葉を否定してなんになるだろう。
武道はもう真一郎ではない誰かを見ている気がした。そのひとが格好良くて、好きで、なのにその影を真一郎に重ねている。たぶんその想像は間違っていない。そう思うともうなんだか辛くて、しんどくて、けれども真一郎は渋々頷いた。敬語を受け入れて欲しいと武道が願っているのがわかってしまったからだ。嫌だと言うことは駄々をこねているような気がして、そんな子どもっぽいことをして武道を困らせたくはなかった。
こくり、と頷いた真一郎に武道がほっとした顔をする。どこか嬉しそうにも見える表情にますます真一郎の心は曇った。自分ではない誰かのことを想っている笑顔はどうにも受け入れがたい。それでもでは武道から離れることも、もう会わないと言うこともできず、真一郎は曖昧に笑うしかなかった。
台所に立った万作から料理の乗った皿を受け取る。万作はオムライスとかエビフライとか、そういうものは作ってくれなかったけれども料理上手だった。今日も皿に盛られた煮魚はふわりと甘い煮汁の匂いを漂わせていて、真一郎はいそいそと皿を食卓に運んだ。けれども用意された皿が万作と自分の分しかないことに気づいて落ち込む。
根菜と鶏肉の煮物とわかめの味噌汁、それにごはんを食卓に揃えて椅子に座る。先にいただきます、と手を合わせた万作の前で真一郎ものろのろと手を合わせた。いただきます、と出した声は少し小さくて、その様子に万作が顔を上げた。
「どうした?」
万作に見つめられて真一郎は口ごもった。なんと言えばいいのか、と迷って、食卓のテーブルの上に乗せた手をもぞもぞと動かし、結局ぽつりと口にできたのは小さな問いかけだった。
「母さんは……?」
桜子の分は用意すらされていない食卓に心がしんどくなる。今日も一緒に食べられないのだろうか。そんなにも体調がよくないのか、と思って表情を暗くする真一郎に万作もまた静かな声で言った。
「お母さんなら、寝とるよ」
そう口にしてから万作は手に持っていた箸を置いて真一郎に尋ねてきた。
「寂しいか?」
それは確かに、そうだ。大好きな桜子が傍にいないのは、寂しい。けれども一番大切なのはそういうことではないのだと、真一郎はわかっていた。ふるふると首を横に振って応える。
「大丈夫。母さんが元気になってくれるのが一番だから」
真一郎の返答に万作はゆっくりと頷いた。
「そうか」
そんな沈んだ声を出さないで欲しい、と思う。どうして普通の声で普通に笑って、お母さんなら平気だ、なんの心配もない、と言ってくれないのか。それではまるで桜子になにかよくないことが降りかかっていると認めているようなものだ。
とはいえ万作にこの心の中の不安をぶつけても仕方がないことなのだと真一郎は理解していた。家族である万作を困らせたくはない。
真一郎は気を取り直すようにしてもう一度ぱんっと手を合わせた。
「いただいます!」
さっと箸を手に取って食事を始めた真一郎に万作はそれ以上なにも言わなかった。代わりに真一郎が学校での出来事などを話していく。穏やかな食事の時間の中で、それでも真一郎の心はずしりと重たくなっていた。
食事を終えて皿を洗い、万作より先に風呂に入ってぼんやりとテレビを見る。宿題はやったのか、と聞かれてぎくりとしたのがばれて、こたつで算数のプリントをさせられた。もそもそとシャープペンで式を書いてなんとか宿題を終わらせる。
「じーちゃん、もう寝るから」
プリントを手に万作に声をかけたのはまだ夜の十時になるかどうかの頃で、ちらりと時計を見た万作が意外そうな表情を浮かべる。それでも訝られることはなく、おやすみ、と返ってきたので真一郎も挨拶をして自室に引っ込む。
部屋の電気を消し、ごろん、と敷いた布団の上に寝転がってもぞもぞと寝返りを打つ。少し、寝ていたのだと思う。次に目を開けた時には家の中は静まり返っていた。
障子を開けて周囲の音を聞く。テレビの音がしないことを確認してから置き時計を見れば時刻は深夜二時だった。これなら万作も桜子も寝ているだろう。そう思いながら服を着替える。
パジャマから外に出られる格好になった真一郎はこっそりと部屋を抜け出した。抜き足差し足玄関に向かい、物音を立てないように靴を履いて玄関扉を開ける。からからとどうしても音が鳴ってしまう玄関扉をそーっと閉めて真一郎は駆け出した。悠長に歩いていて警察か誰かに見つからないように、と懸命に走る。
向かう先は神社だった。閉められた門は真一郎の腰くらいの高さだったのでえいやっと乗り越える。タンッと降り立った地面を蹴って境内を進み、賽銭箱に近づいたところで真一郎はぎょっとした。
「武道くん!?」
真一郎の大声に建物の縁側で横になっていた武道がぱちりと目を開ける。むくりとその場に起き上がった武道は真一郎の姿を見つけて驚いた顔をした。
「真一郎君!?なんでこんな時間に!?」
どうかしたのか、と起き上がった武道に真一郎の方こそ駆け寄る。家出をしているのだろうかとは思っていたが、まさか神社で寝泊まりしているとは考えてもいなかった。秋とはいえ夜は冷える。思わず心配の声がなにより先に出てしまった。
「こんなとこで寝てたの!?」
出した声が静まり返った神社の境内にわんっと響き渡った。しまった、と口を手で覆っても一度発してしまった声を消すことはできない。誰かに見つかったらどうしよう、と焦る真一郎の前で武道が困った表情を浮かべる。
「その、俺がここにいるって、誰にも内緒っすよ?」
それは家出をばれたくないということか。真一郎は迷いながらも頷き返した。自分だって深夜に家を抜け出すなんて悪いことをしているのだ。家出をしている武道を責めることはできなかった。
真一郎の返答にほっとした様子の武道が縁側を下り、真一郎の前に立って尋ねてくる。
「お参りっすか?」
「……うん」
小さく頷いた真一郎に武道も表情を曇らせた。
「お母さん、調子よくないとか……?」
そうやって誰かに声に出して桜子の体調のことを言われてしまうと、真一郎はなんだか悲しくて辛くてたまらなくなってしまった。本当に桜子が今すぐにでも倒れてしまう気がしてぐっと拳を握りしめる。そんなことない、お母さんは大丈夫。そう心の中で必死になって自分に言い聞かせても不安は増すばかりだった。
俯いてしまった真一郎に武道はどう思ったのだろう。少し困ったように沈黙して、それからごそごそと服のポケットに手を突っ込む。なにかを取り出した武道は手を差しだしてきた。
「あの、これ、使ってください」
遠慮がちに伸ばされた手に思わず手のひらを広げる。ぽとん、と真一郎の手の中に落とされたのは、どうやら硬貨のようだった。月明りを反射してきらきらと白銀色に輝く五百円玉に目を瞬かせる。
「これ……」
なんだかたまに目にする五百円玉より輝いている気がする。その上、なんのつもりで渡されたのかわからずに真一郎は小首を傾げた。困惑する真一郎に武道が笑いかけてくれる。
「それ、綺麗だから御利益あるかなぁって」
言われてみればまるで宝物みたいに光る硬貨は色の鈍い十円玉より神様に声を届けやすい気がした。とはいえ五百円ももらうなんて、真一郎には素直に受け取ることができなかった。代わりに渡せるものもなにもないのに、と武道に返そうとする。
その時、ザッと足音がした。同時にぱっと光が真一郎と武道を照らし出す。
「おい、そこでなにをしているんだ!」
はっとして振り返れば懐中電灯らしき光がこちらに向けられていた。警官だろうか。しまった、見つかった。そう焦ったのは真一郎だけではなかった。
「やべっ!」
慌てた声を上げた武道が真一郎の手首を掴んだかと思えば走り出す。
「こっち!」
手を引かれながら真一郎も足を踏み出した。全力で駆ける真一郎の心臓がどくどくと鳴って、手首を掴む武道の手のひらが熱い。なんだかとても、どきどきした。それは警官に見つかって叱られてしまうのではないかという恐怖以上のなにかのせいである気が、した。
玉砂利を蹴って走るうちに警官を巻くことができたようだった。随分走って境内から外に通じる小道までたどり着いたところで武道が立ち止まる。同じように足を止めた真一郎はぜぇぜぇと息をした。はっはっ、と息を切らせる真一郎の手首から武道の手が離れた。手のひらの熱が遠ざかり、なんだか寂しいような気分にさせられる。
武道も少し上がった息をふぅぅっと深呼吸することで整え、真一郎を見下ろして言う。
「もう帰った方がいいっすね」
警官に見つかってしまったのだから、今から境内に戻るのは得策ではないだろう。それくらい真一郎にもわかる。でも、まだお参りをしていない。心の中でくすぶっている不安がじくじくと真一郎の気持ちを落ち込ませていった。
「うん……」
頷かない訳にはいかないが、納得はしていない。そんな様子の真一郎の頭がくしゃり、と撫でられる。はっとして顔を上げれば月を背負った武道が微笑んでいた。
「また、明日お祈りにきたらいいっすよ」
くしゃっと髪を優しく撫でられて、その優しい眼差しに大丈夫だと言われた気がした。勿論、武道は神様ではないし、その言葉に根拠なんてないだろう。それでも真一郎は心を落ち着けることができた。
「うん、帰る。武道くんも家に帰ってね」
こんなところで寝ていては捕まるだけではなく体調も崩してしまう。そう思っての真一郎の言葉に武道は頷いてくれた。そのことにほっとしながら真一郎は武道から一歩、遠ざかった。
「おやすみ、武道くん」
「うん、おやすみなさい、真一郎君」
小さな声で挨拶を交わして武道に背を向ける。そのまま小走りに神社から遠ざかり、深夜の住宅街を駆け抜ける。幸いなことに人影はいっさいなく、真一郎は誰に咎められることもなく家までたどり着くことができた。からからと玄関扉を引き開けて家の中に体を滑り込ませて、そぅっと靴を脱ぐ。
自室にたどり着いたところで真一郎はほっと息を吐いた。パジャマに着替えて寝なければ、と思ったところで手の中に握りしめていた硬貨の存在に気づく。
手のひらを開けば、障子を透かして入り込む月明りでも硬貨はきらきらと輝いていた。五百円玉はこんなに綺麗に光ものだっただろうか。真一郎は不思議になって効果をしげしげと眺めた。その目が硬貨の表面に刻み込まれた文字に気づく。
「平成、二十年……?」
なんだそれ、と目を瞬かせる。今は平成二年だ。間違った年号を刻んだ硬貨が出回っているなんてニュースは聞いたことがなかった。でも、だったらこの十の文字が多い五百円玉はいったいなんなのか。小首を傾げてもなんの可能性も思いつかない。ただただ、真一郎の手の中の硬貨が無言のままきらきらと光り輝くばかりだった。
*続く*