お砂糖、スパイス、恋占い ――……座の貴方。思い通りにならないことが多い一日。自分自身を優先せず、今日は他人(ひと)に思いやりを持って接しましょう。ラッキーカラーはブルーグレー。それでは、良い一日を。
ざらついたノイズが耳障りに感じ、電源を引っこ抜いてラジオの電源を落とす。勢い余ったコードが蛇のようにうねりながらコンクリートの床を叩いた。古びたラジカセと、それを乗せた小さなテーブル、廃材置き場から運んできた錆び付いたパイプベッド以外に物がない部屋――というほどの生活感も無い――は、寂寥感のある沈黙に支配される。透明な陽の光がじわじわと侵食しつつある個室で、部屋の主である王九は腰高窓の縁に浅く座りながら、朝日に背を向け静かに紫煙を燻らせた。細く立ちのぼる煙が煤けた天井に吸い込まれるように消えていく。その白い糸は、道しるべのようでもあり、墓標のようでもあった。
ほのかな甘さとスパイスの香りが染みついた唇を軽く噛み、ふっ、と息を吐く。王九は短くなった煙草を吸殻の溜まった灰皿に押しつけながら、昨日のニュースを思い出した。街を歩いていると、こちらにその気がなくとも、街頭テレビの音声が耳に入り込んでくる。情報番組の間に差し込まれる占いは特に耳に残りやすい。短く、簡潔で、その星座を持つ人間の誰にでも当てはまるように出来ているからだ。
――今日の三位は、獅子座のあなた。努力が認められ、大きな自信を得られるとき。自分の可能性を信じ、さらに大きな目標に向かって突き進みましょう。ラッキーカラーはチャコールグレー。
続けて、二位、一位が発表されるが、王九は最後まで聞かずにその場を後にした。占いはそのどれもが、王九にとっては関係の無いものだ。己の生まれた日などは知らず、実年齢も曖昧であり、どこにも属するものがない。当たるも八卦当たらぬも八卦というように、結果の解釈など自分の心持ち次第でどうとでもなるのだから、心底くだらないと思う。他者に運命――などというものがあればの話だが――を支配されるなど、あってはならないことだ。つまり有り体にいえば、王九は占いを信じていない。
淀んだ真夏の空気を吸い込み、伸びをしながら立ち上がる。足下でくしゃくしゃに丸まっていた上着を羽織り、両袖をぐっと捲り上げると、王九は大きな足音を立てながら、小さな部屋を出ていった。
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「後生ですから、俺と……添い寝して……もらえませんか……」
「気色悪ぃこと言うんじゃねえよ」
「お願いします! お願いです、どうか……」
「嫌だ」
はっきりとした拒絶の言葉を伴って、王九は膝の辺りに縋りつく蛙仔を蹴り飛ばした。邪魔だ、どけ、という意図を伝えるための力加減だったこともあり、相手の巨体はぴくりとも動かず、王九の苛立ちはぐんと募っていく。事務所(ここ)に大老闆がいなくて良かった。訝しげにこちらの状況を見守る手下たちの視線は多少気になるが、大老闆に目撃されるよりは数倍もマシだった。もしこんな現場を見られていたら、金槌でこの哀れな男の頭をかち割っていたかもしれない。
「いいから手を離せ。おい、聞いてんのか」
「九兄貴じゃないと駄目なんです!」
早朝に意味もなく目覚めたときから感じていた嫌な気配は、たった今、実体を成して王九に襲いかかってきた。相手の手汗がスラックスの布地を湿らせる不快感に、ひくりと口元を引き攣らせる。苛立っている状態の王九に気づいているのか、いないのか、はたまたそんなことを気にしている余裕が無いのか、蛙仔はめそめそと泣き言を続けた。
「俺ヤバいんですよ、兄貴と添い寝しないと大怪我するかもしれなくて」
「はぁ? 意味の分からんことばっかり言ってないで仕事しろクソが」
王九にすげなくあしらわれた蛙仔は、事務所に響くような大声を発した。
「市場の!」
すぐに自分の態度が不適切だったと気づいたようで、蛙仔の声は萎むように小さくなる。
「市場の北側の路地裏にいる占い師が……髪が長くて髭の生えた成人男性、それも派手なシャツを着てサングラスをかけた男と添い寝しないと、お前は大怪我するって言うんです……!」
「……なんだその限定的な予言」
「よく当たる占い師だって有名で」
蛙仔の額からぽたぽたと滴る汗が床に暗いシミをつくった。男の背中はすでにぐっしょりと濡れており、その必死さが伺える。添い寝うんぬんの前に溶けて消えるんじゃないかと、王九は真剣にそう思った。
「そいつ殺すか。死んだら無効だろ」
「いやあ……俺もそう考えて、やろうとしたんですけど。それがもう居ないんです、例の場所に」
先程までの怯えはどこへやら、蛙仔はあっけらかんとした口調でそう言った。殺す気で、再び占い師に会いに行ったのだという。蛙仔の言葉を聞いて、王九の機嫌は少しだけ上方修正された。血気盛んというか、なんというか、この男の正しく人でなしであるところが好ましいと思う。しかし。
「占いなんて信じるな。馬鹿馬鹿しい」
「うぅ……」
でも、だって。と、蛙仔は数ヶ月間に渡り果欄全体に及んだ占いの影響と実害、実益について語り始めた。事の起こりは、真新しい物事に飛びつきがちな若手が、路地裏に店をかまえた占い師と出会ったことから始まった。黒色のローブをまとい目元を隠した占い師は艶やかな声を持つ女で、若手はまんまと、藍色の布地をかけただけの簡素なテーブルに引き寄せられた。
あなたの手をみせて。雪のように白く、細い枝のようにしなやかな指が、手のひらに刻まれた線を優しくなぞる。あなたは、人には言えないような仕事をしているのね。今朝から腰を痛めているみたいだけれど、蓬はよくないわ。芍薬甘草湯をお飲みなさい。それから、そうね、あなたは靴を買い替えると、きっと良いことがあるわよ。若手は自身のことをぴたりと当てられ動揺したものの、占いを信じてはいなかった。だから靴を買い替えることなどしなかった。すると、どうだろう。その日の夜、若手は事務所の外階段を踏み外し、大腿骨を折る大怪我を負った。若手は心底驚いたという。占い師の言うことを真摯に受け止めず、占いに反した行いの結果がこれだ。
噂を聞きつけた果欄の面々は単純な興味、怖いもの見たさ、からかい半分で次から次へと占い師の元を訪れた。そして全員が全員、誰にも話していないことをぴたりと当てられ、占い師のいうことを聞かなかったものは皆――。
「不幸な出来事に見舞われている、というわけです」