アン・ドゥ・トロワ偶然にも、恩師とオクヘイマで出会った日。本人は乗り気では無さそうだったが、せっかくだからとごねにごねまくり、夕食を共にする事まで漕ぎ着けた。中々会う機会がないのだ。このくらいのワガママなら、きっと許してくれるだろう。
「本当に…かわりませんね、あなたは」
「はは、そうかい?……ところでアナイクス先生、少し飲みすぎじゃないかい?」
「第一に、アナイクスと呼びなさい……第二に、私は酔ってなどいません……」
もう既に何杯目はわからないネクタールに手を伸ばそうとするアナイクスの手に、すんなりと水を手渡す。不服そうなその顔はたしかに赤く紅潮しており、こちらを睨む海から昇る朝焼けのようなその瞳は、いつもより潤んでいるような気がした。
「そうは言ってもさ、顔も赤いし呂律も回ってないよ。今の先生なら弁論で勝てちゃいそうだ」
「ふっ、調子に乗らない方がいいですよファイノン……」
タンッ、と歯切れの良い音を立てグラスを机に置くアナイクス。まずい、相当酔っている。これまで数回しか酔ったアナイクスは見ていないが、決まっていつも、昔話やファイノンの痴態を良く話すようになる。
「そもそも、貴方の口を、頭をよく回るようにしたのは誰です?えぇこの私アナクサゴラスですよ。貴方は小賢しい方にばかり使っていましたがね」
ファイノンの唇に指を当てながら意気揚々と話すアナイクスは、昔のことを思い出しながら楽しそうに語っているように見えた。
「まあ、弁論大会で何度も優勝していた貴方は本当に師として鼻が高いですよ。ふふふっ」
あぁ、これでこそ、僕のアナイクス先生だ。いつだって生徒思いで、じつは僕達のことが本当に自慢で……それを普段は表に出さない。それが、愛おしくてたまらない。
「僕もアナイクス先生の元で色々学べてよかったよ。ほら、お水飲んで」
あえて簡潔に返事を済まし、ほぼ無理やりアナイクスに水を飲ませる。それを何度か繰り返したところで、ふらつきがましになったアナイクスと共に店を出る。
変わらず夜の訪れないオクヘイマは明るいが、人は誰もいない。横で少しフラフラしている恩師を軽く支えながら歩いていると、ふと、どこからか音楽が聞こえてくる。
「ん……?」
アナイクスもそれに気づいたのか、音楽の鳴る方へふと、顔を向ける。
「どこからだろうね。でも、凄くいい曲だ。踊り出したくなっちゃうな。」
だなんて、冗談交じりで微笑むと
「…………ファイノン」
突然ぐ、と手を掴まれる。どうしたんだろう、トイレにでも行きたいのかな?と思っていたが
「私と1曲、踊りなさい」
予想外だった。まさかあのアナイクスから、オクヘイマで、それに外で、舞踏のお誘いをされるとは。
「……ふふ。いいよ、足踏んだらごめんね」
優雅な音楽ともに、手を取り合い、自由にステップを踏む。意外にも、アナイクスの足取りは軽く、そしてバレエのように優雅だった。少しふらついているが、本人はそれも楽しむように、時には足を上げ、ファイノンに体を預け音に乗っていた。
「ファイノン、足をもう少し外側へ。えぇ、そうです……ふふ」
こんなにも楽しそうな顔をするだなんて、思ってもいなかった。ファイノンの手を軸にくる、と回り、服の裾をひらりと舞わせるその姿は、海を自由に泳ぐ、夜を模した熱帯魚のようだった。
ファイノンはそこまで経験はなかったが、見よう見まねで、少し不器用に踊る。人っ子一人居ないオクヘイマの街中は、2人だけの舞台へと化していた。
「…綺麗だね」
楽しそうなその顔を見つめながら、独り言のようにファイノンは呟く。首を傾げながらも足は止めず、恩師は返す。
「多少なりとも心得はありましたから。」
「……ふふ、少し意外だったよ」
言葉の真意に気づかない、変なところで鈍感なアナイクスの腰を抱き、そして強く、崩れないよう手を繋ぐ。顔を寄せれば香る酒の匂いと、薬草と石鹸の匂い。ふわりとファイノンの鼻腔を擽るそれは、青年の心を指先で撫でるように弄んだ。
ふと、アナイクスが上半身を後ろに倒すのを合図に、腰を支え、手を上へと誘う。すると、アナイクスは長い足を片方上げ、楽しげに体を反らす。
「っはは!貴方、ワルツの才能がありますよ。次はダンス大会に出たらどうです」
前髪が重量に従い、普段は見えない額を見せながら、心底楽しそうな顔をして、体制を戻す。顔がぶつかりそうになるのを避けながら、いっそのことわざとぶつけてキスでもしておけば良かったかな、と小賢しく考える。
「先生も一緒に出てくれたら考えようかな」
「私にそんな暇があるとお思いで?」
「でも、僕のためなら時間を作ってくれるだろう?」
繋いだ手はそのままに、二人の間を流れる緩やかな音楽が小さくなっていく中で、ファイノンはまっすぐ、アナイクスを見て問う。
装飾品の数々や、本人の虹彩が照らされ、鮮やかに光を反射させる。ファイノンには少し、眩しすぎるほどに。
「……さぁ、貴方の頑張り次第かもしれませんね」
手を振りほどかず、少し意地悪に微笑みそう答える。酔いが覚めたのか、はたまたまだ夢見心地のままなのかはわからないが、きっと、これは本心だ。
「その時が来たら、先生のために頑張るからさ」
そう微笑んだファイノンに、生意気とでも言うようにふん、と鼻を鳴らし、ファイノンの手をすり抜け、足早に先を行く。
きっと金糸に見つめられることが、そろそろ不愉快の限界に近づいたのだろう。せっかくだから送っていくよ、とついて行けば
「勝手にどうぞ」
と否定はせず、しかし振り向かず進んでいく。
貴方のために、貴方が描く未来のために、僕はいつだって尽力する。たとえ、貴方や他の人を殺しても。
また、貴方と手を取り、踊りたいから。