巡に「夏休みの宿題手伝って」と呼ばれたから、まだ八月頭なのに感心なことだな、と思いつつ勉強道具を一式持って栄柴家へ向かう。
いつも通り巡の部屋へ、と思ったらお手伝いさんに食堂へ行くよう促される。食堂でなにをするのかと訝しみつつも向かうと、扉を開く前から廊下にまで出汁の匂いが漂っているのに気がつく。
「佐久ちゃん! こっちこっち」
扉を開けば巡が明るく手招きをした。巡の目の前にあるダイニングテーブルには土鍋が乗っている。出汁の匂いはこれからしているらしい。その中身は、
「……茶碗蒸し?」
「そ! いいでしょ? 見て、しいたけ」
薄黄色の海には薄く切られた椎茸や鮮やかな緑の三つ葉、桜の形をした蒲鉾が浮かんでいる。海老や銀杏が少しだけ頭を出しているのも見えている。土鍋いっぱいに作られていること以外は、よくある基本的な茶碗蒸しだった。
「これ、佐久ちゃんに食べてもらおうと思って」
「なんで俺に? 夏休みの宿題はどうした」
「これ、宿題」
こんな鰹節の香りも豊かな宿題があるか、と言おうとして、家庭科の宿題があったことを思い出した。佐久夜がとっくに終わらせた、料理を作る内容の課題だ。
「……あれはバランスの良い献立を考えて、実際に作る宿題だったはずだが」
「うん」
「土鍋茶碗蒸しの献立なんて、栄養バランスが偏るだろう」
「そう?」
目を丸くする巡はなんの疑問もないようだった。宿題を八月頭にこなす程度の熱心さはあるのにどうして栄養のことをなにも覚えていないのだろうか? 巡の頭の中を覗けるわけでもない。解けない謎がまた一つ増えた。
「ねー、いいから食べてよ。せっかく美味しくできたのに、冷めちゃうよ」
「大体、なんで俺が食べるんだ? 自分で食べればいい」
「こんないっぱい食べれないし」
じゃあ、作らなければいいのに……。
「お前も一緒に食べればいい」
「いーの。お腹いっぱいだし」
……じゃあ、作らなければいいのに……。
これ以上言ったって仕方がない気がしたので、巡の向かいに座って、用意されていたスプーンを手に取る。湯気を立てている茶碗蒸しは確かに美味しそうだった。茶碗蒸しに罪はない。夕飯を少し減らせばいい話だ。
「いただきます」
「召し上がれ」
湯気の向こうで微笑む巡は歌うように返答した。上機嫌なようだった。
ふるふると揺れる黄色を掬って、息を吹きかけて冷まし、口に含む。申し分ない味だった。手伝ってもらったものだとしても、かなりいい出来だ。量が多すぎることと、自分で食べる気がさらさらないこと以外に文句の付け所はない。
「美味しい?」
「ああ」
「えへへ、よかったー」
「ただ、これは課題の条件を満たしてない。やり直した方がいい」
忠告すると、巡は途端に眉を寄せて唇をとがらせた。
「んぇ〜? せっかく作ったのにな〜」
「教科書を読み返して、献立の作り方を再確認しておけ」
巡はぶぅ、と不満げな声を漏らす。けれどすぐに目をきらめかせて、弾んだ声で提案を投げた。
「じゃあさ、今度は佐久ちゃんも一緒にやってよ。作らなくてもいいからさ、アドバイスと試食だけして」
「……まあ、構わないが」
巡の顔は笑顔に戻っていた。目も口も曲線にして、茶碗蒸しを減らしていく姿をじっと見ている。
「あと、ほかの宿題も手伝って。一行日記と自由研究、佐久ちゃんのことで埋めてもいい?」
「俺を研究するのはやめろ」
どこまで本気か図りかねるのが恐ろしい。大きな模造紙いっぱいに自分が研究されている様子を描かれたら、大抵の人間は不登校になるんじゃなかろうか。
「食べんの早いね」
「ちゃんと噛んで、味わって食べている」
「そんなこと疑ってないってば」
土鍋の中身はすでに半分ほどしか残っていない。
「ね、宿題のやり直し、佐久ちゃんはなに食べたい?」
「リクエストを聞いてどうする。自分で考えろ」
「どうせなら好きなの食べて欲しいもん」
「俺が食べることが最優先になったら、意味がないだろう」
「でも俺は、佐久ちゃんをお腹いっぱいにしてあげたいからさぁ」
茶碗蒸しを掬うスプーンが、かつんと音を立てて鍋にぶつかる。残りはどんどん減っている。食べれば食べ物は減っていくのは当然のことだ。あと三口分。あと二口分。あと一口。
「お腹いっぱいになった?」
巡はテーブルに肘をついて行儀悪く座りながら、ただ微笑んでいる。
それなりに満腹だ、と返答しておいた。