雲の晴れ間をかき分けて 麦穂色の瞳が一瞬だけこちらを向いて、気まずそうに逸らされる。そして次に続くのは、決まって小さな溜息だ。
「おい、ネロ」
「……! はい、キャプテン」
「何度目だ、それ。辛気臭えツラしやがって。いい加減に何があったかちゃんと言え」
「あ、えっと……いや、なんでもないです」
もうこのやりとりも何度目か。ここ数日、ネロはずっとこの調子だった。
気怠げな双眸はより一層影の色を増し、薄い唇からは溜息が微かに零れる。落ち込んでいます、を体現したような格好をしておきながら、聞いてやっても決して理由を口にすることはない。
正直、溜息をつきたいのはこっちのほうだった。
別にこのまま放っておいても、ネロはいつも通りに美味い飯を作って、いつも通りに与えられた仕事を上手くこなす。それでも、いつも隣で新しい世界に触れては宝石のように瞳を輝かせているひよっこが、こうも沈んだままでいればどうしたって引っかかる。しかもその理由に自分が絡んでいるかもしれないとすれば、余計にだ。
──それに、訳知り顔な船員が約一名居るのもいただけなかった。
「盗み見とは趣味が悪いな。何の用だ」
ネロが離れていってすぐ、ずっと物陰からこちらの様子を窺っていたスノウに声をかければ、身軽な体躯は即座に隣へ飛んできた。すとん、と軽快な音と共に甲板が震える。
「なんじゃ。気付いておったのか」
「当たり前だろ。俺様を誰だと思ってやがる」
「きゃ〜! キャプテンかっこいい!」
軽口を叩くスノウにわざわざ突っかかるのも馬鹿らしい。黙って海を見つめていれば、向こうの方から話し始めた。
「可愛いひよっこが沈んでおれば、流石のそなたも気になるものかのう?」
「別に。でもまあ、人の面見て毎度溜息吐かれちゃ、気分はよくねえな」
ちら、と一瞬視線を後ろに向ければ、スノウは大袈裟に肩を落として言葉を返す。
「酷い言い様じゃ。……しかし心配じゃのう。ネロは、黙ってひとりで考えすぎるところがあるじゃろう。こうしているうちに、再びこの船から消えてしまうかも……」
「はは! そりゃあ面白え冗談だな。可笑しすぎてうっかり手が滑っちまいそうだ」
愛用品のカトラスをくるりと弄べば、スノウはやれやれと首を振って呟いた。特徴的な虹彩をした大きな瞳がじっとこちらを見据える。相変わらず、ガキの見た目で底知れない雰囲気がある男だ。
スノウはそれ以上何も言わなかった。しばらくすればころりといつもの懐っこい顔をして、こちらに手を振り、船首を離れていく。
さて、こうしてじっとしていたところで何も始まらない。先程一瞬視線を遣った先、柱からのぞく青灰色の髪の持ち主を探すべく、俺は大きく足を踏み出した。
「ネロ」
名前を呼べば、調理場の隅で縮こまった背中がびくりと震える。慌てて立ち上がったネロは、呼ばれた通りにこちらに駆け寄ってきた。
「キャプテン……」
揺れる瞳がこちらを見る。また逸らされるかと思ったが、今回はそうではないらしい。今にも泳ぎ出しそうな視線は、それでもなんとかこちらをとらえ続けている。大方先程のスノウとの会話を聞いていたのだろう。
「あの、何か用ですか?」
小首を傾げるネロを真っ向から見つめ返す。生い立ちのせいかどこか世間知らずでぼんやりとしたスクアーマ。ギフトこそ無いものの、こいつの気配りや吸収の速さは天性のものだった。
麦穂色に空の浮かんだ瞳を見つめていれば、じわ、と次第にネロの頬に朱が差していく。揶揄ってやろうと口を開き、言葉を発するその直前。ネロが後ろ手に何かを隠していることに気がついた。
「おいネロ。それ……」
「あ……!」
慌てて隠そうとするももう遅い。流れるように奪った其れは、いつか市場でネロに買い与えた包丁だった。
対するネロは、この世の終わりのような顔をして固まっている。海賊ともあろう男がこんなにわかりやすくて大丈夫なのだろうか。いっそ心配になるが、それよりも今はこの表情の理由が気になった。
「その、キャプテン、俺……」
「おう。どうした?」
少し屈んで視線を正面から合わせれば、ネロは観念したようにぽつぽつと話し始めた。
貰った包丁を手入れしてずっと使っていたが、最近になって刃こぼれが酷くなってしまったこと。なんとか復活させようと色々試したが、どれも上手くいかなかったこと。
「俺には勿体ないくらい上等なものだし、何よりあんたに貰ったものだから、大事に使おうって決めてたんだ。だけど……」
俯いてしまったネロを前に、俺はといえば正直拍子抜けだった。こんなに暗い顔をして、人の顔を見ては溜息をついていた理由は、もしかすると本当にこれなのか。
考えれば考えるほど、わからない奴だと思う。俺からすればなんでもないことで頭を悩ませては、信じられない方向に舵を切って突っ走っていこうとする。危なっかしくて、放っておけない。
「……最近の浮かない顔の理由はそれか?」
かろうじてそう聞けば、素直な肯定が返ってくる。なんだか力が抜けてしまった。大きく息を吐けば、不安げな瞳がおずおずとこちらを窺った。
「てめえは、本当に……」
「すみません、キャプテン。俺……」
怒られると思ったのか、眉尻を下げてしおらしくしているネロの肩を抱き寄せる。
「ったく、謝ることはねえよ。ただ、これからはそういうことは真っ先に俺に相談しろ。ちょうど食糧も補充したかったところだ。今から市場に行くぞ。良いな?」
「えっ、今からっすか?」
「返事」
「う……アイアイ・キャプテン」
そうと決まれば話は早い。船員たちに声をかけ、船をフォルモーント島へと向かわせる。
騒がしくなった船内で、隣の男はぽつりと呟いた。
「俺、あんたと居ると、欲張りになっちまいそう……」
困惑とも恍惚とも似た声音。困ったようにはにかむ顔は、最近の沈んだ様子よりも余程良い。
ざ、と桜色の波を掻き分け、陸へと進む。空は快晴。絶好の航海日和だ。
「はは、そりゃあ良い! 俺等は海賊。欲なんざ、いくらあっても困らねえさ!」