THE GAME IS OVER ──ああもう、一体何が起こっているんだ!
男はそう叫び出したいのを必死に堪え、なんとか笑みを貼り付けつづけた。
西の国の北部、北の国との境の街の片隅にあるカジノ。取引の場所として選んだこの店とは、男は深い関係にあった。男は西の国の資本家で商売人だ。このカジノの経営にも裏で一枚噛んでおり、本来ならば今頃男の前には多少のイカサマを駆使して積み上がったチップが並んでいるはずだった。
「……おっと、また俺の勝ちだな。旦那は客人のもてなしが大層上手いらしい」
テーブルの向こう側の男は長い脚を組みかえて不敵に笑う。バイカラーの髪に鼻筋を横断する大きな傷痕。仕立ての良いスーツを纏う男は、今宵の取引相手──北の国、死の盗賊団の頭領であるブラッドリーだ。
きっかけは数日前、男が北の国での商売に手を出した際のことだった。普段西の国を本拠地としていた男は、あろうことか死の盗賊団の活動する領地で派手な騒ぎを起こしてしまった。額を雪原に擦りつけ、必死に命乞いをする男に対し、ブラッドリーは取引を持ちかけたのだ。
『今日の俺様は機嫌が良いんだ。久々に派手に賭けでもしたい気分でな。場所はてめえが自由に選べばいい。スリーゲーム中一度でも俺に勝てたら、あの辺りを自由にする権利を譲ってやるよ』
馬鹿な奴だと思った。同時に、男にとってはこの上なく好都合だった。自分の息のかかった賭場を取引の場として選び、オーナーや関係者の数々をいつも通り金で買収。相手の機嫌を損ねてしまっても良くないので、最初のゲームは勝たせてやって、次のゲームでサクッとこちらが勝てばいい。
思い描いた筋書きは、今目の前で崩壊しようとしていた。二ゲーム目が終わったのだ。それも、ブラッドリーの勝利という形で。
手札が悪かったわけではない。そもそもカジノの人員をまるごと買収しているのだから、当たり前だ。ただ、相手の運が良かった。これなら勝てると思った手の、一枚上を出してくるのだ。
「……失礼。少々、お手洗いに」
絞り出した声はみっともなく震えていた。ブラッドリーはそんな男を見て、ワインレッドの双眸をゆるりと細めてみせる。
「いいぜ。ただ……逃げんじゃねえぞ?」
ドッと心臓から汗が噴き出すような心地だった。
ああ、そうだ。自分が対面しているのはあの悪名高き北の魔法使いだ。オズの城には近づくな。双子が囲っている村の傍で悪さをするな。神出鬼没のミスラに会ったら、笑って後退して、一目散に逃げろ。オーエンに話しかけられても目を合わせるな。そしてこの男、死の盗賊団の頭領、ブラッドリーは確か。
「……名前を聞いたら、震えて眠れ、か」
手洗い場へと駆け込んだ男は、青褪めて震える自分の顔を鏡の中に見た。チッ、と一回舌を打つ。すると、給仕の一人がタイミング良く現れた。
きっちりと衣装を身に纏った給仕に、男は声をかけ、ひとつの小瓶を手渡す。
「おい、おまえ。……奥の手だ。いいな?」
お待たせしました、の言葉と共に、男はテーブルへと戻った。向こう側に居るブラッドリーは、手元のチップを指先で弄び、相変わらずその表情から不敵な笑みを絶やさない。
「……さて、次でラストだな。前に言った通り、この勝負におまえが勝てば、あの一辺で好き勝手やっていい」
男は息を呑んだ。負けられない、負けるはずがない勝負だ。関係者は買収済。もし前回のように手札を運で超えてきたところで、こちらには奥の手がある。
気がつけば、周囲の卓で遊戯に勤しんでいた者たちも、吸い寄せられるようにこのテーブルへと視線を向けていた。野次を飛ばす者もいれば、どちらが勝つかに賭けている者もいる。
舞台の準備は整っている。なのに、何故だろうか。嫌な汗が背に滲むのは。
最終戦の幕は呆気なく閉じた。ラストゲームはブラックジャック。ヒットの末、二十一にぴたりと手札を揃えてきたブラッドリーは、不遜に口角を上げてみせる。
こんなのはおかしい。叫び出したい気持ちを抑え、男はコンコン、とテーブルを軽く二度叩く。すると先程手洗い場に現れた給仕がテーブルへと姿を見せた。
「失礼します、お二方。素晴らしい勝負をありがとうございました。こちらはカジノからのサービスでございます」
ショットグラスに注がれた黄金色のウィスキー。二人の前に差し出された其れに、ブラッドリーは迷い無く手をつけた。嚥下に合わせて喉仏が上下する。飲み干されたのを確認し、男は小さく息を吐くと、同じように目前のグラスに口をつけた。
「……さて、終いだな」
ブラッドリーのその言葉を聞いた途端、男の視界がぐにゃりと歪む。持っていたグラスは指先から滑り落ち、床と衝突して派手な音が響いた。
「……ぁ……?」
男の頭の中で警鐘が鳴る。指先ひとつ、痺れてまともに動かせやしない。テーブルへと沈んだ男は、辛うじて動いた思考のまま、先程の給仕の男を睨みつけた。
「おや、お客様。お体の調子が優れないようで」
しれっとそう返す給仕を怒鳴りつけようと口を開くも、喉が焼けたようにかひゅ、と掠れた音しか出てこない。給仕の男は割れたグラスの破片を片付けながら、おや、と蜜色の瞳を見開いた。
「すみません。お出しするグラスを取り違えてしまったようで」
その言葉を聞いた途端、ブラッドリーは堪えきれなかったかのように声をあげて笑いだした。意識はあるまま動けずにいる男の方へと、つかつかと歩み寄る。
「よう、旦那。さっきのこいつの言葉が間違いじゃなきゃ、てめえはこれを俺に盛るつもりだった。そうだな?」
ブラッドリーが男がもたれかかっていた椅子を引く。床へと倒れ込んだ身体に向かって問いかけるも、男はもはや指先ひとつも動かせやしなかった。
そして、男はここでようやく、自らの迂闊さに気がついた。
そもそもこの取引は、取引として成立していない。男が勝てば商売を自由にする権利を手に入れられる。しかし、男が負けた場合──ブラッドリーが勝った場合の処遇は、一度たりとも聞いていなかった。自らに利がない取引に、ブラッドリーがのってくるはずがない。つまり。
その証拠に、ブラッドリーは先程の給仕の肩を抱き、こちらを見下ろしていた。「ネロ」と気さくそうに青灰色の髪をした給仕に声をかけている。
ああ、全ては仕組まれていたのだ。自分の運命はこの北の魔法使いの領域を侵した時点で決まっていた。ただ気分ひとつで今の今まで転がされていただけ。
向けられた銃口の冷たさが、痺れた身体を余計に雁字搦めにするようだった。
そのまま呪文を紡ごうとしたブラッドリーの代わりに、ネロと呼ばれた給仕の格好をした男が一足先に呪文を唱える。
「《アドノディス・オムニス》」
突然周囲に現れた銀のカトラリー。その切っ先を視認した直後に、男の意識は完全に途絶えた。
✻
「ったく、俺様の獲物を横取りか? らしくねえじゃねえか、ネロ」
「うるせえ。大体、あんたがわざわざ手にかけるような奴じゃなかっただろ」
後始末も魔法で早々と終わらせ、ブラッドリーとネロは急いでカジノを後にした。目前で行われた命懸けのショーの結末にすら、きらきらと目を輝かせるのだから西の国の住人たちというのは末恐ろしい。
カジノの名前を取引場所として出された時点で、この結末は決まっていた。元より金で釣られるようなカジノの構成員など、懐柔するのは易いものだ。より高い報酬をチラつかせるか、軽く脅せばどうにでもなる。
「まあ、暇つぶしくらいにはなっただろ。金持ちのわりに、持ってるモンはそれほどじゃなかったけどな」
「……ブラッド」
ちょいちょい、とネロは指先でブラッドリーを突ついた。呪文と共にネロの手元に現れたのは、一本のワインボトルだ。上物の葡萄と天然酵母を用いて熟成させたこのワインは、西の国の小さなワイナリーで作られたもので、滅多に市場ではお目にかかれない。
目を見開いたブラッドリーに対し、ネロは悪戯っぽく笑ってみせた。
「あのカジノ、安酒に隠れてこんなもん置いててさ。あんたも飲みたいだろ?」
密やかに囁かれた言葉に、ブラッドリーは本日一番の笑みのまま、ネロの頬に口付けた。
「っはは……最高だ! 美味いつまみも頼むぜ、相棒!」
「仕方ねえな、じゃあ帰りにちょっと食材調達しにいくか」
死の盗賊団のトップツーは、二人して途端に陽気な足取りで帰路につく。
返り血に塗れた衣服のまま、鼻歌を歌いながら歩くふたりの姿は、カジノから出てきた西の国の住人たちに目撃され、後日多少の脚色を加えつつ物語として紡がれただとか。