2023年1月「…」
「あ、おかえり」
「…ただいま」
また尾形が帰ってきた。
帰ってきた、というのは少し違う感じだが、帰ってきた。
「冷蔵庫、開けるぞ」
ぼそりと呟くように言って尾形は冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出した。
「はい」
俺が花柄のコップを差し出すと「ありがと」と言って受け取り居間まで行ってそれをテーブルに置き、自分も座った。尾形は自分で注いだ麦茶を一口飲んで、肺ごと出てくるんじゃないかというほどの大きなため息をついてテーブルに伏せった。
尾形はこの家の住人じゃない。お隣さんだ。だから帰ってきた、はおかしい。そして俺たちは家族でも恋人でもない。まあ友だちと言えば友だちだが何もないと言えば嘘になる…そんなちょっと後ろめたい間柄だ。小学校の頃からのツレで「目つきが悪い」とか「態度が悪い」とかいう理由で喧嘩から始まった腐れ縁、だったはず。詳しい所は忘れてしまったくらい過去の話だ。その割にはいい歳になった今でも何となくずるずるとここまで来た感じ、と多分尾形は思っている、と思う。
実は俺には過去の記憶がある。明治時代くらいかな、侍はいないけど洋服のような着物のような服装だから多分そう。そういう時代背景はかなりぼんやりとした記憶だから別にそれはあってもなくてもあまり関係がないかもしれない。そこには俺もいて尾形もいて。でも今みたいに一緒にいるような間柄じゃなくて、むしろものすごくいがみ合っていて…というかそんなもんじゃなくて死ぬの殺すの言い合う関係だった。なのに今尾形は俺のセフレだ。人生何が起こるか本当に分からない。俺がそれなりに、はっきり記憶があるのだからきっと尾形も少しくらいは覚えていることがあるんじゃないかと一度訊いたことがあった。そうしたらあいつは「何のことだ」「いつものメルヘン話か」と俺を鼻で笑った。こっちが真剣に訊いているのに。そこからはいつも通りに喧嘩をした。喧嘩をしながらああ、こいつには記憶がないんだなと思った。だけど腹の立つことにこういう癇に障るものの言い方はちゃんと持ち越してきているから記憶云々とは違う所で俺たちは繋がっているんだろう。などと言ったらきっとまた揶揄われるから言わずにいる。
「どしたの今日は。やけに疲れてんじゃん」
尾形の向かいに座りながら俺は持ってきたビールのプルタブを開けた。ぷし、と気の抜ける音が部屋に響いて、それを皮切りに尾形がぼそぼそと喋り始めた。
「まただ。またあれだ…どうしてみんな俺に結婚しろと言ってくるんだ…」
「あぁ、いつものやつね」
テーブルに伏せたまま尾形は再び大きなため息をついた。たった二回のため息だったが俺んちの居間から全ての幸せがシッポを巻いて逃げていく姿が見えるようだった。
「そんなに結婚したきゃお前がすればいいと言ってやりたい…」
「言ってくる人は大概もう結婚してるって」
「俺はあいつらの息子じゃねぇ」
「社会ってそういうもんなんだよ」
「そういうもんか」
「そういうもんなのよ」
「はあぁ~」
ひとしきり身のない問答を繰り返した末に尾形はまた深いため息をついた。あ、また幸せが逃げてった。
「でもさ」
俺は尾形の頭頂部を見ながらビールを一口飲んだ。
「お前、結婚とか、興味ないの?」
…自然に言えただろうか。聞きたいような、聞きたくないような、質問だった。
俺はなんだかんだで尾形を憎からず想っている。どうしてだろう。ずっと前から、それこそ尾形が覚えていないずっと前から俺は尾形が好き、なんだろうな。でなきゃセックスなんてできないよ。尾形もそうだといいんだけどなぁ。でも分からない。思えば尾形からまともにこういう話を聞いたことがない。正確にはこの関係を終わらせたくなくて聞けなかった。興味があったらどうしよう。なのに、聞いてしまった。
「ないね」
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、尾形は俺の質問をばっさり斬り捨てた。
「興味があれば今頃もうしてる」
そう言って尾形はテーブルに顎を乗せた。
「ふぅん」
俺は何事もないように装ってビールを飲んだ。
それって、しようと思えばできるってことだよな。興味がないと知ってホッとしたのもつかの間、興味が湧けばすぐにできちゃう環境にいるんだ、と分かってちょっと胸に棘が刺さった。
「なぁ、そんなことより」
俺の顔を見て尾形はにやりと笑った。
「俺を慰めてくれよ」
胡散臭い笑顔のまま頭を右へコテン、と傾げた。
「興味のない結婚を勧められて疲れてる俺、かわいそうだろ?
慰めてほしいんだよ、
お前に」
たっぷりと間を置きながら尾形は言った。悪い顔だった。
「逆にストレスかけちゃうかもよ?」
ビールを飲み干して空になった缶を尾形の目の前でくしゃ、と握りつぶした。俺もきっと悪い顔をしている。胸の棘が思いのほか痛くて、今夜は優しくできないかもしれないと思った。
「身体的ストレスなら、悪くないぜ」
「明日の仕事に響いちゃうかもよ」
「いっそそれで休めたらいいのに」
「とか言ってても休まないくせに」
「まあな」
尾形は社畜の癖にいつもこういうことを言う。なんだかんだで真面目な性格だということを俺はちゃんと知っている。さすがは上等兵。あんまり関係ないか。
「とりあえず風呂行ってこいよ、飲まずに待ってるから」
俺がバスタオルを出そうと立ち上がると「要らん。入ってくる」と尾形も立ち上がり荷物を持ってのっそりと俺ん家を出て行く。俺ん家でまるで自分の家のように振る舞う尾形も何故か風呂と寝る時だけは毎回律儀に自分の家に戻る。尾形を特別な気持ちで見ている俺としてはできることならそういう所はなあなあでもいいのに、なんて思う。なんだか変な線を引かれたような、不可侵領域の壁を見たような、そんな気持ちで俺はいつも尾形の背中を見送る。そして尾形にも負けないような大きなため息をついて一人の時間を過ごすのだ。
「待たせたな。なんだ、テレビもつけずに。辛気臭ぇな」
俺が悶々としている間に尾形は静かに戻ってきた。洗いざらしの髪でいながらサマーニットと黒いパンツ。もういっそパジャマで来たっていい時間なのにいつもそう、外出仕様の格好だ。それもまた距離を感じる要素だった。自分から振った結婚の話で勝手にセンチメンタルになって、壁を感じて、へこんで。ばかな俺。でもそれだけ尾形にやられちゃってるんだ。ずっとセフレでいいと思っていたのに。どこで何かが狂ってしまった。
「テレビなんか要らないだろ、セックスするだけなんだから」
「…まあな」
苛ついた口調で返したからか尾形が僅かに怯んだ気がした。そういうのはいけない。付け込みたくなるから。
「行こうぜ、寝室」
「いきなりかよ」
「そのつもりで戻ってきたんだろ。することすればいいじゃん」
「…お前がそれでいいなら…」
「ん?」
「行こうぜ、寝室」
歯切れの悪い返事を訊き返そうとすると俺と同じことを言って尾形は俺の手を引いた。
「慰めてくれるんだろ」
悪い顔で俺を誘う尾形にはもう歯切れの悪さは残っていなかった。
寝室へ入るなり俺は先導していた尾形の背中を押した。尾形はつんのめるように目の前のベッドに沈み、俺はうつ伏せの尾形をひっくり返して胸倉を掴むようにサマーニットに手をかけた。
「おい、杉元。やぶけるだろうが」
尾形が非難の目を向けてきたが構わない。俺にとってこの服は壁以外の何物でもない。それでも俺は尾形にそれを悟られたくなくて。
「そういう気分なの」
にっこり笑って嘘をついた。
本当は優しくしたい。尾形の言う通り慰めてやりたい。だけど今日はどうしても許せない。自分も尾形も許せない。でもサマーニットはどんなに引っ張っても形を歪めるだけで全然破れなかった。苛々するのにどうにもならない、ばかな俺とおんなじだった。
「好きにしろよ」
「慰められないかも」
「お前がそういう気分ならそれでもいい」
「…」
何だかんだで尾形はいつもそうだった。俺の意見を優先する。元々はお前が慰めろって言ったのに。そういう所にも今日はやけに苛々した。そして自分が蒔いた種が嫌な育ち方をしていることに泣きたくなった。
「なんだ、気分じゃなくなったのか?」
ああ、俺は今きっと酷い顔をしている。俺の顔を見て尾形が少し残念そうに訊く。尾形はただここへセックスをするために来ているのに。セックスをしない俺なんてお呼びじゃないよな、なんて考えてまたへこむ。
「うるせぇ」
もう何も悟られたくなくて俺は尾形の唇に、不躾にキスをした…
「おい…おい、杉元」
「なんだよ」
「どういうつもりだ」
「何が」
「チンポ抜きやがれ」
「…」
そう言われる理由は分かっていた。だから俺は素直に尾形のお尻からちんちんを抜いた。
「らしくねぇな、中折れなんて」
「…」
らしくないも何も、初めてだった。俺も若いし?尾形のこと好きだし?とりあえず腰振っておけば何とかなると思っていたのにだめだった。俺ってそんなにデリケートだったのか。プライドという骨組みを折られて心が更にへこんだ気がした。顔が、上げられない。
「あの…
「俺ではだめになったか?」
俺の弁解を遮る形で尾形が呟いた。少し笑っている。
「俺は、まあ男だからな。始めから無理だとは思っていたよ。今までこういうことがなかったことの方がおかしいよな」
俯いたまま俺は尾形の方を見た。視界に尾形の萎えたちんちんが見えた。ああ、そうだよな、中折れちんちんじゃ良くしてやれるわけないよな、とまたへこんだ。
「仕方ない…さよならだ、杉元」
「え?」
それは俺のセリフだろうと顔を上げると、俺よりずっと傷付いた顔をした尾形が明らかに無理やりな笑顔で俺を見ていた。それも本来俺がする顔だ。
「なんで…?さよなら?」
「セックスのできない俺なんてお役御免だろうが。こんなこと言わせるな」
「いやいや待って。お役御免は俺の方だろ」
「なんで」
「だってセックスできない俺なんて…」
「なんだお前、俺がセックスだけのためにここに来てると思ってたのか」
「え、そうじゃないの?」
「見損なうな、ばか」
「じゃあなんで?」
「お前なぁ…」
尾形は大きなため息をついて「とりあえず穿け」と俺にパンツを投げつけてきた。そして自分も布団の横に畳んで置かれていたパンツを穿いた。
「お前は顔がいいのに察しが悪い」
「あ、どうも…」
「褒めてねえよ…お前はどうして俺とセックスするんだ」
「あの…」
まるで説教を受けるように俺は尾形の前で、パンイチで、正座をしてもじもじした。この格好で告白させられるのか、俺…
「はっきりしろ、杉元」
「は、はい。好きだからです」
あーあ、言っちゃった。だっせぇ。
「ふーん」
尾形は気のないような返事をしたがもそもそと胡坐を崩して正座をし、そっぽを向いた。全身がじわじわと薄ピンクに染まっていく。人に告白させといて盛大に照れるとか。こいつもなかなかにだっせぇ。でもそのリアクションに俺は期待してもいいと思ってしまう。俺は基本前向きだから。
「あのさ、尾形さん。尾形さんはどうなの?」
「すぐ調子に乗るな、ばか」
「すんません…」
尾形は立ち上がり、正座をして再び俯いた俺の頭をぐりぐりと撫でた。
「あの頃とは違うんだ。せっかくまた逢えたんだから今度こそうまくやろうぜ、杉元くん」
「え、おま…」
「うるせぇ。そのまま撫でられてろ」
「うん…うん」
俺の視界に映る尾形の足がまたピンクに染まったように見えた。
というわけで晴れて俺の恋人になった尾形は「もうお前に気に入られようとしなくていいよな」と毛玉だらけのスウェットで遊びに来たり勝手に風呂に入るようになった。
「お前いつでも結婚できるんじゃなかったのかよ」と訊いてやったら「そんなもん相手はお前に決まってるだろうが、もだもだしやがって。お前が言わなかったら俺が言うつもりだったわ」と鼻で笑われた。
…尾形、あの頃はかわいかったなぁ。今も別の意味でかわいいからいいけどね。