2023年5月 路地の先 杉元とは少し早めの仕事上がりに何気なく立ち寄った居酒屋のカウンターでばったり会った。
「何、尾形一人なの?」
やけにへらへらしたその様子は、多分ここが一軒目ではないのだろう。よいしょ、と言いながら俺の許可を得ぬまま杉元は隣の椅子に座った。
「ああ、一人だ」
淡々と返事をする。杉元のことは嫌いじゃないが酔っぱらいは好きじゃない。杉元と酔っぱらいを秤にかけた結果俺は、コイツは酔っぱらい側だと判断し、今日の所は塩対応でやり過ごそうと決めた。
「じゃあさ、一緒に飲もうよ、ね?」
アルコールでうっすら赤くなった頬と潤んだ目で、杉元は俺の顔を覗き込んできた。俺はああ、俺の嫌いな杉元だと思った。杉元は俺が断れないことを知っていて、なのに俺の顔色を窺うような上目遣いで懇願してきた。酔っぱらいは面倒くさい、それがたとえ杉元であってもだ。それなのに。ちくしょう。
「……チッ」
店中に聞こえるくらい大きな舌打ちをして俺は自分の飲んでいた瓶ビールのコップを杉元に押し付けた。そして手元に灰皿を引き寄せて煙草に火を点けた。
「好きにしろ」
吐き捨てるように呟いて俺は煙草の煙を天井に向けて吐き出した。一瞬だけ目の前に靄がかかった。
「えへへ、ありがと」
杉元は俺のコップに残っていた二口分くらいのビールをチュッと飲み干した。
俺が知らん顔をして煙草をふかしているというのに、杉元はお構いなしに笑顔で色々話している。今日の仕事の内容だったり、この居酒屋に来る前の内容だったり、まるで杉元の日記を聞いているようだった。話の内容自体は大して面白くもないが聞いているふりをするために隣の杉元を横目で見ると、暑い暑いと言いながら右の前腕で額の汗を拭っていた。髪の奥から流れて首筋へ垂れ落ちた汗が居酒屋の薄暗い照明でぬらりと鈍く光っていて、俺は何故かいけないものを見てしまったような気持ちになってわざとらしく大きなため息をついた。
「尾形はもう飲まないの?」
杉元がまた俺を覗き込んできた。コイツはこれを分かってやっていると頭では理解しているのにやっぱり拒否ができず、俺は無言で新しく貰った自分用のコップにビールを注いだ。
「せっかく偶然会えたんだしもう少し飲んじゃおうよ」
はい、乾杯。もう会ってから暫く経っているというのに杉元がカウンターに置いてある俺のコップに自分のコップをカチンと当てた。俺は分かっている。杉元も酔っている。自分も酔っている。だからだ。そんな行為をかわいいなどと思ってしまうのは。それでも思いの外自分は酔っているのだと改めて思った。ちくしょう。
結局いいほど飲んで、杉元もまた飲んで、お互い何とか自力で歩ける程度の余力があるうちに俺が「帰る」と言うと少し慌てて杉元も「俺も!一緒に帰る!」と立ち上がった。
「別に一緒じゃなくていいんだぜ」
正直俺は一人で帰りたかった。できれば杉元とは素面で会いたいし過ごしたい。酔った杉元はあざといから何となく良からぬ気分になるからだ。杉元がどう思っているかは知らないが、少なくとも俺は、素面の杉元の方が好きだ。
「嫌だね。一緒がいいんだ」
子どものように駄々をこねる杉元。俺は分かっている。分かっている。
「好きにしろ」
本当はここで別れたいのに断れない。分かっているのに断れない。ちくしょう。
店を出て、もう殆ど人のいない商店街のアーケードを二人で歩く。道の真ん中を歩いても誰の迷惑にもならなかった。とりあえずお互いふらつかずに歩けていた。ただ、杉元は俺の右隣で調子の外れた鼻歌を歌っていた。曲名は分からない。杉元が上機嫌だということしか分からなかった。
「えへへ、楽しいね」
俺の気持ちなど知らず杉元がへら、と笑う。
「ふん」
楽しくないわけがなかった。ただ、酔っていることが気に入らないだけだ。
「ねえ尾形、はい」
杉元が左手を俺に差し出す。これだから酔っぱらいは。
「チッ」
舌打ちをして俺は右手でその手を握った。本当に、酔っぱらいは嫌いだ。自分も含めて。杉元はまたえへへ、と嬉しそうに笑いながらあの分からない鼻歌を再開した。
少し歩くと急に杉元が立ち止まった。そして俺の右手をくっと引く。それに合わせて俺も立ち止まった。
「なあ、この先って道、あるのかなぁ」
杉元は自分の右手にある細い路地を見ていた。
「さあな」
いつも通る道の脇などわざわざ入っていったことがない俺は率直に知らないことを告げた。
「こんな所に道なんて、あったかなぁ」
杉元が首を傾げる。
「なんだよ、怖い話か?」
「尾形、こういうの苦手?」
「別に」
「ちょっと行ってみない?」
「めんどくせえ」
「ちょっとだけ、行ってみよ?ね?」
杉元がまた上目遣いをした。ちくしょう。
「少しだけだぞ」
「やった」
本当に質が悪い。ちくしょう。二人で手を繋いだまま右に曲がって路地に足を踏み入れた。そこは薄暗い癖に街灯がなく、営業しているのか廃墟なのか分からないパチンコ屋だとかビルだとか、そういうもので囲まれた酷く狭い路地だった。奥に向かって道は伸びているが少しだけ右にカーブしていてその先があるのかないのか、そこまで行かないと分からない造りになっていた。俺は何となく、酔いが足に来そうだと思った。その路地をゆっくりと歩いていく途中、杉元が俺の手を少しだけ強く握った。
「ねえ尾形。今日居酒屋で会えたのって偶然だと思う?」
俺の方は見ない。前だけを見て小さな声で呟いた。
「違うのか?」
俺は立ち止まろうとしたが杉元は歩みをやめない。
「俺が本当にこの道の先を知らないと思う?」
杉元の歩くペースは変わらない。視線も動かさない。
「知っているのか?」
俺の問いには答えない。杉元は俺の手を引いてただ歩く。パチンコ屋は廃墟だった。
「ねえ尾形。俺と……いけないこと、しよ?」
やはり杉元は俺を見ない。右にカーブした路地の先は袋小路だった。大通りからは俺たちは見えない。
断れるわけがなかった。ちくしょう。