猫になったら希望があるかも!「……あれっ? はじめまして、だよね?」
上から降ってきた柔らかな声は、猫になった私に向けられていた。私がにゃあう、と小さく鳴いて顔を向けると、半分閉じたような眠たそうなその人の目は、全開になった。
「可愛い……」
そっか、私可愛いんだ。良かった。自分では見えないけど。
可愛い猫になった私を見て、その人は美味しいケーキを食べた時みたいな笑顔になった。
「にゃむににゃう、にゃおあぅん……(そんな顔、できるんだ……)」
紫色のフード付きTシャツを着た愛しい人は、ゆっくり屈んで目を細め、ボサボサの頭を掻きながら、
「ん? 三毛猫ちゃん、なんか言った? おれ……一松って言うの。よろしくね」
と、自己紹介をしてくれた。
知ってる。松野一松。私の好きな人。
でも彼は、兄弟以外の人間とは基本的に距離を置いているから、何をどうしたって人間の私には興味を示してくれなかった。
だから、私はお金を貯めて、パンツに白衣一丁の怪しい博士から、一定時間猫になれるという怪しい薬を買ったのだ。
◇ ◇ ◇
「あれっ! 着いてきちゃったの?」
「……ふにゃあう?」
「ううん、ダメじゃないよ」
一松くんは一度屈んで、また目を細めた。たぶん、猫である私を怖がらせないためにそうしてくれている。そう思ったら更に愛しさがこみ上げた。
「……抱っこしても、大丈夫?」
「にゃあうん!」
「そっか、良かった」
彼はそこそこ正確に猫の言葉がわかるらしかった。迂闊なこと言えないな。
視界が高くなる。私の体はすっぽりと一松くんの身体と腕と手のひらに包まれていた。
「おとなしい……へへ、いい子だね……」
彼の手が私の背をそっと撫でる。
……あ、大切なものに触れる時の触り方だ。
まさか、彼にこんなふうに撫でてもらえる日が来るなんて思わなかった。
絶妙な力加減で一松くんに全身を愛撫され、私の喉は勝手にゴロゴロと鳴り出す。
ふわぁ……すご……え!? こ、これはっ……テ、テクニシャンだ……っ!
「ふふふ……気持ちいいね?」
「……ッ、にゃ、にゃぁ……っ♡」
な、何……!? 人に撫でられるのって、こんなに気持ちがいいことだったんだ。
大好きな人に今まで感じたことのない快楽を与えられ、私はうっとりと目を閉じたまま、身体をくねらせた。
しばらく幸せを噛み締めたあと、やっぱり一松くんの顔が見たくて、薄っすらと目を開いてみる。
……ああ、あなたがそんな眼差しで私を見ていたなんて。
猫の身体は柔らかく、ふわふわで、撫でる方も気持ちがいいのだろう。私が人間だったときには絶対に見られなかった顔。
喜びにより上がった頬、幸せな人がする瞳。いつもは死んだ魚みたいな目をしてるんですけど……。そして、少し横幅が広めの口は、デレデレと緩みきっている。
……一松くんにこんな顔をさせられる、猫という存在。すごすぎる。
そして、的確に気持ちの良いところだけを撫でられている私は、再び幸せな気持ちで満たされていった。
赤塚区の松野家の近くに住む猫の社会では、松野一松は有名人だった。
──あの子、すごいのよ。ナデナデがとってもきもちいいの。ときどき、おいしい食べものも運んできてくれるのよ──
なんて、よく耳にしていたけど、いや、まさか……ここまでとは……。
私は心地よさに目を閉じて、また別の方向に身体をくねらせた。
「……ん、これぐらいにしとこっか」
うっとり夢心地のナデナデタイムが終わり、もっとして欲しい……と思いながら一松くんの方に顔を上げる。
「……気持ちよかった?」
小首を傾げ、柔らかな微笑みを湛える一松くんの瞳の中には、猫の私だけが映っていた。
もう……!!! ズルい! そんなの!!! 好き……大好きッ!!!!!!!
一松くんは、メロメロになった私を抱っこしたまま少し歩くと、硝子の嵌められた木戸をガラリと開けた。
「ただいま」
彼にしては大きめの声で帰宅を告げたと思うけれど、返答はなかった。
「……あれ、誰もいないの。まあ、いいけど」
誰もいないんだ。確か、兄弟だけでもあと五人いて、ご両親も現在のはず……。まあ、平日の昼間だけど。
んっ? ということは……はッ!? 二人っきりってことなんじゃない?
わっ、私っ……いつの間にか、一松くんにお持ち帰りされてたってコト!
え? ちょっと待って……緊張してきた〜! キャーッ!!!!!
「あれ? 頭をグルグルさせて、どうしたの。調子悪い?」
「ニャッ!? にゃうおん?」
「えっ、そんなことないよ……って? 良かった……煮干しあるから、二階行こっか」
「にゃあぅん!」
一松くんは少し軋む階段を登り、ちょっと個性的な柄の襖を開けると、中緑色のソファにそっと私を置いてくれた。
「え〜っと……ここに隠してあったはず」
部屋の角の、かなり上の方にある飾り棚から、わざわさ大袋のにぼしを取り出し、私に差し出す。
「……ハイ。どうぞ」
「にゃぁ〜ん!」
美味しい〜っ! 人間の心のまま猫になってるから、キャットフードはちょっぴり敷居が高いというか、どうしても躊躇しちゃうけど、煮干しなら大歓迎。
ん? 味が薄いな……素材の味……。
「美味しい? ちゃんと塩の入ってないのを買ったからね、安心して」
「にゃ、にゃうぉぉ〜ん……」
な、なるほどぉ〜……猫の健康を考えてくれる一松くん、優しい。できれば、その優しさを少しでも人間の私に向けてほしかったな……。
いや、人間の時も優しいんだよ。優しいんだけどっ。兄弟のことが最優先すぎて! デートもロクにしてもらえなくてっ!
それが今はどうよ。抱っこしてくれる、優しくたっぷり撫でてくれる、そしてこの、愛しいものを見る目〜っ!
私、もう一生この姿でいたいかも。
でも……この姿ってタイムリミットがあるんだよね。そうそう、時計がなくてもわかるように、日没時間を調べてそれに合わせておいたんだよ……って!
めっちゃ夕日差し込んでるんだけど。
「うにゃ〜お……」
「えっ、どうかした? 煮干し嫌だった?」
「うにゅうぁお……」
「違うの? この家が嫌? 飽きた? ああ、暗くなっちゃうね。そろそろ、お外に行こうか」
一松くんに優しく抱えられて、思わず一松くんの胸に顔を埋め、本音が漏れた。
「うにゃににゃうにゃう〜」
「離れたくない……って? そんなこと言ってもらえるなんて……」
うっ、正確に読み取るなぁ……。このまま告白とかしたら……どうなるんですか。
「……」
小声で、本当にか細い声で、そっと愛を呟いてみた。聞こえなくていい。だって、返事が怖いから。
「そんな……嬉しい」
通じちゃった……。
「けど、おれ……自分のことすらちゃんとできないクズだから」
「にゃおう!」
「違わないよ……おれ、君のこと……幸せにしてあげられない」
「……にゃうぅん」
一松くんは屋根に続く窓枠の外に私を降ろすと、困ったような淋しそうな顔をして私の頭を撫でた。
「ごめんね……また明日」
明日……! 明日はないんだよなあ〜!!!!!!!
帰ったら、バイト増やしてもらえないか電話しよ。薬が……薬が欲しいッ……!(言い方〜!)
ってか、二階の窓から下に降りるの怖っ。
猫の身体では危険はないんだろうけど、人間のときと比べてあまりにも高くて、まるで高層ビルの上から地上を見下ろしているような気分になる。
一松くんに抱っこしてまた一階まで降ろしてもらいたい……そう思って振り返ったら、一松くんは帰ってきた兄弟たちと喋っていた。
「お、一松のフレンズか?」
青いラグランTを着てきりっとした眉毛の兄弟が、私に気づいてじ〜っと見てくる。ちょっと、なんか眼力が強くて居心地が悪い。
「あれ、まだいたんだ……」
一松くんもこちらに気づいてくれた。一松くん! お願い、もう一回だけ最後に抱いて!(言い方!!)
「そんなに長くいたの〜? めずらし〜ね!」
黄色い服の兄弟も私に気づいて、そして、一瞬で間合いを詰めてきた。
は? な、なに? 高速移動した!?
「……それに、猫じゃないかも」
「ゃッ!?!?」
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを見ている。
……そんな感じの、深くて底が見えないような、真っ黒な目。でも満面の笑みにも見えるような、底しれない顔。
私は、逃げるように駆け出した。
◇ ◇ ◇
「あの猫……注意したほうがいいでっせ、一松に〜さん」
「へ? 十四松……ど、どういうこと?」
「なんか、確かにちょっと引っかかるな……よく知ってるフレンズなのか?」
「いや、カラ松まで……まあ、今日初めて見た子だけど」
青と黄色の服の兄弟……カラ松と十四松は、顔を見合わせると、う〜ん、と腕組みをしてみせた。
「そ、そりゃあ……確かに、ちょっと猫にしては変わったことを言う子だったけど」
一松が弁解するようにそう言うと、カラ松は慌てて一松の肩を掴んだ。
「いちまぁつ、暫くの間はオレと行動してくれ、いいな?」
「……へ?」
「ぼくも、一松に〜さんが出かけるときは、おともさせてもらいマッスル!」
「はあああ〜? 十四松まで? な、なんで……?」
◇ ◇ ◇
そんなことは露知らず、無事に家にたどり着き人間に戻った夢主は、浮かれた声でバイトのシフトを追加したい、と電話をかけるのであった。