【柴チヒ】帰るところ「あああ疲れた……」
国重とチヒロが過ごしていた畳の部屋に突然柴が現れると、倒れこんで畳の上に突っ伏した。
「柴、大分お疲れだな」
反射的に抱き寄せていたチヒロを抱えたまま、呆れたように国重が言う。
「術使ってまでこっちに来るくらいなら、自分のところに帰って休めよ」
「ううう……だって、チヒロ君を見んことには」
唸りながら柴が顔を上げる。
「……しょうがねえなあ」
柴の正面に、国重は抱えていたチヒロを下ろす。
「しばしゃ」
よたよたと覚束ない足取りで、チヒロが柴のもとに歩いてくる。
「あああ……チヒロ君やあ……また大きなったなあ」
途端にデレデレの顔になった柴は身を起こすと、チヒロを抱き上げ、柔らかな頬に自分のものをくっつけて頬ずりをする。
「しばしゃ、いたい」
チヒロがむずがるようにイヤイヤと首を振る。
「柴あ、無精髭でやるなよ。幼児の頬はデリケートなんだぞ」
「……あー、ごめんな、チヒロ君」
身支度を気にするような暇もなく任務を終え、気も漫ろに書いた報告書類を薊に丸投げし、術で即刻六平家に飛んできていた。伸びてしまっていた自分の無精ひげを撫でて、柴は眉尻を下げる。柴に謝られ、柴の腕の中でチヒロは大きな目を瞬かせた。そして思い出したように、「あ」と声を出す。
「しばしゃ、おかありなしゃい」
「チヒロー、柴に言うなら"いらっしゃい"だぞー」
隣で国重が笑いながら訂正する。
「……?いりゃしゃ?」
国重を見上げ、チヒロが首を傾げる。
「チヒロ君もう一回言って」
柴は早口で言った。チヒロは国重から柴に視線を戻すと、不思議そうな顔をしながらも直前に言った言葉を繰り返す。
「……いりゃしゃ?」
「いやそっちやなくて、おかえりの方」
柴の前のめりな様子に少し戸惑いながら、チヒロは言われた通りに言い直す。
「……おかありなしゃい?」
柴は目を押さえ、天を仰いだ。
「……もう俺、六平の家の子になるわ」
「いらん帰れ」
国重は柴の世迷言をバッサリ一蹴すると、溜息を吐いた。
「……まあ、いいや。俺まだ片付け残っているから、その間チヒロを見てもらってもいいか?」
「りょーかい」
胡坐をかいた上に一旦チヒロを下ろし、柴が軽い口調で返す。
「チヒロ、ちょっと父さんあっちに行くけど、良い子にしててな」
「うん」
襖を開けて部屋を出ていく国重の背中をチヒロは目で追い、静かに見送った。
「チヒロ君は本当に良い子やなあ」
柴の言葉に、チヒロが振り返る。
「しばさんも」
「うん?」
「しばさんも、いいこ」
チヒロの思いがけない言葉に虚を突かれて柴は目を瞬かせ、そして破顔する。
「……そーお?」
なんて良い子なのだろうかと、柴が内心に隠し切れず悶えていると、柴の胡坐から下りて、チヒロが立ち上がる。
「うん、だから、しばさんのことは、ちひろがなでなでしてあげる」
そう言って、小さな手が柴の頭に伸ばされる。身長が足りず届かないのに、諦めずに体全体を伸ばしてきて小さな体が倒れこみそうになる。柴が屈んでやると、ようやく柴の頭に手が届いて、満足げにチヒロは笑う。
「しばさん、いいこ、いいこ」
自分とは違う明るい色の髪を、楽しげに小さな掌で撫でる。
「いつもおしごとがんばって、いいこ、いいこ」
「……うん」
小さく温かく柔らかな感触と、大人を真似して楽しそうに労ってくるあどけない声が愛おしくて、温かい気持ちで胸がいっぱいになって、柴はその幼い体を抱き締めた。
「しばさん?」
「うん……元気もらえたで。ありがとうな、チヒロ君」
「しばさん、げんきになった?」
チヒロが柴の顔を覗き込んで訊く。
「うん、チヒロ君のおかげで。君は俺の、特効薬やな」
柴は微笑んで言う。
「とっこう?」
「一番柴さんに効くお薬ってこと」
「ちひろは、しばさんのおくすり?」
よく分かっていない顔で、チヒロが不思議そうに柴の言葉を口にする。
「そうやで、いつだって柴さんを元気にしてくれる、何より大事なお薬や」
そう言って小さな体を抱き上げ、両腕を伸ばして高く掲げると、チヒロは驚いて声を上げ、そして笑う。
「しばさんよりたかい」
「柴さんより高いなあ」
掲げた腕を下ろして、またチヒロを胸に抱き締めると、その柔らかな黒髪に顔を埋める。仄かに優しい、甘い匂いがした。
「いつかまた、柴さんが泣いてしもうたら、チヒロ君がまた慰めてくれる?」
そう訊ねると、チヒロは頷く。
「うん、いいよ」
「約束な」
「やくそく」
顔を見合わせて笑みを交わした、幼いチヒロとの記憶。
柴の髪を梳く手はあの頃よりも大きくなり、やや雑に柴を撫でてきた幼い頃と違い、丁寧に一定間隔で優しく動く。
「柴さん」
低くなり艶の出た、耳に心地良い声。もう二度と聞くことが出来なくなるのかと、その喪失を思い、絶望と共に一度思い知らされた。どれだけ彼が自分にとって大切な存在であったのかを。
「すみませんでした」
静かな声が宥めるように言い、柴の頭を撫でる。
「だからもう、泣かないでください」
抱き込んだ体の温かさに、柴は唇を噛み締め、漏れそうになる嗚咽を吞み込んだ。