(仮)寒い日(付け足し版)息を吐く。
ふわりと、吐き出されたものが白く浮かび上がって、解けるように消えていく。空を見上げれば、厚い雲が蓋をするように覆っていた。
「チヒロ」
声に振り返ろうとすれば、その前に後ろから伸びてきた手に両頬を挟まれる。
「……座村さん」
「冷てえな。すまん、待たせたか」
「いえ、俺も今着いたところです」
冷えてしまったのは、外を歩いてきたからだった。電車で来れば風に吹かれることもなかっただろうが、何となく、歩きたくなったのだ。
「まだ慣れねえか」
後ろから頬を掴んだ、チヒロを抱えこむような姿勢のまま、座村が問う。
「……いいえ、もう慣れましたよ」
掴まれて動かせない顔の代わりに、目だけを上げて座村の顔を見る。閉ざされたその目の色は分からないけれど、引き結ばれた唇に、チヒロは苦笑いを浮かべた。
「大丈夫ですから」
「……」
「それより、この体勢の方が、恥ずかしくて困ります」
なかなか頬を離さない手と背中の体温に、温まりはしたが正直周囲の目が気になって仕方がない。
「そうか?」
頬が赤くなりそうなチヒロとは違い、座村は特に気にならないらしく、ピンとこない顔をしていた。
「とりあえず、一旦離してもらえますか」
「……仕方ねえな」
チヒロが心持ち強めに促すと、渋々といった様子で座村がようやくチヒロの頬から手を離す。それにチヒロはホッと息を吐いた。
「じゃあ、こっちな」
そう言って、今度は座村に手を取られ、指を絡められる。
「……座村さん」
「これくらい良いだろう」
今日は寒いから。そう言って笑う座村に、チヒロは折れた。
「……大通りは恥ずかしいから、裏道で」
「ん、心得た」
引かれた手に促され、歩き出す。俯いた顔はきっと耳まで真っ赤で、とても上げられるものではなかった。
チヒロが座村と出会ったのは、3年ほど前だった。あるいはそれを、再会、というべきなのか。
夢を見ることがあった。幼い頃の夢は穏やかで、父親と山奥の家に二人で暮らす少年の夢だった。視点はいつも、少年の目を通して見ているようで、夢の中で鏡を覗きこんだ先にあった少年の顔は、チヒロとそっくりだった。夢は現実と時を合わせるように進み、チヒロが十四歳になる頃、一変した。
夢の中の少年が、現実の自分より少し年上の十五歳になった頃だった。ある日突然、少年の父親が殺された。それからの夢は、それまでの平穏な日常風景とは打って変わり、悪夢としかいえないものになった。血に塗れた日々だった。その先の少年の人生を夢に見ることは、地獄に通じる穴を淵から覗きこむような心地がした。その頃から時折、両目を貫くように長く走った傷を持つ、盲目の剣士の夢も見るようになった。二人の辿った道筋は、悲劇という言葉だけでは、とてもではないが言い表せないものだった。夢を見た後は、涙が止まらなくなるくらいはまだマシな方で、酷い時には耐え切れず胃が痙攣するように痛み、嘔吐することさえあった。
(どうして)
どうして自分がこんな夢を見続けるのか。どうして自分がこんな思いをしなければならないのか。まるで実際に見てきたように鮮明過ぎる夢は重く、受け止めきれるものではなかった。
いっそ誰かに相談して、病院にでも行ってカウンセリングでも受けるべきなのではないかと思ったこともある。
『……父さん』
思い立ち、父に夢のことを相談しようとした。
『どうした、チヒロ』
いつもと違う様子に気づいたのか、普段よりも静かに微笑む父の顔を見て。
『……ううん、なんでもない。ちょっと、呼んでみただけ』
『なんだ、そりゃあ』
誤魔化すように笑った。
結局、何も言えなかった。
父子家庭で、唯一の肉親である父親に心配をかけたくなかったというのもある。夢に出てくる少年の殺された父親は、自分の父親にそっくりだった。夢で見た、最期の顔がどうしても重なって見えて、駄目だった。言霊というものを信じているわけではないが、それでも夢の内容を実際に口に出して言おうとも思えなかった。それ以前に、そもそも夢の内容を思い出し反芻することも、言葉に出すことも、十分に出来そうにもなかった。
忘れたわけではない。いっそ記憶が薄れて忘れられたらと思うほど、鮮烈に覚えている。だからこそ、夢を思い返そうとすると、夢の中の少年の激情に呑まれて引き摺られそうになり、夢と現実が綯い交ぜになって分からなくなりそうで、恐ろしかった。
(どうして)
どうして、ここまで感情が揺さぶられるのか。いくら克明にあり、悲愴な内容だったとしても、所詮夢は夢だ。覚めてしまえば終わる、現実の自分には無関係なもの。そう分かってはいるのに、どうしようもなかった。特に、盲目の剣士が夢に現れるようになってからは。
(ああ、どうして)
自分達には――いいや、彼らには、あの結末しかなかったのか。
どうにもならない思いが、消化しきれない感情が、ただただ苦しくて、悲しかった。
そんなどこにも吐き出せない膿を抱えたような日々を過ごしていた、ある冬の日だった。
その日、チヒロは父親の友人の柴に連れられて、縁日に来ていた。
「チヒロ君、ほらそこ、たこ焼き売っとる」
「柴さん、もういっぱい食べたでしょ。食べ過ぎです」
ええー、と駄々を捏ねる柴をいなしている時だった。
「あれ、座村やん」
十字路になった場所で、柴が誰かを見つけ、声をかけた。前を通り過ぎようとしていた黒い服の男が振り返る。
「……っ」
その顔を見た途端、チヒロは時が止まったように感じた。
(夢の、あの人と……同じ顔)
そっくりだった。閉ざされた両目に走る、長い傷痕まで。まるで夢の中から抜け出てきたように。
「……ぁ……」
「チヒロ君?」
呼吸が乱れ、息が上がった。ドクドクと心臓の脈打つ音が異様に大きく聞こえてきて。
「チヒロ君っ!!」
目の前が真っ白になった。
昔から、まるで物語を見るように、誰かの人生を追うような、そんな夢を見た。
誰かに言ったことはない。自分と同じ顔をした男が人を殺す夢を見るなんて人に言ったら、異常者と思われて精神病院行きがオチだ。ましてや、大量殺戮者なんて。
夢はいつも、その男の目を通してのものだった。男は剣を志し、それを極め、生業としていた。それから、戦争が起こった。夢の中の男は従軍して戦場に行き、そして地獄を見た。
戦場でのことだ。人を殺しても罪には問われない。それどころか、夢の中の男はもてはやされた。よくやったと。お前のおかげだと。だが、持ち上げられ、誉めそやされればされただけ、心は苛まれた。
そして夢の中の男は、自ら両目を裂き、目を閉ざした。
それでも夢は続いた。何も見えなくなった暗闇の中でも、地獄は続いた。男はある刀匠から飛宗と呼ばれる刀を授けられ、人を殺し続けた。刀は尋常ならざる力を宿していて、その威力は戦場の中でも桁違いだった。桁違い過ぎたのだ。刀匠から刀を与えられた者は男の他に五人いた。そのどれもが凄まじい戦火を誇ったが、特に、真打と呼ばれた刀を手にした者の通った後には、味方でさえ生きて正気でいられるものはいなかった。
永遠に続くように思われた戦争という名の地獄は、そうして幕を閉じた。
だが、夢の中の男の地獄は終わらなかった。
ある時、夢に一人の少年が現れた。まだ幼さを残した声のその少年は、男に刀を与えた刀匠の息子だった。
夢の終わりは、どうしようもないものだった。他者から見れば、自業自得な帰結といわれるかもしれない。だが、夢の中の男にとって、それは地獄の幕引きで、解放だった。
心残りがあるとすれば、それは――。
「あれ、座村やん」
聞き知った声に名前を呼ばれ、振り返った。
座村は目が見えなかった。それは生まれた時からで、両目の上には長く傷のような痣が走っていた。両親はそのことに対して負い目のようなものを感じているようだったが、座村自身は気にしていなかった。寧ろどうしてか、そうでなければならないように思えていた。
夢の影響もあったのかもしれない。夢の男と現実の自分は別物だ。だが、それでも夢と現実を重ねてしまう時があった。
例えば、そう。
振り返ったその先から漂い、鼻を擽る香り。
「……っ」
知るはずのない、なのに知っている香り。
(……ああ)
会いたくなかった。会わずに済めば良かった。夢と現実は別物だ。それでも。自分にそんな資格はないと、そう思えて。
存在は知っていた。柴と出会い、友人関係を築いてからは、よく話を聞いていたから。夢の中では露見するまでその存在をひた隠そうとしていたようだが、この現実の世界ではそういったしがらみはないらしく、たびたび頬を緩めては親友の子であるという少年の話を、まるで自慢か惚気のようにしていた。
自分と出会うことなく、遠くで幸せに生きてほしかった。請わずとも勝手に柴がその成長の様子を事細かに聞かせてくれていたから、それで十分すぎるくらいだった。
きっと、面と向かい合えば。
「……ぁ……」
息を呑む音がした。
「チヒロ君?」
徐々に呼吸を乱し、喘ぐような。
「っ、おい!」
「チヒロ君っ!!」
座村が杖を投げ捨て駆け寄った時には、倒れかけたチヒロを柴が抱き留めていた。
「チヒロ君っ、何で急に……顔真っ白やん」
チヒロの瞼に触れる。目は固く閉じられており、反応はなく、意識を失くしているようだった。
「え、なに?」
「誰か倒れたのか?」
「救急車呼んだ方が」
突然のことに周囲がざわつく。
「持病でもあんのか」
座村は手を伸ばし、チヒロの頬に触れる。外気に触れていたのもあるだろうが、まるで血が通っていないかのように冷え切っていた。
「そんなもの、ないはずなんやけど……」
口元に手をやると、吐息がかかる。胸も浅くだが上下しており、呼吸はしているようだった。
縁日の通りから外れ、少し開けた空間に移動する。地面に膝を付いてチヒロの上体を抱き支え、柴が何度も「チヒロ君」と名を呼ぶ。肩を揺すっても微かに呻くだけで、チヒロの意識が戻る様子はない。
「とにかく、下手に動かすな。救急車呼ぶぞ」
電話をかけようと座村が腰を浮かした時だった。チヒロが顔を顰め、唇を僅かに動かした。
「チヒロ君!?聞こえるか?」
柴が顔を寄せ、声をかける。
「……さ……ん……」
チヒロが唇を動かし、何事かを呟く。それを聞き取ろうと、座村もまた身を屈めた。
「どうした、なんて」
「ざ、むら……さ……」
途切れ途切れの掠れた声で、チヒロは苦しげに呻くように口を開く。
「ど……して……」
時が止まったような気がした。
「……座村、お前、この子と面識あるんか」
柴の低い声で我に返る。
「……お前がいつも話している子だろう。千鉱、だったか。会ったことはねえよ」
「じゃあ、なんでお前の名前を」
「今はそれどころじゃねェだろう。それに、救急車も到着した」
遠くから小さく聞こえていたサイレンの音が近くなり、縁日の喧騒に負けない程大きくなっていた。車が入れる限界のところで停車し、救急隊員が降りてくる。
到着した救急隊に状況を説明し、チヒロを担架に乗せて救急車に運び入れた。救急車には柴が付き添って乗ることになり、座村は自分の車で搬送先の病院に向かった。
「おそらく、血管迷走神経性失神ですね」
検査結果を見せ、救急搬送先の病院の医師は言った。
「迷走神経、失神……?」
医師の診断を柴は曖昧に繰り返した。
「血管迷走神経性失神。要は、過度なストレスか何かがあって、迷走神経反射で血圧が下がって意識を失ってしまうことです」
「……ストレス、ですか」
「一時的なものなので、しっかり休養を取れば問題はないでしょう。今点滴をしているので、一先ず自然に目が覚めるのを待ちましょうか」
安心させるように穏やかに微笑んで、医師は説明を締めくくる。
「起きた時に本人が混乱するかもしれませんから、傍にいてあげてください」
救急外来のベッドに移されたチヒロは、点滴を受けているおかげか、柔らかなベッドのおかげか、未だ目は開けないものの表情は穏やかなものになっていた。その横で椅子に腰かけ、座村は閉ざした目でチヒロを見つめるように顔を傾けていた。チヒロの髪に触れ、頬にかかった一筋を払う。
「……なあ、千鉱、お前は」
(俺を、知っているのか)
夢を見る、座村自身のように。
瞼に触れる。その奥が見えれば良いのにと、焦がれるように思った。
「座村」
柴が隣に立つ。
「検査では特に問題はなかったらしい。ストレスかなんかのせいやから、休めば大丈夫や言われたわ」
「……そうか」
座村はチヒロの方を向いたまま頷く。
「……俺が何言いたいんか、分かっとるやろ」
柴が低く抑えた声で言った。
「さあな」
顔を動かすこともなく気もない様子で返す座村に、柴は眉を顰める。
「……お前、本当にチヒロ君に会ったことないんか」
「ねえよ」
(夢の中の、少年にしか)
言ったところで、冗談にしか聞こえない話だ。ふざけていると思われて、柴の疑心を尚更煽ることになるだけだろう。
それ以上何も言おうとしない座村に、柴は諦めたように溜息を吐く。
「……まあ、良いわ。病院で騒ぐわけにもいかんし、今はそれで」
そう言うと座村からチヒロの方に向き直り、その顔を見つめる。穏やかに眠っているような、規則正しく静かな呼吸音に、内心胸を撫で下ろした。
「俺、六平に電話してくるから。俺が戻るまで、その子の傍におってな」
そう言い残すと、柴は背を向け廊下の方へと出て行った。
「……」
きっと場所を変えれば柴に詰問されるのだろう。だが、何を訊かれようとも、答えられるものはないのだ。夢の中の事柄であるということを差し引いても。
「言えるわけねえよなァ」
座村が独り言ちる。その直後だった。
不意にピクリと、微かにだがチヒロの瞼が震える。
「……ぅ……」
「――っ」
小さく漏れた声を聞き取り、思わず手を伸ばす。頬に触れ、瞼に指を這わすと、ゆっくりと持ち上がるのが分かった。
「……さ、むら……さん……?」
チヒロの手が動き、自身の顔に触れる座村の手に重ねる。
「……いかない、で……」
掠れて消えそうな声でチヒロが呟く。
「……どこにも行かねえよ」
そう返すと、チヒロの頬が緩み、笑ったのが分かった。それからまた瞼が下りて、規則正しい寝息が聞こえだす。
「……」
座村は自分の目が見えないことを、生まれてこれまでの人生の中で一番強く、惜しいと思った。
少ししてから、外に出ていた柴が戻ってくる。
「六平に連絡ついたわ。今からこっちに来るって」
「そうか……」
座村はそれに頷くと、椅子から立ち上がる。
「じゃあ、俺は帰るわ」
「は?おま、ちょっと待てや」
チヒロの眠るベッドに背を向けて廊下へと歩き出した座村に、柴は慌てて追い縋る。
「病院で声出すな。迷惑だろ」
そう言って歩き続ける座村に、柴は足を止める。
「……お前、逃げる気か」
低く唸るように柴が言った。
「……逃げねえよ」
一瞬足を止めた後、独り言のように座村は返した。そしてまた歩き出し、病院を出る。その後ろ姿を見送り、柴は奥歯を噛む。
「……阿呆が」
顔を歪め、吐き捨てるように言うと、柴は踵を返した。
扉を開けると、取りつけられた小ぶりの鐘がカランカランと鳴る。中に入ると、コーヒーの香りが漂う。
「いらっしゃいませ」
来店に、喫茶店の店員が出迎える。
「座村様ですか?お連れ様がお待ちです。お席までご案内いたします」
名前を名乗ると、店員は明るい口調で言った。
「……ああ、ありがとう」
店員に案内されて席まで辿り着くと、良く知っているようで、まだ一度会ったきりの香りと気配を感じる。
「こんにちは、座村さん」
声変わりが済んだばかりのはずの、年のわりに落ち着いた声。
「……ああ、待たせたな……千鉱」
チヒロは頬を緩め、「俺もさっき着いたところです」と返した。
「それにしてもお前が一人で来ることをよく柴が許したな」
チヒロの向かいに座り、座村は言う。
「……あんなに警戒していたくせにな」
そこだけぼそりと、チヒロに聞こえないくらい小さな声で零す。
「内緒で抜け出してきましたから」
チヒロはさらりと答える。
「……お前、連絡よこした時のことといい、意外と良い性格してるよな」
呆れたように座村は言い、その時のことを思い出して苦笑いを浮かべた。
数日前、柴の番号から座村の元に電話がかかってきたのが事の発端だった。
「……もしもし」
「あの……座村さん、ですか?」
電話の相手は、予想外のことにチヒロだった。
「えっと、あの、俺、チヒロって言うんですけど……この間のお礼が言いたくて、柴さんの電話を借りてお電話しました」
「覚えてらっしゃいますか?」と、恐る恐るといった声でチヒロが訊ねる。虚を突かれ黙りこんでいた座村は我に返り、少し悩んで口を開く。
「覚えてはいるが……柴が、俺に連絡しろって、電話を貸したのか?」
この現実世界でも柴がチヒロを大切に思い、心気を砕いていることは普段の話からも、チヒロが倒れた時の様子からも強く伝わってきた。その柴が、あの時警戒心をむき出しにした相手とチヒロに電話越しとはいえ話をさせるとは思えず、座村は問う。
「柴は?」
「柴さんなら、横で寝ています」
「……は?」
ちょっと意味が分からなかった。
「……お前の横で、柴が……寝ている?」
「はい」
座村は頭を抱えたくなった。
「お前ら……そういう仲なのか……」
「そういう仲?」
言葉の意味をよく分かっていない様子でチヒロは復唱する。
「いや……違うのか?」
「何がですか?」
純粋に不思議そうな声で問われ、座村は顔を手で覆った。
「すまん……俺は汚れていた」
「はい?」
「なんでもない、さっきまでの会話は忘れてくれ」
「……はい?」
思いっきり声が訝しんでいたが、聞き流して座村は話を進めることにする。
「それで、何で柴がお前の横で寝こけていて、何でお前が柴のから俺に電話をかけているんだ?」
「父さんと柴さんが酒盛りをしていて、寝ちゃったので借りました」
チヒロは何でもないことのように、さらりとした口調で言った。
「……は?」
唖然として一瞬思考が停止する。
「え、お前……酒飲ませて酔い潰して、柴の電話掠め取ったってことか?」
「別にお酒は俺が飲ませたわけじゃありませんよ。俺はおつまみ作っただけですし、週末はよく二人して潰れるまで飲んでいます」
人聞きが悪いと言いたげにチヒロは返す。
「いや……でも、電話」
「借りただけです」
「……」
平然と言い切られ、座村は押し黙った。
「あの、電話した要件を伝えても良いですか?」
先程までとは変わり、おずおずとした声でチヒロが言う。
「え?ああ……何だったか」
「お礼がしたいって話です」
チヒロが電話の最初に話した言葉を繰り返した。
「礼って言われても、俺は居合わせただけで、大したことはしてねェよ」
寧ろ、そこに座村が居合わせたせいでチヒロが倒れたとさえいえるのだ。
(……俺を見るだけで、ストレスで意識飛ばしちまうってのに)
チヒロは恐らく、座村と同様に夢を見ている。そうでなければ、初対面の座村の名前を譫言に呟くはずがないのだから。
「だから、礼なんて……」
「いえ、直接会ってお礼を言わせてください」
「え、いや、お前」
この間人の顔を見て倒れたばかりの奴が何を言っているのだろうか。
「喫茶ハルハルって知っていますか?住所は」
断ろうとする座村を無視してチヒロはすらすらと喫茶店の住所を続ける。
「いやだから、聞けって!俺は」
「待ってますから、ずっと」
その言葉と共に、電話が切られた。
そしてチヒロに待っていると言われては放置することも出来ず、喫茶店でのやりとりに至る。
「あんまり無茶してやるなよ、柴が泣くぞ」
「そうですね、たまに泣いて叱られます」
もう既に泣き付いていたらしい。あまり効果がないようだったが。
「柴さんはちょっと過保護なんですよ」
座村は柴に同情した。
「まあ、柴さんのことは置いておいて」
チヒロはこほんと咳払いをする。
「電話でもお伝えしましたが、この間の縁日ではご迷惑をおかけしました。病院まで来てもらったみたいで、ありがとうございます」
そう言って頭を下げる。
「だから礼はいいって言っただろう。俺は本当に、そこにいただけだ」
座村は投げやりに電話での返しと同様のことを言った。
「でも俺は、嬉しかったんです」
チヒロは目を少し伏せて微笑む。
「……初めて会ったやつが、ぶっ倒れた自分の傍にいてか?」
座村の言葉に、チヒロは顔を上げた。
「座村さんは、夢を見ることがありますか」
息を呑みそうになるのを座村は気づかれないよう止めた。
「……なんだ、藪から棒に」
「貴方が夢を見るのか知りたいんです」
「……そりゃあ、夢くらい見ることはあるが」
「忘れられずに、覚えている夢はありますか」