【座チヒ】(仮)夢ああ、これは夢だ。
あまりに荒唐無稽な、あり得ない、馬鹿げた世界。
目を薄く開けば、瞼が持ち上げられて震えるのが分かった。夢から覚めたのだと実感する。
「……」
身を起こすと、何かが頬を伝って零れていった。目を擦る。
(……どうして俺は、泣いているんだろうか)
濡れた指先を見つめ、ぼんやりとチヒロは思った。
始まりはボランティアのようなものだった。偶然知り合って、事情を知り、彼の家に出向いて家事を手伝うようになった。
彼は目が不自由で、それでも日常生活に支障はないとのことだったが、そうは言われても気になるものだ。目が見えないというだけで、目が見える人に比べたら情報量は圧倒的に減る。他で補うにしても不便は残るだろう。実際、家を訪れてみたら、細かなところまではなかなか手が行き届かないらしく、中は雑多だった。物の位置が分かるようになっているからそれで良いのだと彼は言ったけれども、これではゴミ屋敷一歩手前だし、物に躓いて転びかねない。放っておけなくて、定期的に彼の家を訪れるようになった。
そんなに気にするなと言われたが、知ってしまえば気になるものなのだ。それにどうしてか、放っておけなかった。知り合ったばかりの相手に抱くには、強い引力を伴った想いで、チヒロ自身戸惑ったが、無視してやり過ごせるものではなかったから。
時計を見れば、時刻は15時頃。
(ああ、もう行かなくちゃ)
学校の友達と別れ、一旦家に戻って服を着替えて出掛ける。
それはいつからか、アルバイトのようなものになった。彼に代わって家事をするようになったチヒロに対し、礼だと言って彼にいくらか手渡された。最初はそれを固辞しようとしたが、「それだとこっちが申し訳なくて気が済まない、バイト代だと思え」と言われて押し付けられた。返そうとしても頑として受け取ってもらえなかったし、「嫌ならいっそ、それで飯でも作って振る舞ってくれ」と言われ、その通りにした。
途中でスーパーに寄って、商品を眺めて考える。
(今日は何にしようか)
初めて料理を振る舞った時は、本当にそこまでやるとは思っていなかったらしく驚かれたが、舌に合ったみたいでがっつくように食べてくれて嬉しかったから、それからは料理もするようになった。もともと父子家庭で育ったチヒロは、料理下手な父に代わって子供の頃から料理をしていたし、料理をすることも嫌いではなかったから。美味しそうに食べてもらえるのは何度見ても面映ゆくて、こちらまで幸せな気持ちになった。
また頬を綻ばせ、喜ぶ顔が見たい。
思えばそんな気持ちが、チヒロの原動力の源だった。
自転車を止めて、籠から買い物袋を取り出す。玄関の前に立ち、呼び鈴を鳴らせば、しばらくして中から扉が開かれる。覗いた顔が、スンと鼻を鳴らした。
「また来たのか」
「また来ました、座村さん。だって、アルバイトですから」
背の高い座村を見上げてそう返せば、座村は頭を掻いて、諦めたように溜息を吐いた。
「……まあ、上がれや」
座村が体をずらして場所を開ける。そこを通り、チヒロは中へと入った。
座村の家の台所には物が少なく、チヒロが通い始めたばかりの頃は調味料の類も塩が辛うじてある程度だった。冷蔵庫も酒や飲み物があるだけで食材らしいものは入っておらず、どうやって生活していたのか訊ねれば「出来合いを買うか店で食う」と返された。自炊の類はしないらしい。
チヒロが座村の食事を作るようになってからは、調味料は種類も豊富に常備されるようになり、長期保存可能な米や麺類などの備蓄も置くようになった。賞味期限の短い生鮮食品はその都度買ってきて調理し、多めに作って残った物をタッパに入れて残していく。日持ちするものを作ってそれなりの種類と量を置いていくのだが、次に来る2~3日後にはいつも空になっていた。空になって洗われたタッパが次にすぐ使えるように台所の隅に積まれているのを見ると、チヒロはいつも頬が緩んでしまう。
「今日は、良い赤身肉が手に入ったので、ローストビーフを……座村さん?」
チヒロが食材を台に置いて振り返ると、座村が頭を押さえ、床に膝をついていた。
「座村さん、どうしたんですか、頭が痛むんですか?」
傍に寄って座村に触れようとする。
「座村さ」
「っ離れろ!」
伸ばした手を座村に弾かれる。一拍置いて痛みを感じだす指先に、チヒロは困惑した。
「……っ、どう、し」
「すまねェ……だが、今はお願いだから、俺から離れてくれ」
膝を折り俯いたまま、懇願するように座村が言う。
「座村さん……」
訳が分からず、チヒロは赤い瞳を揺らめかして座村を見つめる。
「……頼む、千鉱」
座村は苦しげに呟くような声で言った。
「……分かりました」
チヒロはそう返し、座村の腕を掴んだ。
「……っおい、千鉱!」
「どういうつもりなのかは知りませんが、苦しそうにしている人を置いてどっかに行けと言われても、出来る訳ないじゃないですか」
座村の腕を担いで肩を支えると、チヒロはよろよろと居間のソファの方へと向かう。
「辛い時には、頼ってください。何のために俺が貴方のもとへ通っているのか、分からなくなるじゃないですか」
「……」
自分よりも体格の良い座村を運ぶのは骨が折れたが、何とかソファへと辿り着き、チヒロは内心ホッと息を吐いた。
「とりあえず、横になりましょう。酷そうなら病院に」
「千鉱」
「え?」
腕を引かれ、どさりとソファに倒れこむ。見上げた視界にいっぱいに、座村の顔が映って。
「すまねェ」
その距離がゼロになった。