玄関の開閉音と同時に強い物音が響いた。
日付の変わる手前の時刻。リビングでうたた寝をしていた蘭丸は、その物音で目を覚まし、思わず立ち上がった。リビングのドアを開け、玄関に向かうと、嶺二が玄関から廊下へ倒れ込むように転がっていた。蘭丸は嶺二の側に駆け寄り、その背中を摩る。
「おい、大丈夫かよ……って……クセェ」
嶺二からは、汗臭さに混じった居酒屋特有の油っぽさとアルコール臭がした。「クセェ」その一言に反応するように、倒れていた嶺二がもぞもぞと顔を上げようと動く。汗ばみ紅潮した顔面が、蘭丸のほうを向く。
「だははランラン。クセェってドイヒー」
普段からふざけたハイテンションなノリが通常運転とはいえ、酒に呑まれるようなことあまりない。こんな風に悪酔いして帰ってくるなんてことも、蘭丸はあまり見てこなかった。……というより、決まって蘭丸が先に酔って記憶が飛んでいることがほとんどだった。いつかの日に「酔ってベロンベロンになったランランを介抱するぼくの身にもなってごらん?」と言われたこともあったが、逆の立場が来いと頼んだ覚えはない。今日は嶺二が出演していたドラマの打ち上げで、夜まで飲み会とは聞いていた。ヘラヘラと緩み切っただらしない顔を見せ、また床へと頭を突っ伏す。こんな状態でよくもまあ一人で帰って来れたものだと、蘭丸はため息をついた。しゃがみ込み、艶めいた栗色の頭に手を当て、軽くゆする。
「おい酔っ払い。こんなとこで寝るな」
「うーん」
「立て」
「立てないかも」
「ヨシ。立てるやつだな」
「エーン! 助けてよん!」
そう言って駄々を捏ねると、嶺二は寝倒れたまま両腕を前に伸ばし、蘭丸に助けを求める。蘭丸はまたも大きなため息をつく。嶺二は頑なに両腕を下ろそうとはせず、強く前に押し出した。懲りた蘭丸は、嶺二の両腕を掴み上げ、起き上げる。二本足で立つと、そのまま蘭丸に正面から抱きついた。
「ありがと♪」
「だからクセェんだよおまえ。とっとと風呂入って、ついでに頭も冷やしてこい」
「お風呂まで連れて行ってほしーなー」
「いい加減にしろよ」
苛立つ蘭丸をそっちのけで、嶺二は抱きついたまま、顔を蘭丸の首元に寄せ、鼻を首筋に当て大きく息を吸う。瞬間、蘭丸は反射的に肩を上げた。
「ランランはぁ、もうお風呂入ったんだぁ。このシャンプーの匂い大好き。ぼくとおんなじ。あれ? もしかしてぼくのためにコッチ準備してくれたとか?」
両腕を逞しい背中へと回し、指先はその背骨を這うように下へと流れる。
「〜〜だからッ!」
蘭丸は強く舌打ちをすると、抱きついた嶺二を押しのけ、よろりと後退る嶺二の耳を掴んだ。そのまま、脱衣所へと引っ張り歩く。
「イデデデデ! わかったってば、はーなーしーて!」
「とっとと悪酔いから覚めろバカ!」
脱衣所に放り込まれた嶺二は、耳を押さえながら、その場にへたり込む。蘭丸は腕を組んだまま、わざとらしく拗ねる嶺二を黙って見下ろす。嶺二が上目遣いでチラリと蘭丸を見上げるも、蘭丸はただ顎を前に出し「風呂に入れ」と指図するばかりだった。観念した嶺二は、口を尖らせながら着ていたTシャツを脱ぎ、洗濯かごへと放り捨てる。蘭丸に背を向けるように立ち上がり、ズボンを脱ぎ始める。汗でじっとりとした背中に、ひときわ目立つ引っ掻き傷が、頸の下から肩甲骨にかけて一本刻まれていた。かさぶたになっているものの、やや赤みが残っていた。蘭丸は思わずその傷を凝視する。蘭丸の視線に気づいた嶺二が、まだ首が座り切っていない頭を、こてんと傾けながら振り返る。自慢の大きな丸い目を細め、その視界に蘭丸を捉えた。
「この間もねぇ、衣装さんに言い訳するの困ったんだよ。アイドルの背中に傷をつけるなんて、よくないよね。どんな責任取ってもらおっかな」
赤々とした舌先が姿を現し、上唇を撫でる。
「ね、ラぁンラン?」
嶺二はふらふらとした足取りで浴室へと向かった。ドアが閉ざされ、曇りガラスにはぼんやりとそのシルエットが浮かび、シャワーの流水音が浴室のドア越しに響く。
蘭丸は急に上がる体温を抑え込むようにして、その場にしゃがみ込んだ。否、血の気が引いた故の反動か。……あークソ、最悪だ。覚えてねぇ、思い出せねぇ。多分あの日だ、珍しく一緒に飲んだ日の夜だ。そいつはあの日のやつなんだろ。
頭を掻きむしると甘いシャンプーの香りがした。それと同じ香りが浴室からも伝い、陽気な鼻歌も運んだ。