茹だる夏は蜃気楼に溶けていく。
そしてまた、嗚咽のような波音がやってくる。大きな黒い波は、すぐにぼくを飲み込んで、口の裂けたクラムボンがメメント・モリの合唱をする。不協和音に苛まれ、ぼくは逃げ場を探す。遠く見える緑を目指して駆けて行く。緑の中へ、緑の中へ!
眩しい太陽に照らされた、真夏の緑。けたたましい蝉の声、水滴が残る朝顔。ぼくは見た。
真っ白な少年はいつもそこにいて、ぼくを見つけて振り返る。丸い瞳を向けて、輝く髪を揺らす。心地良い暑さと、赤の実と、真っ白な少年。でもぼくは、いつもこのことを忘れてしまう。
おはよう、絶望。
* * *
無機質なエアコンの送風音、壁越しに伝う忙しない足音に物音。とあるテレビ局の楽屋の一室で、寿嶺二は、本日出演するバラエティ番組の台本に目を通していた。今回の出演は、所謂ひな壇。内容は、夏のおすすめスポットを紹介し、そのテレビ局が運営する夏イベントの中継も兼ねた生放送番組だ。事前に用意されていたトピックスには、出演者の夏の思い出に関する内容もあり、嶺二は復習するように目を通していた。さらに、今日の出演者にはシャイニング事務所からもう一人いた。
「いつになく真剣な顔をしているね、ブッキー」
楽屋に戻って来た神宮寺レンは、テーブルに置いた台本に齧り付く嶺二を見て声をかけた。嶺二は、レンに声をかけられると、顔を上げて伸びをしながら、表情を緩ませた。
「ぼくちんはいつだって真剣だよ〜ん?」
嶺二の微笑みを受け、レンは嶺二と向かい合う位置に腰をかけた。今夏のトレンドファッションに身を包んだレンは、相変わらずトップモデルそのものの品を纏っていた。七分丈の袖から覗く褐色の肌は、夏の色気を醸し出し、その手首の位置には腕時計のような形をした日焼け跡が残っていた。
「ちょっと焼けた?」
「ああ、この間まで海岸での撮影が続いたんだ。それでちょっと焼けちゃったかな?」
「日焼けでより色っぽさが出たんじゃない? 今日のトークもバッチリだね」
嶺二はテーブルに置いていた台本を、レンにも見えるように差し出す。《子どもの頃の夏の思い出を聞かせてちょーだい!》と太字のゴシック体で書かれた見出しのページが開かれている。レンは上体を傾け、台本の内容に目を通してから、薄く笑みを浮かべて嶺二を見た。
「ブッキーはこの手の話題、豊富そうだよね」
「レンレンもそう思う? さっきメイクさんにも同じこと言われちゃったんだよなあ」
頬杖をついた嶺二は、何処を見るでもなく横顔を向け、静かにため息をついた。その様子を一瞥したレンは、上体を戻して姿勢を正す。
「何か、焦ってるのかい?」
「んー? まあ焦ってるわけじゃないけど、ちょっち困ったなと思って」
嶺二は台本を自分のほうに戻し、印字された文字に目を滑らせた。《子どもの頃の夏の思い出》……この話題は番組のメインテーマや、大きなコーナーでもなく、合間合間に挟まるミニトーク的なお題。持ち時間も長くて一人当たり三分程度。事前回答が台本上にもあったため、本来ならば特段困ることでもないはずだった。しかし、どういうわけか嶺二には、このお題から目を離せずにいた。暫し無言な嶺二を和ませるように、レンが口を開く。
「困ったっていう点では、オレも同じかな。昔話をすると、みんなが困っちゃうんだ。スケールが違うって」
「あはは、確かに見かける光景だ」
「最近そればっかりって言われちゃったよ。マンネリ化ってやつ?」
「なるほどねえ、お家柄特有の悩みだ」
楽屋のドアがノックされ、スタッフからの声かけがされた。二人は立ち上がって、身なりを整える。嶺二が深呼吸をし楽屋のドアへと向かうと、褐色の手のひらが肩を優しく叩いた。
「お互い、肩の力は抜いて行こう」
「後輩に言われてる気がしないな、ありがと」
温かなオレンジの髪の隙間からは、青空のように澄んだ瞳が覗く。嶺二はレンの柔らかな眼差しを受け止め、スタジオへと向かった。その道中、レンは思い出したように嶺二に声をかける。嶺二の隣に立つと、耳元に顔を近づけ声をひそめながら話し始める。
「ランちゃんのことなんだけど」
レンの口からは、黒崎蘭丸の名前が発せられ、思わず嶺二はレンの瞳を見つめてから、レンに身体を近づける。
「最近、いくらなんでも追い込みすぎてる雰囲気があって、いつになくトゲトゲしてたのが気になったんだけど、大丈夫かな……って、オレよりもブッキーのが詳しいか」
「ここ数日は連絡自体もあまり。ランランってば、そんなに険悪ムード?」
蘭丸は個人の音楽関係の仕事で各地を転々とし、嶺二もまたドラマやバラエティ番組の仕事が立て込んでいた。勿論、こういったことは珍しくもない。蘭丸が嶺二の家で過ごす時間も、ここ数日は無くなり、各々で生活をしていた。それゆえに、嶺二と蘭丸の親密な関係を知っている、レンからの気遣いであると嶺二は察した。
「いや、ちょっと心配だなって思っただけさ」
スタジオの奥からスタッフがレンの名前を呼ぶ。レンは嶺二にウインクをして、声をかけたスタッフの元へと小走りで向かった。
「……そっかあ」
嶺二はポツリと呟き、スタジオにスタンバイした。いつになく、緊張感と少しの不安感で滲んだ手汗を握り押し込めた。
* * *
はーい! ぼくの子どもの頃の夏の思い出は、家族での花火です。打ち上げ花火もいいけど、手持ち花火を持って集まるのも、夏の風情って感じしなーい? ぼくは姉がいるので、二人ではしゃぎながら手持ち花火で楽しんだのが子どもの頃の夏の光景って感じがします……ってことで!……意外にも観光絡みではなく、庶民的で素朴? あっ、あっははー! え〜!? それどういう意味ですかー? 真っ先に浮かんだんですよん♪ うん、もちろん。
ほんとうですよ?
* * *
――幼いあの子は、忙しなく駆け回る。そんな風体。
嶺二とレンが出演した生放送番組から数日。レンからの話もあり、蘭丸のスケジュールを確認した嶺二は、蘭丸を自宅に呼んだ。特段拒否される雰囲気もなく、味気ないメッセージが返され、数時間後には当然のように、蘭丸は嶺二の自宅の扉を開けた。一日オフの予定になっていた嶺二は、自宅の掃除をし清潔感のある環境を作っていた。部屋に上がった蘭丸は、やはり疲労感が蓄積していたようで、表情から溢れるオーラもいつも以上に他を寄せ付けないものがあった。来ると決断したのは蘭丸自身であるものの、呼んだこと自体に申し訳なさを嶺二は感じてしまう。
蘭丸はリビングの壁に立てかけるようにベースを置き、持っていた荷物を下ろした。首筋に光る汗が、暑い外から来たことを物語っているようだった。そのまま、リビングのソファーに座り、大きく息を吐く。ソファーの背もたれに、首ごともたれ上を向き、顔を隠すようにタオルを被る。
「お疲れ。ご飯あるんだけど食べる?」
「あとでやる……」
普段であれば真っ先に飯な蘭丸らしからぬ反応に、思わず嶺二は蘭丸のいるソファーに駆け寄った。蘭丸の顔を覆うタオルをパッと剝ぎ取り、現れた顔を凝視する。舌打ちが聞こえたのもお構いなしに、タオルを蘭丸から遠ざける。不機嫌な顔は、仕事終わりでそのまま来たであろう、メイクで彩られたままだった。
「珍しく目の下にクマ。おねむなランランらしからぬって感じ。寝不足? それともメイク落としきれてない?」
「……るせ」
覗き込む嶺二の額を、蘭丸は手のひらで押しのけると、腕を組み、顔を傾け目を閉じた。嶺二はソファーの空いた位置に腰をかけ、テレビのリモコンに手を伸ばす。
「ランラン、うるさくしてごめんだけど、ぼくもここ数日忙しくてさ。確認できなかった、この間の番組点けるね」
蘭丸は「ん」とだけ反応をし、目を閉じたままだった。嶺二はリモコン操作でテレビを点け、録画した自身の出演番組を見返す。時間を見つけては、自身の出演した番組を振り返り、客観的に見て反省を行うことをしていた。それは、嶺二と蘭丸が務める「まいらす」でも、QUARTET NIGHTの音楽活動でも行っていることだった。録画タイトルの中から、先日レンとともに出演した生放送番組が再生される。音量を落とし、嶺二はテレビに映る自分自身をぼんやりと眺めていた。
「わかりやすく困惑してんじゃねぇよ。生放送だろこれ」
「え?」
蘭丸は顔をテレビのほうに向け、薄目を開いていた。その目線は、テレビに映る栗色の髪を揺らす人間に向けられていた。場面はちょうど例の、夏の思い出について。
「嘘……じゃあねぇだろうが。なんつーか、違和感なんだよ」
「違和感」
嶺二はテレビに映る自分を見て、蘭丸の言う違和感の正体を自分の中で探す。しかし、探す必要も無く、それは、はじめから分かりきっていたこと。長年芸能の世界で隣に立ち、且つ、プライベート空間も共にする蘭丸もまた、すぐに見抜いてしまう。
「またてめぇで取り繕うんだな。疲れねぇか? それ」
その言葉の終わりとともに、蘭丸は嶺二のほうに目を向けていた。二色の瞳が嶺二の身体の内面を突き刺し、違和感の正体を暴こうとする。……どうしてだろう、今日はなんだか、笑い飛ばせない。
「トークは少し過剰にしたほうがいい。面白い話も出来ないようじゃあ、生きていけないよ」
「ハッ、糖分野郎みてぇなこと言うんだな」
「そうかな」
自分じゃない人のようだと、つまり、「らしくない」を突き付けられたようで、嶺二は顔を落とす。理性と言い訳と不安感と愚痴と、すべてをないまぜにした泥のような感情を一気に呑み込もうとして、返り討ちに遭ってしまう。救難信号は届かない。
「ぼくのこと、ウザい?」
「そう聞くほうがウゼェよ」
「ハハ、間違いないや」
嶺二はリモコンを手に取り、テレビを消すと、立ち上がり蘭丸に背を向けた。
「……ごめん、ちょっと外の空気吸ってくる」
「レンレンの言ってた通り。あれは相当お疲れモードだったかも」
『ランちゃん?』
嶺二は逃げるように家から出ると、車を使わず通りを出て、たまたま停車していたバスに駆け乗った。数分後、公園前でバスが止まると、バスを降りる人の流れとともに嶺二もバスを降りた。家からはそう遠くはないが、初めて来た公園を見渡すように散歩した。遊具のある広場を囲むように、沢山の緑の木々が立っていた。木陰のベンチを見かけると、その真ん中に腰をおろし、スマートフォンを手に取る。メッセージの上段に残っていた、神宮寺レンの文字を目に入れると、そのまま電話をかけた。突然の電話にも関わらず、レンは嶺二の電話に応じ、話を続けている。
「うん。でもランランも馬鹿じゃないから、誰彼構わず当たったり、昔みたいにスタッフさんをビビらせることは今更無いと思うけど」
嶺二は電話の向こうで、レンが静かに笑い声を上げているのを聞いた。
『ブッキーって、案外、察して構ってなところ多いよね』
「え?」
素っ頓狂な声を上げ、嶺二は目を見開く。その声は、公園の間をとおり、遊具で遊んでいる子どもの一人が、ベンチに座る嶺二に顔を向けたので、嶺二は思わず身をかがめた。
『ランちゃんに当たられた?』
「あはは!……あ〜良くないや。ぼくってば、ついレンレンに甘えちゃったのかあ。……いやね、当たったのはむしろぼくなんだ」
『本当かい?』
「というか、ぼくの察して構ってなところ」
『うん』
いくらきっかけがレンからの蘭丸の話とは言えど、蘭丸に会いたい思いが募って、声をかけたのは事実。どう見ても疲弊している蘭丸に、それでも甘えたくて、気づいて欲しくて、空回っていたのは嶺二自身の勝手。いつだって、自分のため、そればっかりで呆れる気持ちを、可視化されるのが嫌でやけになってしまった。嶺二は大きなため息をつくと、電話の向こうのレンも宥めるようにそのままでいた。
……そもそもぼくは、ランランに何を求めていたんだっけ。嶺二は家を出る前の光景とその発端を手繰り寄せた。十七時をお知らせする園内アナウンスが響き、遊具で遊んでいた子どもたちが散らばっていく。
「この間の番組の話なんだけど、レンレンの子どもの頃の夏の思い出って、何だっけ?」
『急に話が変わったね。……えっと、初めて行った夏のハワイ。海が綺麗で驚いたって話さ。オレはあまり家族との思い出は無いし、旅行話なら番組の方向性とも合うと思ってね』
「そっか、そうだったんだ」
『夏の思い出の話が、なにか?』
嶺二は大きく息を吸って吐き、気持ちを落ち着かせる。
「んー、そうだね。思い出が無いわけじゃないけど、思い出せないことってない?」
『思い出せないこと……そりゃあ、たくさんあるだろうさ』
「つまりぼくはそれ。ああ、年上だからって、物忘れだなんて言わないでよん?」
『言わない言わない』
レンの声は温かく、電話の向こうでも優しく見守っているような、そんな表情が声色からも伺えた。その優しさに、嶺二もはにかみ小さな笑い声がこぼれる。
『でも、よく分からないな。思い出せないことに困ったってこと?』
「うん、多分」
虫かごを首から下げた小学生ぐらいの男の子が、誰かを探すように公園を横断する。
『ブッキーにとってのランちゃんも大変そうだけど、ランちゃんにとってのブッキーも……なんて言うか、謎解きみたいだ』
「ほんとに、ぼくってばどうしていつもこうかなぁ」
嶺二は上を見上げ、木々の隙間からこぼれる光に目を細めた。
『自己愛に利己愛、他者愛。それと自己開示。器用に出来てりゃ、こんな臆病には生きていないさ』
電話越しに聞こえる低い声は、嶺二の心に寄り添うように、そして自分自身にも言い聞かせているように、落ち着きを纏っていた。嶺二はその言葉の一つ一つをゆっくりと呑み込んでいく。
「やっぱり、後輩に言われてる気がしないね」
嶺二はレンに突然の通話への付き合いに感謝を告げ、電話を切った。スマホを離すと、ようやく近くの木々から蝉の鳴き声がしていたことに気付く。さっきまで遊具で遊んでいた子どもたちは、すっかりといなくなっていた。
「暑いな……」
公園のベンチに腰をかけたまま、嶺二はゆっくりと目を閉じた。
暑い。身体中を熱がいっぱいに包み込む。都会の人ごみの圧迫感と、排気ガスや換気口から排出される臭気を含んだ熱気が重なって、具合が悪くなる。ああ、こうやって地球温暖化が進み、有毒と公害に塗れた街が出来上がるんだと、やけに悟った感想が脳裏を駆け巡る。息苦しさは変わらない。昔はこんな夏じゃなかった。……あー、今なんかおじいちゃんみたいなこと思っちゃった。でも事実、災害級の暑さなんて毎日のように耳にすることは無かったし、本当に変わってしまったんだと思う。学生の頃だってあいつらと……あいつ、ら、と。……思い出せないけど、夏の暑さなんてへっちゃらで毎日を過ごしていた。37度の最高気温に驚いて、今にも暑さで倒れそうな、顔の白いあいつにガリガリくんのソーダ味を。渡し、た、はず。溶けたアイスの液体が手に流れて……それで……? ああダメだ、頭が痛い。頭を刺す、アイスの冷たさ? キーンって。違う、違うなこれ。ほら、黒い波がまた。嫌だな、逃げたい。逃げたい、逃げたい、逃げたい!!
「ねぇ! きみもさがしてるの? ぼくもさがしてる。なつのおうさま!!」
何それ。なんでもいい、ぼくも連れて行って。そう、例えばその、緑の中へ。
――はじめ、まして……
――ああ、これおばさんが? それで。
――××××
――××?×××……かわってる
――ねぇ、手。べたべた。だいじょうぶ?
見覚えのある光景。多分、いつかの夢に見て、それでいつも忘れる夢の光景。真っ白な少年に出会う夢だ。「ぼく」の手は、子どもの手のひらで、やけにベタつくから、その手のひらを舐めた。トマトだ。すると、真っ白な少年は笑った。青い空と白い入道雲、照らす太陽はカラッとして心地良い。麦茶の冷たさが、気持ち良く喉を通る、そんな感じで。向日葵がゆっくりと揺れると「ぼく」の体は動き出した。帰らなきゃ。
でも待って、ぼくはまだ帰りたくない。ぼくは君を知らない。君の名前を聞かせて?
ぼくの名前を呼んで!
景色はそこで、白と緑とセピアを、マーブルの渦に溶かして、記憶の奥の、そのまた奥の、奥の奥に閉ざして。鍵をかけてしまう。
「嶺二」
* * *
「おい、嶺二起きろ。死にてぇのか」
目を覚ますと、目の前には嶺二の顔を覗き込むように屈んだ蘭丸の姿が映った。紅と灰色の瞳が西日を反射させ、嶺二は目を細める。
「んぇ……ランラン……?」
嶺二は顔を上げ、声を出すと、その声は酷くざらついていて、暑さと喉の渇きが一気に襲い掛かる。蘭丸は、ふらつく嶺二の前にペットボトルの水を差しだした。
「とりあえず水飲め。マジで死ぬぞ」
「ありがと」
嶺二は水を飲み、喉を潤す。少し前まで、夕暮れ時とは言い難かった明るさだったはずが、すっかりと日が傾き、太陽は夕陽となっていた。それでも暑さは変わらず、熱気を伴っている。蘭丸は立ち上がって、白い服の胸元を掴み、パタパタと扇いでいた。
「ぼく、何してたんだっけ」
「外の空気吸うとか言って出てからもうすぐで二時間。三十分前にレンから連絡があった」
「レンレンが?」
「参ってそうだったからとかなんとか。後輩にンなこと言われて、ダセェ奴だな」
「仰るとおり……そっかぁ、そんなつもり無かったんだけどなぁ」
蘭丸は、嶺二が両手で持っていたペットボトルを摘み上げる。その動きを追うように嶺二が顔を上げた。
「帰るぞ」
「うん」
公園を出て、行きとは逆のバスに乗って帰路を辿る。バスの中には、人がまばらに座っており、嶺二と蘭丸は、バスの一番後ろの席に並んで座った。嶺二はようやく微睡から抜けた脳で、蘭丸がよく自分の居場所が分かったものだと思い、申し訳なさで身を竦めた。
「迷惑かけて、ごめん」
「ああ」
「それと、ちょっとナイーブっていうか。自暴自棄だったかも」
窓側に座った蘭丸は、外の景色を見ていた視線を、ゆっくりと反対の嶺二のほうに向ける。
「……いや、おれも。言い過ぎた」
「そう?」
「悪かった」
「うん」
長い睫毛が下を向く。嶺二は蘭丸の左手に、自身の右手を重ねた。バスは揺れ、揺り篭のような心地よさを与える。
「そうだ、ランラン最近追い込みすぎてない?……って、これまたレンレンが」
「んだよ、二人してあいつに心配されてんのか」
「ごめんね、疲れてるのに外、出させて」
「家着いたら、飯食って寝る。それでチャラだ」
「元気だなあ」
バスの車内アナウンスが鳴り、「とまります」ボタンの赤が、イルミネーションのように車内のあちこちで灯る。二人はバスを降りた。
西日はまだ最後の輝きを放ち、東の空は薄暗がりを持ち始める。二人はバス停から並んで歩いた。二つの影が、西日を受け長くまっすぐ伸びる。
「おまえのこと、今更詮索なんてしねぇから」
「それでいいよ」
「でも、言いたいことがあれば言えばいいし、話したければ話せばいい」
蘭丸の声は、一歩一歩確かめるように、優しく言葉を紡ぐようだった。
「うん」
「変に隠されても、おれは多分……気に入らねぇから」
「か〜わいい〜〜」
「うるせぇ、炎天下の車道に放り投げるぞ」
「それは勘弁!」
嶺二はけたけたと笑い声を上げてから、背伸びをする。一度通った同じ道は、行きと違って軽い足取りで進むように感じ、心も軽くなるようで、嶺二は口元を綻ばせる。そして、言いたいこと――言いたかったこと――が自然と声に出る。
「ぼくね、思い出話って実はあまり得意じゃない」
蘭丸は嶺二の横顔を見つめる。
「思い出がないとか、思い出したくないとかじゃなくて、思い出そうとすると、どうも思い出せないんだ。もちろん、子どもの頃好きだったこととか、記憶のいち光景とか、覚えてるものは沢山ある。でもなんていうかな……」
自分の心の奥底にそっと手を添えるように。自分自身を見つめる言葉を紡ぐ。
「ぼくの後悔が、思い出のすべてを閉じ込めちゃった感じ」
嶺二は遠くを見つめた。
「忘れたくない思い出もきっとあったはずなのに、思い出すきっかけすら出来ないと思うと、ちょっとばかり寂しい気もするんだ……昨日のことのように思い出す、辛いこともあるっていうのに」
遠く見える蜃気楼にいつかの景色を溶かし、静けさに身を委ねる。
「おまえ、昨日の夕飯覚えてるか?」
沈黙を破る蘭丸の深い声が、嶺二の視線を蘭丸の横顔に向けさせた。
「覚えてる、焼きそば!……ん、違う、それは一昨日か。あれ? 昨日って何食べたっけ?」
嶺二は頭を掻き、腕を組み、首を傾け、忙しなく動いては昨日の夕飯を思い出そうとする。
「案外、直近のことでも覚えてねぇもんなんだよ」
「えー、なんか切ない」
「つまりだ」
嶺二の一歩先を歩いた蘭丸が歩みを止め、嶺二に向かい合うように前に立つ。その顔は西日を受け、銀の髪をキラキラと輝かせた。
「おれたちがこれからどれだけ同じ時間を過ごしても、昨日のことすら簡単に忘れちまえる。記憶ってやつは脆い。……だが、どれどけ時が攫っても、癒えない傷みてぇなもんもあって」
「うん」
「癒えない傷とずっと付き合うことになる、でも――」
「でも、固執する必要はない」
キョトンとした蘭丸の表情を見て、嶺二はその両の目を見つめ返す。そしてすぐにニッと口を広げた。
「ぼくも、変わったでしょ?」
言いかけた言葉の先を取られた蘭丸は、「わかってんじゃねぇか」と今にも言いそうな表情で、得意げに話す嶺二を見下ろした。
「あの時ああしていれば良かったーとか、しなければ良かったーとかって、実際野暮なんだよね。だけど、思うことは今でもある。でもね、振り返ることは、何も引きずることばかりじゃない……って思えるようになったんだ」
嶺二は蘭丸を追い越し、背後に回って蘭丸の大きな背中を両手でぽんぽんと叩く。その背中に自分の額を寄せた。
「ランランのおかげかな」
昨日の夜ご飯のことはうっかり忘れちゃったけどさ、例えばキッチンに立った時、例えばテーブルの椅子に座った時……君との何気ない日常を思い返すんだ。簡単に忘れてしまえるほどの、些細な出来事を。そしてこうも思う。今度ランランと何を食べようかなあとか、あの話をしなくちゃとか。未来のこと。そう思うことが増えたんだ。
だからこれは、未来の話。
けたたましく鳴く蝉の声
水滴を残した朝顔
真夏の緑
振り返る真っ白な少年
また会ったね
でもぼくはいつもここでしか君を思い出せない
だから、待ってて
ぼくが君の
君がぼくの
名前を呼べる、その日まで