仮面の下はその子供は、ある日突然ジャックとライカンの前に現れた。
「おい、じっちゃん!ズルいだろその手は!」
「これも戦略のうちだ……チェック。」
嬉しそうにライカンの白いナイトを弾くジャック。そう、あれはいつものように、じっちゃんにチェスで容赦なく追い込まれいたときだった。
チェックということは、まだ王手ではない。どこかにこの窮地から脱する手立てがあるはずなのである。だが、どこに……?ジャックが文字通り頭を抱えた、そのとき。
「──ナイトをE5に動かせ。」
「誰だッ!?」
茂みの影から凛とした声が聞こえて、ライカンは反射的に椅子から立ち上がった。一方、ジャックは落ち着いた顔で茂みへと声をかける。
「ずっとそこにいたな?とうとう痺れを切らしたか。」
「ちぇ。バレてたのかよ。」
ガサゴソと音がして、さほど大きくはない人影が姿を現す。
……それは、とても美しい少年だった。
何故かボロボロになった、それでもひと目でその仕立ての良さがわかるシンプルなシャツとズボン。木漏れ日を受けてきらきらと輝く金の髪が、ライカンの視線を惹きつける。旧文明の絵画に描かれていたという天使は、こういう姿かたちをしていたに違いない。そんな考えが頭を掠めて、オオカミの少年の耳が落ち着きなく揺れる。
その少年は服に付いた葉や小枝を払うと、悠々とテーブルに近付いた。
「ほら、早く。僕の言ったとおりにしろ。なんだ?耳が聞こえないのか?」
「……う、うるさいぞ!突然出てきて何だ!?」
「何だじゃないだろ。お前が勝ち筋をみすみす逃し続けているから、我慢できなくなったんだ。教えてやるから、有難く僕の言う通りに駒を動かせ。」
前言撤回。天使がこんなに偉そうなわけがない。
そう思いつつも、根が真面目なライカンは言われるがまま駒を動かした。ジャックの駒を牽制しつつ、切り開いて奥へ──やがて、白の歩兵が黒の陣地の最奥へ辿り着く。ほう、とジャックが感心したように顎髭を撫でた。
「昇格だ。」
「何に成る?」
「尋ねる必要があるか?勿論クイーンだ。」
随分と前にジャックの手に落ちていた女王が、再び盤上に舞い戻る。その進路上には……
「あっ!」
思わず声を上げたライカンに、少年は鼻を鳴らすと誇らしげに腕を組んだ。
「今気がついたのか?」
「チェックメイトだ!」
ナイトに睨まれ動けなくなっていた黒のキングの退路を、成ったばかりの白の女王が塞ぐ。王手だ。
「どうだ、じっちゃん!勝ったぞ!」
「勝ったのは僕のおかげだろ、感謝の言葉が聞こえないぞ。」
「オレが素直に動かしたからだろ!」
「あー、そうだな。命令に忠実で偉い偉い。狼だと思っていたが忠犬だったか。」
「何だ!お前!!」
「やるか?舐めてると痛い目に会うぞ!」
あわや一触即発といった少年たちの間に、いつの間にか移動していたじっちゃんが立つ。傍目にはにこやかに立っている老人のように見えるが……日頃からコテンパンにされているライカンは言うまでもなく、闖入者の少年も一歩も動けずに肩を震わせる。
子どもたちが大人しくなったのを見て、ようやくジャックは放っていた殺気を収めた。途端、ライカンと少年は仲良く地面に崩れ落ちる。思わず呼吸を忘れていた肺に、森の新鮮な空気が流れ込んでくる。
「頭は冷えたか?」
老人の問いに、二人は声もなく頷いた。
「それで……お前さん。どっから来た。」
「……地獄から。」
真面目に答えろよ、と言いかけて、すんでの所でライカンはその言葉を飲み込んだ。ふっと曇った少年の瞳は、嘘を言っているようには見えなかったからだ。
「そうか。帰る家は?」
「そんなもの、あった試しがない。」
「じゃあ、一緒に来るか。」
「おい、じっちゃん!」
予想外の提案に、ライカンは思わず口を挟む。それもそのはず、一応自分たちは盗賊──犯罪者なのだから。だが、ライカンの心配をジャックは肩を竦めて受け流す。
「そろそろ頭がいいヤツも仲間に欲しかったんだ。」
ジャックの言葉に白狼は黙り込んだ。
色々言いたいことはあるが、少年の頭脳は先程のチェスでよく分からされたばかりである。それになにより、ライカンはジャックの目を信頼していた。
「じっちゃんがいいなら……」
「だ、そうだ。どうする?」
二対の視線を注がれて、見知らぬ少年は居心地が悪そうに身動ぎする。迷うように口をはくはくと動かすが……声より早く、くう、と随分可愛らしい音が鳴る。最初に答えたのは口ではなく腹の虫だったようだ。少年は咄嗟に腹を抑えるが、鳴ってしまったものを取り消すことはできない。白い頬と長く尖った耳に、赤みがさす。
「ふっ──食べ盛りのオオカミがいるから、満腹になるまで食べさせてやるとは言わないが、少なくとも外で餓え死にするよりはマシだぞ。」
ジャックが笑って手を差し伸べた。助け起こすための手を前にして、少年は首を横に振ると自力で立ち上がる。そして身なりを整えると、今度は少年の方から手を差し出した。
「世話になる分はきっちり働いて返す。」
憐れみから拾われるのではなく、自分の能力を買って欲しい──言外に滲んだ少年の矜持を感じ取って、ジャックは目を細めると白い手を握り返す。
「坊主、名は?」
「ヒューゴ。……よろしく、お願いします。」
こうして、オオカミ少年が独占していた屋根裏部屋には、ベッドがもうひとつ増えることになったのである。
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ある昼下がり。
「ほら、ライカン!ボサっとしてんな!走るぞ!」
「お前なぁ……荷物全部オレに持たせておいて……!」
ジャックからのおつかいで街に出向いていた二人は、家まであと少しというところで大雨に降られていた。これは旧文明に聞くスコールというやつだろうか。なんとか家に滑り込んだ頃には、少年たちはすっかりずぶ濡れになっていた。
「ハハ、こいつはまた随分と派手に濡れたな。」
ストーブに火を入れて待ち構えていたジャックは、荷物を受け取ると二人にふかふかのタオルを放る。
「風呂も沸かしてある。風邪をひかないようにしろよ。」
はーい、と二人分の声が仲良く重なったのに満足して、老人は買い出しの荷物を抱えると収納庫へと足を運ぶことにした。残された少年たちはジャックの姿が消えるや否や、互いにギラリと好戦的な視線を向ける。
「ライカン、今日は何にする?」
「力比べはどうだ。」
「馬鹿め、それだとお前に有利すぎる。」
「フン、オレに勝てる自信がないから逃げるのか?」
「挑発しても無駄だぞ。ここは公平に、コイントスで行こう。」
「コイントスこそお前が有利じゃないか。どうせ何かイカサマでも仕込んでるんだろ。何回も同じ手に引っかかると思うなよ。」
「チッ……」
それは、ヒューゴがこの家に来てから数ヶ月が経った今となっては最早恒例になりつつある、風呂の順番決めであった。
荒野において、水はかなり貴重な資源だ。近くに湧き水豊かな井戸があるとはいえ、なるべく無駄にはしたくない。だから、当初こそライカンはヒューゴと共に風呂に入ることになるんだろうなと思っていたのだが──
「ライカン、ヒューゴ。お前たちは順番をずらして入れ。」
「じっちゃん、いいのかよ。水が勿体ないだろ。」
「子どもが一丁前にそんなこと心配するな。とにかく、順番は自分たちで決めろ。ただし、喧嘩は無しだ。わかったな?」
珍しく一方的に話を終えようとするジャックに、ライカンは訝しげな顔をする。ちらりと横目で新たな住人を見ると……変な表情をしていた。困惑と、申し訳なさと、目を僅かに伏せているのは羞恥か?
オオカミ少年は不思議に思ったが、どう切り出せばいいか迷ったまま声には出せず──結果的に、こうして風呂に入るための順番決めをなんとなく続けてしまっている。
「仕方がない、じゃんけんで決めよう。」
「ああ、それがいい。」
ようやく意見がまとまった二人は、互いに目を合わせるとお決まりの文句を口にした。
「「Rock, Paper, Scissors!」」
勢いよく手を振り下ろす。ヒューゴは拳を握りしめ、ライカンは大きく手を開いていた……ライカンの勝ちだ。
「ちぇ……早くしろよ。俺はお前と違って繊細だから、あまり冷えると風邪をひくぞ。」
「なら先に入るか?」
「冗談を真に受けるな……負けは負けだ。勝ったお前が先に入るのが『公平』というものだろ。」
しっしと犬を追い払うように手を振られては、ライカンには何も言えない。ここで言い争うより、なるべく早く交代してやる方が時間の節約になるだろう。そう判断して、着替え──いつの間にかジャックが用意してくれていた──を引っ掴んでバスルームへと向かうことにした。
雨に降られただけで泥だらけになったわけでもなく、三十分とかからずに風呂から上がったライカンはいつものようにヒューゴと交代すると、少しでも早く被毛が乾くようにストーブの正面に陣取った。最初にジャックにもらったタオルはとっくに濡れそぼってしまったため、新しいタオルを手に取ろうとして──バスルームに忘れてきたことに気づく。
今ならまだ、交代したばかりだからヒューゴもシャワーを浴びてはいまい。間に合う……そう判断した獣の脚は早かった。
「ヒューゴ、タオルをわす──」
「ッ、馬鹿!いきなり入ってくるなッ!!」
ノックもなしに扉を開けたオオカミの耳に、焦った声が刺さる。続いて、乾いたタオルが視界を塞ぐように飛んできた。
「おい、何すんだいきなり!」
「それは!こっちの!セリフだ!!……ノックぐらいしろ、駄犬め!」
「そこまで怒ることないだろ!?」
常になく刺々しい態度に、さすがのライカンもムッとして顔に張り付いたタオルをひっぺがすと、文句のひとつやふたつ言ってやろうと顔を上げる。
さほど離れてはいない距離にいたヒューゴは、どうやらシャツを脱ごうとしていたところだったらしい。上の方のボタンだけ慌てて閉めたのか、完璧主義なきらいのある彼にしては珍しく、一段掛け違っていた。シャツの下から覗く肌は透き通るように白く滑らかで、雨に濡れたそれがひどく美味そうに見えて……ライカンは思わずごくりと喉を鳴らした。
「ライカン?」
ヒューゴの声に、はっと我に返る。
「……な、なんでもない。」
「なんだよ、変なヤツ。……とにかく、ドアはノックしてから入れよ。わかったな?」
「わかった、わかった。」
背を押されるままに、ライカンはバスルームを追い出された。目的のタオルは手に入れたが、あの白い肌が目に焼き付いて離れない。思えば、ライカンやジャックは暑い日になるとすぐワイシャツを脱いでしまうが、ヒューゴがそうしているのを見たことはなかった。もちろん、顔やすらりと伸びた手足でその陶器のような白い肌は目にしていたが、それにしても普段目にしない秘された場所なだけに、健全な男子は動揺してしまうものである。おまけに、あのキュッと締まった細い腰……成長途中のライカンの手ですら、両手で一周できてしまうのではないか。手荒に掴んでしまえば、おそらく手の痕がくっきり残るだろう。力はいつだって自分の方が上なのだから。DNAに刻まれた本能のままに、触れれば折れてしまいそうな肢体を組み敷いて──それから?
「……なに考えてんだ、オレは!?」
脳裏をよぎった乱暴な欲を、頭を振って追い出す。
なんとか他のことを考えようとタオルを閉じた瞼の上に置いて、ライカンはオンボロなソファの背もたれに身を預けた。そういえば、シャツの隙間から少し見えた布は、包帯だろうか?怪我をしているなら薬でも塗って……いや、じっちゃんに任せよう。じっちゃんといえば、買い出しの整理は終わっただろうか。今日の夕食作りは自分の担当だった。買ってきた食品で使えそうなのは──
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「ライカンさん?お時間ですわよ。」
メイド長による上品なノック音が、ヴィクトリア家政筆頭執事の目を覚まさせる。考えごとをしているうちに、眠ってしまっていたらしい。
随分と懐かしい夢を見たな……そう思いながら、軽く身支度を整えてドアを開ける。
「リナ、ありがとうございます。」
「いえ、本日もお忙しいでしょう?クッキーを作って起きましたから、召し上がってくださいね。」
ニコニコと微笑むリナとは裏腹に、ライカンの背に冷や汗が伝う……100パーセント純粋な善意だからこそ恐ろしいものが、この世の中にはある。
「……ありがとうございます、リナ。また後ほど。」
「あら、そうですか?では私はこれで。」
料理の腕さえ除けば非の付け所のないメイド長は、お手本のようなお辞儀をすると滑らかに去っていった。目下の危機を退けて、ライカンはほっと息を吐く。彼女には申し訳ないが、これから仕事というときに、様々な意味で強烈な手料理を食べる訳にはいかない。
胸元から愛用の懐中時計を取り出時刻を確認する。今日の仕事……もとい調査は、さしてる名家が主催の仮面舞踏会に潜入すること。特に怪しい取引があるというわけではないが、得てしてこうした社交の場は絶好の情報収集の場でもある。しっかりと観察して、怪しい動きがないかどうかを報告しなければ。
いつもの執事服に身を包み、支給された黒い仮面を眼帯の上から装着する……オオカミ特有のマズルや耳は隠せないそれが、はたしてどの程度「仮面」としての役割を果たしているかは甚だ疑問だが。
迎えの車に揺られるがままに会場へ着くと、似たような装飾のない仮面を身につけた使用人たちが亡霊のように音もなく会場の準備を整えていた。仮面舞踏会なんて催物を行おうとする主催者はご多分に漏れず懐古趣味のようで、会場の装飾から使用人たちの格好から、全てが旧文明の書物から抜け出てきたかのように古めかしい。この絵画めいたゴシックな雰囲気の会場では、オオカミシリオンである自分はかえって目立たないかもしれないな、とライカンは胸の内で呟いた。意図的に暗く抑えられた照明も相まって、この会場は諜報任務においては最適の空間だ。客人たちの顔をも仮面が隠しているのは少しばかり厄介だが、ライカンの鋭い嗅覚の前では仮面などあってないに等しい。場内を彷徨いても不審に思われぬようシャンパンの乗ったサルヴァを手にすると、増えつつある客人たちの間を縫うようにして五感を研ぎ澄ます。
歓談のざわめき、豪奢な衣装たちが発する衣擦れ、人々が纏う香水の香り──ふと、ライカンの耳が揺れた。
「……?」
自分でも何が引っかかったのか分からない。けれども、その会場に在る何かが、たしかに己を惹き付けていた。注意深く、けれどもどこか浮き足立って、ライカンは『それ』の元へと義足を向ける。
……『それ』は、存外すぐに見つかった。
というのも、その芳香に惹き寄せられていたのは自分だけではなかったからだ。仮面の隙間から覗く紳士諸君の下卑た眼差しと、淑女の方々からの羨望と嫉妬の視線──それを一身に受けて尚、凛とした佇まいの女がそこに居た。
女性にしては珍しい長身を包むのは、緩やかに身体の線に沿うシルエットが印象的な黒いドレス。ライカンは知る由もないが、それは旧文明において「狂騒の二十年代」と呼ばれる時代を彷彿とさせる衣装だ。過剰に装飾された豪奢なドレスの貴婦人たちの中ではいっそシンプルとも言えるそれは、しかし彼女の美しさを飾るには十分だった……そう、それはとても美しい女であったのだ。細かなラメが散らされた黒の布が大胆に開いた白く滑らかな背には小さなビジューの鎖が揺れ、一方すらりと伸びた腕は慎ましやかに黒い長手袋に収まっている。顔の上半分が鴉を模した仮面に覆われていたとしても、彫刻のように整った横顔のラインが損なわれることはない。
これ程までに美しい女であれば、人々がその完璧な肢体に欲を孕んだ目を向けるのも頷ける──ライカンにはそれが、酷く不愉快だった。
(……不愉快?)
そう思ってしまった自分に困惑する。見知らぬ女のはずだ。まだ声をかけてすらいない。だというのに、自分の大切な宝を野暮に触られたような、そんな不快感が込み上げる。
思わず一歩、足を踏み出した。突然現れた大柄なオオカミのシリオンを前に、人々は波が引くように去ってゆく。図らずも好奇の視線から開放された女は顔を上げてライカンを見ると、その唇で笑みを描く。
「……感謝しますわ。いい加減、どう切り抜けようか困っていたところでしたの。」
耳に心地よいアルトでそう言って、するりと女はライカンとの間合いを詰める。距離が近くなると、一層その長身が目立つ。ヒールを脱いだとしても、平均身長の男よりは頭一つ高いだろう。しかし、ことライカンは別格の体躯を持っていた。必然的に女は見上げる格好になる……どうやら彼女はそれが不満だったらしい。ツンと形の良い顎をあげると、右手をライカンの方へと差し伸べる。
「どこを向いてもゴテゴテと悪趣味な会場に辟易してきたのだけれど、息抜きできる場所はないのかしら。」
エスコートされるのが当然と言わんばかりの高慢な態度に一瞬面食らう。しかし今のライカンは完璧な執事であった。優美な所作で女の手を取ると、彼女を人気のないバルコニーへと連れ出す。
「こちらで如何でしょうか。」
すっかり日の暮れた空に、満月が煌々と輝いていた。静かな光が女の美貌に柔らかく落ちて、月明かりを浴びて美しく咲き誇る月下美人のような色香を漂わせる。──これ以上一緒にいてはいけない。理性が警鐘を鳴らした。自分の役割を思い出せ。任務がまだ残っている。けれども、身体は石になってしまったかのように動かせない。
……と、一陣の風が吹いた。悪戯なそれが女の結い上げた髪を縛っていた簪を攫い、細腕がそれに手を伸ばした瞬間バランスを崩してよろける。咄嗟にライカンは彼女を抱きとめた。
「大丈夫でござい、ます、か……」
留め具が外れて、輝く黄金色の髪が風に広がる。密着した拍子にふわりと漂った香りを嗅ぎ分けて、ライカンは動きを止める。爽やかで甘い、果実のような香り。自分はその匂いをよく知っていた。ずっと身近にあった、決して離れることはないと思っていたそれ。
「おい、離せ……無礼だぞ。」
腕の中で女が藻掻く。その声音には焦りが滲み、着飾った口調もどこかへ消え失せている。だが、そのざっくばらんな口調がますますライカンの疑惑を核心へと近付け──同時に大きな混乱をもたらした。
「お前……」
もはや執事の真似事などしている余裕はない。いささか乱暴に女の顎を持ち上げると、その仮面に指をかけた。
「ッ、やめろ!」
制止の声も聞かず、邪魔な仮面を取り払う。月下に晒される色彩の異なる瞳と、その下に二つ連なった泣き黒子……ぐる、とライカンの喉が鳴った。
「……ヒューゴ、なのか?」
「…………それ以外の誰に見えるというのかね?なんだ、そのマヌケ面は。」
正体のバレた女は諦めたようにやれやれと溜息をついて、かつて一つの屋根の下で暮らした元相棒を睨め付ける。他方、疑惑をすんなりと認められたライカンは雷で打たれたように硬直した。
「だって、お前──」
「何をそんなに驚いて……ああ、男じゃないのかって?」
言い当てられて、玩具のようにコクコクと頷く。ライカンの記憶に間違いがなければ、ヒューゴは少年だったはずだ。じっちゃんもそのように扱っていたし、本人だって一度も否定したことがない。潜入の際に女物の衣装を着ることはあったが、それだっていつも嫌がっていたのに……いや、もしかして。
「おい、今も女装なんじゃないかと思っているだろ。」
「違うのか?」
「はー、これだから貴様は……」
呆れられたということは、本当に違うらしい。実際、いかに変装の達人のヒューゴとはいえ、この身体のラインがはっきり出るドレスで男の体型を誤魔化すのは難しかろう。と、なれば。
「女だったのか……」
「ようやく気づいたか、馬鹿者め。じっちゃんなんて、最後の方は貴様の鈍さに呆れてたぞ。」
「待て、じっちゃんも知っていたのか?」
「当たり前だろ。」
十数年越しに突きつけられた真実に目眩がする。おまけに知らなかったのは自分だけらしい。思わず天を仰いだライカンに、ヒューゴはくつくつと笑った。
「お前……今まで何をしていたんだ。」
「何を?愚問だな、裏切り者。俺はずっと怪盗団モッキンバードの首魁だ、貴様とは違ってな。」
「それは──ッ!」
鋭い言葉と瞳に射抜かれて、ライカンは言葉を詰まらせる。『あの日』、決別を言い渡したのは自分からだ。何を否定できようか。
拳を握りしめるライカンに、美しく成長したヒューゴは寂寥を諦念で覆い隠した顔で微笑むと、かつての親友から一歩距離をとる。ここは外に張り出したバルコニー……背後に広がるのは暗闇に包まれ鬱蒼と生い茂る森だ。
「その仮面は預けておく。覚えておけよ、ライカン。近々、俺たちはもっと大きな舞台の上で再開する。」
「待て、」
「アディオス!それでは、良い夢を。」
言うが早いか、ライカンの腕をすり抜けてヒューゴはバルコニーから飛び降りた──慌てて身を乗り出して下を見るも、木々に遮られてその姿を見つけることはできない。苛立ちに任せて柵を叩こうと手を振りあげて、握ったままの仮面と目が合った。最初は鴉だと思っていたが、それにしては妙に鋭く長い嘴だ。
「マネシツグミか……」
唸るように低い声で独りごちる。
風にはまだ、あの馴染み深い芳香が漂っていた。
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物心ついた瞬間から、男物の服を着せられていた。
今になって思えば、それもまた母の拙い戦略だったのだろう。父が欲していたのはより強い後継者……か弱い少女など、誰が引き取ろうか。
ドレスに興味がなかったわけではない。何度も読んで擦り切れた絵本を開いては、そこに描かれた姫君たちの美しく愛らしい装いに夢中になっていた時期もある。一回だけ、母が外出をした隙にゴミ捨て場から拾ってクローゼットに隠してあったワンピース──誰かが捨てたそれを着てみたことがあった。裾がほつれていて、ボタンも所々失われていたが、くるりと回ってみると軽やかに広がるスカートが花のようで、なんだか嬉しくなったのを覚えている……それも母が予想よりずっと早く帰ってくるまでのことだったが。息子として育ててきた娘が着飾っているのを見て、母は烈火のごとく怒りを燃やした。お前のためを思ってやっているのに色気づいて……そんなことを言われた気がする。愛らしい小花柄のワンピースはもちろん、遠い昔に読み聞かせをしてくれた絵本すら破り捨て、無惨に袋に詰めると、母はそれを翌日のゴミの日に自分で捨てにいけと命じた。勝手に捨てられるよりは幾分マシだ──自分で最後のお別れを言えるのだから。そのとき、少女らしい装いへの憧れも一緒に捨ててしまった。
母の策略の甲斐があったのかは知らないが、レイブンロックに引き取られてからも習慣で男装を続けていた。動きやすい服の方が、何かと生き抜くために便利だったから、というのもある。しばらくは兄弟姉妹たちも自分のことを男だと思っていたらしい。しかし、やがて兄たちのうちの一人が勘づいた。勘づいた、というのは正確ではない。今となっては確かめる術もないが、十中八九全てを知った上で高みの見物をしていたあの男……父が、それとなく吹き込んだのだろう。暇つぶし程度の愉しみとでも思っていたに違いない。波乱を起こせなければ、子供たちを競い合わせるために買った雑種の価値がないと思ったのかもしれないが。
まんまと父の手のひらの上で踊らされた兄たちは、新しい玩具を遊び尽くすことにすぐに夢中になった。水やお湯や、そのほかよく分からない液体をかけられ、服を剥ぎ取られ……子供の無邪気な好奇心ほど恐ろしいものはない。普段抑圧されている様々な欲を解放された状態のときは、特に。今でも好き勝手に肌に触れた彼らの手の感覚を思い出しては、吐きそうになる。兄たちに触れられていない場所などないかもしれない。泣いても叫んでも、大人たちが助けに来ることはなかった。そして、理解した。母の「お前のためを思って」という言葉は、ある一面では真理であったのだと。
あの地獄のような家から逃げ出しても男のふりをし続けたのは、そのためでもあった。ジャックやライカンと出会ってからも、そうしていた。自分は演技が得意な方だったし、幸か不幸か共に暮らしたオオカミの少年は、仕事となると鋭いくせに、普段の日常生活では驚くほど鈍かった。あるいは自分を信用してくれていたからかもしれないが。ジャックの方はというと、おそらく最初から気づいていたのだろう。だが面白そうに笑った父とは違い、ジャックは口を閉ざした。晩年になってようやく、「いつかは教えてやれよ。お前が言うまであいつは気が付かないだろうから」と至極真面目な顔で言われたときには、思わず笑ってしまったものだ。
別に、ライカンにも隠すつもりはなかったのだ。何度も言おうと口を開きかけ……次の瞬間、あの兄たちの眼差しや手の感覚が蘇って言葉を奪っていった。この純朴そのもののような少年は、兄たちとは違う──そう理解はしていても、真実を伝えれば、この心地よい親友としての距離感が失われてしまうのではと常に怯え、その不安ごと胸に巻いた包帯をきつく締めていた。……だというのに。
「ふ、ははは……」
「ヒューゴ、うるさいのです。」
鳩が豆鉄砲を喰らったかのようなあの顔を思い出して笑っていると、今現在の相棒、かつて喪った妹のように愛らしい少女、ビビアンが苦言を呈した。
「ああ、すまない。」
「……あの会場で何があったのですか?あれから随分ご機嫌に見えるのです。」
「ふん、ご機嫌なものか。奴め、今の今まで俺が女だと気づいていなかったんだぞ?こっちがどれだけ気を揉んでいたか……」
笑ったり怒ったりと忙しいヒューゴをしばらく観察して、あることに気がついたビビアンはポンと手を打った。
「分かったのです!ヒューゴは、ライカンさんが人だかりから助けてくれたのが王子さまみたいで、嬉しかったのでしょう?」
「ビビアン!?」
「ヒューゴがドレスを着るなんて珍しいと思っていたのです。ライカンさんが居たからだったのですね。」
「違うぞビビアン。俺はただ、お前があの会場に仕掛けをしやすいよう、人目を惹く必要があってだな、」
「はいはい、そういうことにしておいてあげるのです。」
ヒューゴが饒舌になるときは、なにかを誤魔化そうとしているときだ。拾われてから数年が経った今、ビビアンもその癖を理解していた。同時に、この誰にも靡かぬ美しい人が、たった一人心を奪われている相手についても、よく知っている。相手がヒューゴについてどう思っているのかは分からないが──
「人目に晒されることを良しとしないのであれば、きっと勝ち目はあるのです!」
「ビビアン?何の話をしているのかね?」
「大丈夫なのです、ヒューゴ。恋愛は押したもん勝ちと小説に書いてありました!イケイケどんどんなのですよ〜」
「ビビアン・バンシー?俺の話を聞いているか?」
すっかりスイッチの入ってしまった少女に、もはやこちらの声は届いていない。ヒューゴは嘆息すると長身をソファに投げ出した。ふわりと彼女を受け止めたクッションは、白くふさふさの毛で覆われている。その感触は、『彼』にうっかり抱き締められたときのあの感覚に似ていて、自分のセーフハウスだというのに落ち着かない。むしゃくしゃしたヒューゴは、ポケットからあの夜の戦利品を取り出した──それは、小さな懐中時計だ。細かな擦り傷こそあるが、手入れが行き届いており、大切にされてきたのだとひと目でわかる。預けてきた仮面の代価として拝借してきたことに、彼は気がついただろうか。執事という仕事の都合上、時計がなくては不便だろう……困ればいいのだ、あんな朴念仁。
「素直じゃないのです、ヒューゴは。」
「うるさいぞ、ビビアン。」
次に会う日は、さして遠くはない。
鈍く輝く懐中時計に、ヒューゴはそっと唇を落とした。