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    tachibananu

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    tachibananu

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    「ずっと前から好きだった」

    別々の高校に進んだ鬼道さんと円堂くんが、お試しで交際をはじめる話

    【鬼円】おためし交際する話 久々に、元雷門中サッカー部で集まった帰りだった。帝国学園高等部の制服に身を包んだ鬼道が、円堂にそう伝えたのは。雷雷軒で散々飲み食いして、片付けを手伝い、すっかりあたりが暗くなったころ。
     円堂も、不思議には思っていたのだ。いつもは車で送迎されている鬼道が、『今日は電車を利用する。途中まで、少し遠回りして歩かないか?』と、誰にも聞こえないところで誘ってくるから。一対一で、相談したいことがあるのかもしれない。そう思って快諾したのだが。

    「す……………」
    「好きだ。友人として、ではなく」
    「そ」

     それって、なのか、そうか、なのか。あまりに驚きすぎて言葉の出し方を忘れてしまった円堂を見て、「サ行しか喋れなくなったのか?」と冗談めかしてから。鬼道はまたいつものポーカーフェイスに戻り、

    「今付き合っている人や好きな人がいないのなら、試しにでもいい。付き合ってくれないか」

    と続けた。いまだに「好きだ」と言われたことを受け止めきれていないのに、「試しに付き合う」という未知の必殺シュートを打たれて、円堂は衝撃で頭が真っ白になりながらも、どうにかこうにか、言葉をしぼり出した。

    「た、試しに……?」
    「男にでも、俺にでも。どうしても嫌悪感がある、というのなら、もちろん無理にとは言わないが」
    「そんなの」

     あるわけがない、けれど。男同士ということよりも、鬼道と付き合う、ということのほうが、円堂には大きな混乱を招いていた。これまでずっと、大切な仲間で、友人だったのだ。親友、と表現したっていい。そんな彼と、恋愛的な意味で付き合うというのは、まったく想像がつかなかった。ましてや、試しにだなんて。

    「しばらく付き合ってみて、ダメだと思ったらその時点で言ってくれればいい。どうだ?」
    「ダメったって……あのさ、試しに付き合うって、どんなことするんだ?」
    「普通の付き合いと変わらないさ。嫌なことはしない」

     円堂はうなった。普通のと言われても、交際自体したことがない。正直にそう伝えると、鬼道は涼しい顔をして「俺もだ。なにしろずいぶん片想いしていたから」とのたまったあとで、

    「まあ、任せておけばいい。今週はテスト期間で部活は休みという話だったな。明日、他に用事は?」
    「へ?ないけど」
    「それなら、放課後迎えに行く。じゃあな」

     駅と家との別れ道に到着し、鬼道はさっさと去ろうとしている。慌てて背中に声をかけた。

    「って、明日、どっか行くのか!?」
    「決まってるだろう」

     デートだ、とだけ言って、あとはもう振り返らなかった。円堂は呆然と、自分に馴染みのなさすぎるその単語を反芻して、ようやく気がついた。いつのまにか『お試し』が、決定事項になっていることに。


    ***


    『ずっと前から好きだった』

     何回も何回も、同じセリフを反芻して過ごした一日だった。円堂は上の空だった授業が終わるなり席を立ち、そそくさと教室を出た。

    (迎えに行くって言ってたけど……)

     携帯を見たが、特に連絡はない。もう来ているのだろうか?来ていなかったら待っていたほうがいいのだろうか。ほんの少しだけ、『もしかしたら冗談だったのかも』という思いもよぎったが。そういう、人の気持ちを弄ぶような冗談を言う奴ではない。それだけは確かだ。
     校舎を出て門に近づいていくと、すぐに違和感に気がついた。左に曲がろうとした生徒たちが一瞬たじろいだ様子を見せるのだ。少し先を歩いていた女子生徒二人に至っては左に曲がろうとしてくるりとUターンし、なぜか今来たばかりの校舎の方向に戻っていく。

    「ねえ、あれ、帝国の……」
    「……〇〇ちゃん好きだったよね?教えないと……」

     足早に隣を通り過ぎるときに、興奮気味の声が聞こえてきた。帝国学園の制服は目立つ上、高校サッカーで鬼道はかなりの有名人だ。いるな、と思った円堂が歩みを早めて門の左側を覗き込むと、塀に軽く背中をもたれて立っている鬼道と、近くに控える黒塗りの高級車が目に飛び込んできた。雷門の生徒たちがざわざわと、帝国学園生徒と外車を見比べながら横を通り過ぎていくなか、鬼道は素知らぬ顔をしている。

    「き…鬼道!」

     周囲からの視線を感じながら声をかけると、鬼道は顔を上げて、塀から背中を離した。

    「終わったか」
    「終わったよ。終わったけど、袴田さんまでどうしたんだよ」

     車の中を覗き込むと、丁寧な仕草で会釈をしてくるので円堂は慌てて会釈を返した。鬼道、袴田さんにはどう言ってるんだろう。気になって変な汗がにじんでくる。

    「時間がないから、送ってもらう」
    「へ?どこに?」

     スタジアム。鬼道がそう言うと、タイミングを合わせたように車の後部座席のドアが開いた。背中を手のひらで軽く押されて乗るように促され、円堂は「スタジアム!?」と叫びながら、ふかふかのシートに吸い込まれて行った。


     結局。連れて行かれたのは今にもプロサッカーの試合が始まろうというスタジアムで、案内されたのはVIP席だった。チケットは!?金は!?と焦る円堂をよそに試合が始まり、ひとたび始まってしまえば夢中で応援してしまって。時間が過ぎるのがあっという間だった。
     そして試合が終了し、稲妻町にトンボ帰りした今。昔ながらの雰囲気の喫茶店でナポリタンを食べ終え、コーラのストローをくわえながら円堂は眉間にシワをよせていた。

    「……不服そうだな。つまらなかったか?」
     コースターからアイスコーヒーを持ち上げて、鬼道が涼しい顔で言う。
    「……めちゃくちゃ面白かったよ!」

     聞くまでもないはずだ。VIP席になんて座ったことがないから、ゴール前のプレイがよく見えて、状況を忘れてはしゃいでしまった。顔を合わせるのが気まずかったはずの鬼道にも、プレイの内容について熱く語ってしまったし……いや。そもそも、鬼道とサッカーを見て話すのなんて、楽しいに決まっている。もともとそうだったのだから。
     円堂がやけくそ気味に白状すると、鬼道はふっと相好を崩した。そのやわらかい表情を見て、昨日の言葉がまた蘇る。何度も反芻して、そのたびにわからなかったこと。「………あのさ、」。コースターにコーラを戻すと、溶けかけた氷が澄んだ音を立てる。どうした?と問いかけるように、鬼道が眉をあげた。

    「おれのこと、ええと……なんで好きになったんだ?」

     思い切って尋ねてみる。ゴーグル越しだから、おそらく、ではあるが。不思議そうに見つめられる時間があった。ややあって、静かな言葉がかえってくる。

    「……なんで、とは?」
    「いや。鬼道、ふつうに、モテるだろ?中学生のときも、チョコとかめちゃくちゃもらってたし。さっきも……」

     校舎にとって返していた女子二人を思い出す。鬼道は、ずっと前から、と言っていた。それはきっと、中学のときから、ということだろう。でも中学生のころは、そんな気配はまったくなかった。ずっと近くにいたけれど。好きな人の有無や、恋愛対象が女性か男性か、という話はしたことがない。でも少なくとも、バレンタインデーに女子から大量のプレゼントをもらっても、嫌な顔ひとつせず、律儀にお返しを用意していた。一定の距離はとっていたが、親切に、優しく接していた。のに、どうして。

    「そうだな……」

     そこで言葉を区切って、アイスコーヒーを口にふくむ。じっと答えを待つ円堂の前で、ストローから唇を離して。

    「……お試しじゃなくなったら、教えてやる」

     と言うから。なにやら緊張しながら返事を待っていた円堂は憤慨して、再び眉間にシワを寄せ、音をたててコーラを飲み干したのだった。


    ***


     サッカー観戦、映画、水族館。今日は返ってきたテストが散々だったから、図書館で勉強会。もちろん散々だったのは、円堂の点数だけだったが。

     高校受験以来に訪れた市立図書館は空調がよく効いている。日曜日の夕方。老若男女で混み合っているものの、館内は静かだった。閲覧スペースから離れているせいで、人気のない四人がけの丸テーブル。向かい側に座る鬼道は、黙々と英語の参考書を解いている。部活が終わった後だというのに、よく集中できるなあ。そう思いながら円堂はあくびを噛み殺した。
     テストでできなかった問題を解説してもらって、自分で解き直しているところだった。どうにか数学だけは終わったが、気が散って他の教科を進められない。円堂はこれまで、テスト期間中や、お互いの部活の空きが重なる休日に行ったところを思い返していた。こんなに鬼道と二人きりでたくさん遊びに行ったのは初めてだった。いや、『遊びに』ではなく、『デート』と言うべきなのだろうか。でも。

    (友達と遊ぶのと、なんか違うのか? これ……)

     回数を経ても、円堂にはいまだにピンときていなかった。鬼道と一緒に出かけるのは楽しい。でも、鬼道はこれでいいんだろうか?

    「……全く集中できていないみたいだな」

     小さな声で鬼道がつぶやいてはじめて、彼を凝視していたことに気がついた。ゴーグル越しに、おそらく、視線が合う。変なところを見咎められたような気がしてどきりとした。

    「う……せっかく教えてもらったのに、悪い」
    「それはいいさ。テスト期間に連れ回した俺にも責任があるし」

     鬼道はそう言うが、いつものテスト期間だって、毎日勉強しているわけじゃない。大抵ついボールを触ってしまって、前日に慌ててテスト範囲をおさらいするくらい。今回特に点数が悪かったのは、鬼道はなんで告白なんてしてきたんだろう。今までだって特別信頼していた仲間だったのに、ここから付き合うってどうすればいいんだ? ということを悶々と考えてしまい、集中できなかったせいだ。まさに今のような状態である。

    「わからないところがあって進まないなら、説明するが」
    「……………」

     円堂はためらってから、思い切って、「付き合うってこれでいいのか?」と尋ねた。鬼道が一度動きを止めてから、ゆっくりと参考書を閉じる。ほんの短い間だ。瞬きをするほどの。いつもはなんてことのない、その沈黙に耐えられなかった。

    「いや、一緒にあちこち行くのはすっげー楽しいんだけど、これって友達じゃ駄目なのかなって……」

     言い終わる前に、ひやりと氷を飲み込んだような感覚があった。よくないことを言ってしまったと気付いたが、すでにほとんど口から出てしまったあとだった。

    「………………」

     それを聞いて、鬼道は沈黙したまま、テーブルに置かれていた円堂の右手を取った。

     自分の失言に焦っていたせいもあり、引っ張られるまま腕を伸ばす。鬼道はそのまま、円堂の手の甲に、自分の唇を寄せて。

     やわらかい感触。円堂は「わあ!?」と叫んで、手を引っ込めると同時にテーブルから立ち上がった。ここが図書館だということはすぐに思い出せたが、自分を見上げる鬼道の顔を見て、そんなことを気にしている場合でもなくなった。

    「……フライングだったな。悪かった」

     鬼道は何も気にしていないようなそぶりで、口の端をあげた。目を隠している彼はただでさえ感情が読み取りづらい。第三者から見れば、まったくいつもと変わらずに見えるだろう。でも円堂には、円堂だけにはわかっていた。自分が、彼を傷つけたということが。

     その日。お試しで『付き合って』から、初めて、次の約束をせずに、二人は解散したのだった。


    ***


      電車の窓から見る空は抜けるように青い。ここしばらくは晴天が続いている。思い切りサッカーができる、円堂が一番好きな天気だ。それなのに彼の口から飛び出したのは、重たく深いため息だった。

     あの日から数日が経過している。次の予定も決まっていないし、メッセージのやり取りも途絶えていた。気にするようなことじゃない。ただの友達だったら。あんなふうに別れなければ。

     原因は、さすがの円堂も分かっていた。

    (謝んなきゃな……)

     あのときの少し寂しそうな表情が忘れられない。でもなんて言えば良いんだろう?変なこと聞いてごめん?びっくりして手を引っ込めてごめん?友達との違いが分かってなくてごめん?

     いくら考えても、円堂にはどれもしっくり来ないのだった。それどころか、かえって傷つけてしまうんじゃないだろうかという予感があった。だって、と思う。

     鬼道はほんとに、俺のことが好きだったんだ。でもたぶん、俺がよく分かってなかったから、友達のときと、接し方を変えずにいてくれたのに。

    「はあ〜〜……」

     空いた車内は空調がよく効いている。円堂はもう一度、腹の底から重い空気を吐き出した。ちっとも気が晴れることはなかったが。

     日曜日。部活がある日だった。円堂は一人、遠いが品揃えの豊富なスポーツショップに向けて買い出しに出ていた。高校のサッカー部にマネージャーがいないわけではない。こんなにモヤモヤした気持ちで練習に身が入るとは思えず、自らその役割を買って出たのだ。スポーツショップの場所が帝国学園に近いのも理由の一つだった。スポーツショップでばったり、なんて、そんな偶然はなかなかないだろうけど。

     中学のときは良かったな、なんてことを、卒業以来初めて思う。学校に行けばいつでも会えた。喧嘩なんてろくにしたことはなかったけど。したとしても、部活で一緒にボールを蹴っているうちに、きっとすぐ仲直りできただろう。

     電車を降りて、記憶をたよりにスポーツショップへと足を向ける。一度行ったことがあったから、道は分かると思っていた。だが目印に覚えていた本屋がいくら探しても見当たらない。もしかしたら別の店に変わったのかもしれないと察したときには、自分がどのあたりにいるのかよく分からなくなっていた。ようは迷子だ。

     誰かに聞こうかな、と、きょろきょろしていたときだ。「円堂?」と後ろから声がかけられて、自分でも驚くくらい素早く振り向くと。

    「……久しぶりだな」

     円堂の勢いに目を瞬かせながらも、静かに再会の挨拶をするのは帝国学園GK、源田幸次郎だった。

    「わっ……源田!久しぶりだなあ、元気だったか?なんでここに……って、ここ、帝国の近くだっけ」

     思い描いていた人物ではなかったものの、懐かしさと、緊張が溶けた反動で円堂は破顔した。直接話す機会は少なかったが、何度も対戦の機会はあったし、雷門中の卒業試合にも駆けつけてくれた相手だ。嬉しくないわけがない。

    「変わりない。そっちは何か用事か?俺は買い物があって……」

     源田が掲げた袋を見て、円堂は「あー!」と大声を出してしまった。まさに探していたショップのロゴが刻印されている。また驚いて動きを止めた源田に、

    「俺、そこのスポーツショップに買い出しに来たんだけど、道に迷っちゃってさ。場所、教えてくれないか?」

    と言い募ると、彼は安堵したように袋を持った手を下げた。

    「そういうことか。なら案内しよう」
    「え、いいのか?買ってきたばっかなんだろ」
    「構わない。すぐそこだから」

     そう言って、早くも背中を向けて歩き出している。円堂は源田の親切に甘えることにした。足を早めて隣に並ぶ。源田は寡黙な雰囲気通り自分から多くを話すタイプではないようだったが、円堂が話題を振ると、落ち着いた声音で応じている。と言ってもスポーツショップに着くまでには5分もかからず、「もっとキーパーの話したかったな」と残念がると、源田は表情をやわらげた。

    「良かったら今度練習に顔を出してくれ。今日は午前中までだったから、次の機会にでも」
    「あっ……!あのさ、鬼道は」
    「?」
    「鬼道は元気にしてる……よな」

     一瞬、怪訝そうに首を傾げたものの、「もちろん」とすぐに頷いた。

    「最近は前にも増して忙しそうだが。今日も午後からイタリア語のレッスンがあると言って、急いで帰って行ったぞ」
    「イタリア語?」
    「高校卒業後、イタリアに行くだろう?今から準備してるそうだ」

     すごい奴だよ。源田はどこか誇らしそうだった。だが円堂は「イタリア」と呟いたきり、次の言葉をつむげなかった。

     びっくりして、驚いて。頭の中が真っ白になってしまって。

    「円堂?」

     円堂の反応を見て、源田は表情を曇らせた。

    「……まだ聞いていなかったか?」
    「あ。う、うん」
    「すまない。この間、雷門OBの集まりで伝えてくると言っていたから、てっきり」

     申し訳なさそうに眉を下げる源田を見て、円堂は首を横に振ることしかできなかった。高校卒業後、イタリアに。サッカーのためだろう。それは本当にすごいことだ。応援したい。負けていられない。いろいろな想いが去来する。それと同時に、円堂はようやく、すべてのことが腑に落ちていた。それで。鬼道はそれで、自分に告白してきたんだ。

     通う学校が違うだけで、会う機会は激減する。住む国が変わったら?数ヶ月に一回?一年に一回?もっと、かもしれない。特別に、会う理由がなかったら。

    「おい、大丈夫か?」

     顔を覗き込まれてハッとする。大丈夫、と言ってから、円堂はたどたどしく続けた。

    「あの、最近鬼道とケンカ……したっていうか。俺が悪いんだけど、もし、このまま……」

     目を丸くしたあとで、源田はほっとしたようだった。ただならぬ様子が、子供じみた理由からだと認識したせいだろう。

    「……なんだ、そんな心配か?ケンカ別れする程度の仲じゃないはずだ」

     肩をすくめて、謝れば良いだけだと正論を口にする。もう少しだけ背景が複雑だとはいえ、本当に、その通りでしかない。円堂は頷いて、苦笑いを浮かべようとした。でも、できなかった。源田が続けたセリフに、ふいをつかれて。

    「少なくとも、鬼道はいつも笑ってるぞ」
    「え?」
    「お前の話をしてるとき。楽しそうだ」
    「…………」

     喉がつまる。胸が苦しい。だってそんなこと知らなかった。

     俺だって、と思う。俺だって、鬼道のことを話すとき、絶対いつも笑ってるのに。あんなこと聞いておいて、拒絶して、傷つけて。

    「………俺、」

     鬼道が好きだ。恋愛かどうかなんていまだに分からないけど。あんなふうな、寂しい顔をさせたくない。笑っててほしい。イタリアにいたって。日本にいたって。

     円堂は歯を食いしばって、顔を上げた。

    「俺、今から謝りに行ってくる……!」
    「今?買い出しは……おい!鬼道は今日……」
    「あ、源田、ありがとう!また今度な!」

     案内されたスポーツショップに背を向けて、円堂は走り出した。源田の言葉を、最後まで聞くこともなく。


     ***


     琥珀色の液体が注がれたティーカップを口元に近づけると、芳しい香気が鼻先をくすぐった。休憩を挟むとはいえ、3時間に及ぶ筆記と会話のレッスン後だ。当然身体のほうもだが、慣れない言語でのコミュニケーションで気疲れしている。リラックス効果のある紅茶を用意してくれた袴田らしい気遣いに、鬼道はほっと息を吐いた。

     図書館での一件以来、円堂には連絡できていなかった。忙しい、ことはもちろんだが、実際少し落ち込んでいたのだ。

    (……嫌なことはしない、と言ったのにな)

     自嘲気味の笑いが口元に浮かんだ。驚いて、困惑していた表情を思い出す。円堂が、自分の持ち出した「お試し交際」にずっと混乱していたことは分かっていた。それでも、時折我に返ったように難しい顔になること以外は、無邪気に楽しそうにしているものだから。……こちらの気も知らないで。

     ずっと、もっと近づきたいと、触れてみたいと思っていた。だからあのとき、焦ったせいもあるけれど。つい、手が、出てしまって。

     いつから友情で収まらなくなったのか、鬼道はよく覚えていない。フットボールフロンティアのころから?エイリア学園と戦っていたころから?それとも世界一になったころからだろうか。好きだった。サッカーにかける想いも、諦めない強い気持ちも。だがそれが恋だと自覚したのは、いつも人に囲まれている彼の笑顔を、一番近くで見ていたいと思うようになったことだ。

     告白するつもりはなかった。イタリアに行くことを決めるまでは。

     どうせ、とヤケクソになったわけではない。ないが、玉砕覚悟で押してみようか、という気になったのは確かだった。久々に会ったOB会で、円堂は相変わらずだった。他のメンバーが振った恋愛の話には苦笑いを浮かべるだけで。だが誰にでも好かれる男だ。今はサッカーに夢中で、そんなことを考える余裕がなかったとしても、遠くない将来、特別な誰かが隣に立つことになるだろう。そのとき、すぐにおめでとうと言える自信がなかった。それくらいなら。

     はあ、とため息を吐いて、カップをソーサーに戻す。なんにしろ、そろそろ連絡をしなければ。そう思って、デスクに置いたままの携帯を取ろうと、鬼道は立ち上がった。

    「………ん」

     着信があったことを知らせる光が点滅している。誰からの連絡か確認しようとして、目を見開いた。円堂からだ。メールも届いている。先日のことを思い出し、わずかにためらった後開封すると、『家の前で待ってる』という短い文章だった。

    「は?」

     思わず声が漏れた。意味が分からない。唐突すぎて。だが一拍置いた後で、鬼道は部屋を飛び出した。長い廊下を玄関に向けて走り抜ける。メールは2時間以上前に届いていた。状況は不明だが、円堂が『家の前で待ってる』と言うのなら、待っているはずだ。絶対に。

     果たして、門から家をぐるりと囲む高い外壁のそば、空になったペットボトルを摘んでぐったりと首をうなだれ、しゃがみ込んでいる円堂の姿があった。すでに日は傾いているが今日はよく晴れていて暑かった。まさか熱中症に、と慌てて駆け寄る。足音に気づいた円堂が顔を上げた。

    「あっ、鬼道……急にごめんな。今日勉強だって聞いてたのに、っへあ!?」
    「体調は!?頭痛や吐き気は」
    「な、ないない!ちょっとうとうとしてただけで、あの」

     許可を取らずに彼のバンダナを上げて、額に手のひらを当てる。汗で湿っていてじんわりと熱いが、熱があるというほどではない。続けて、目の下瞼を引っ張って充血をチェックする。問題なし。頬が赤いが、自覚症状がないのなら長時間外にいて日焼けしたせいかもしれない。ただペットボトルがいつ空になったのかは知らないが軽い脱水のおそれはある。鬼道は冷静に考えながら、一方で、苛立ちを覚えていた。

    「スポーツ選手なら熱中症の怖さは知っているだろう。この天気で長時間、外で待つなんて何を考えてるんだ」
    「う……」

     円堂は見るからにしおしおとしおれて、「ごめん」と一言呟いた。申し開きひとつしない。その様子に、鬼道は眉間に込めていた力を緩めた。円堂のことだ。電話やメールではなく、直接話さなければならないと思い立ち、取るものも取らずに来てしまったのだろう。そして今そんな話題は、仮交際の件についてしか考えられない。

    「………とにかく、入ってくれ。何か飲み物を用意する」

     鬼道は立ち上がりながら、思った。円堂の話を、うろたえたりせず、静かに受け止めたい。たとえ、今日で長年の片想いに終止符が打たれるとしても。


    「イタリア行くんだな」

     鬼道の自室だった。長ソファの右側に腰掛け、塩をひとつまみ加えたレモネードを一気に2杯飲み干したあと、円堂が口にしたのはそんな言葉だった。鬼道は少し目を丸くしたあとで、「……帝国の誰かに聞いたのか?」と尋ねた。

    「今日、源田にばったり会って……あ、でも、俺がもう知ってると思ってたからで」
    「分かってる、大丈夫だ」

     OB会で話すのをやめたのは、単に、高校卒業後に関する話題が出なかったせいだ。皆今の高校生活についてで盛り上がっていたから、まだ先の話で水を差すことはない、と考えて。円堂にも切り出せなかった理由は、どう転ぶかわからなくて。仮交際に対して、情を誘うような結果になるのは避けたかった。

    「……悪かった。交際を申し出ておいて、自分から話さなくて」
    「びっくりしたけどさ、いいよ。言いづらかったんだろ、なんとなく」

     円堂は眉を下げて笑ってみせてから、「それでさ」と、緊張を含んだ声を出した。ここからが本題ということだろう。鬼道が、気づかれないように深く息を吸うと。

    「ごめん!」
    「…………………」
    「こないだ、大げさに振り払ったり……いや、そもそもずっと、よくわかんないまま、一緒に出かけたりてて。やっぱり、このままだとよくないと思って、それで俺」

     大丈夫。大丈夫だ。いい友人に戻るだけ。ベストではなかったかもしれないが、チャレンジしただけ上出来だ。顔色を変えないように、静かに、続きを待っていたのに。

    「これからは、もっとちゃんと付き合うようにするから!」

     あまりに予想外のことを言われて、思い切りぽかんとした表情を浮かべてしまった。もっと?ちゃんと?付き合うようにする?

    「正直さ、友達のときとの違い、いまだに分かってないんだけど。……鬼道といるの楽しいし」

     鬼道が笑ってると、俺、安心するんだよな。そう言って、円堂はふにゃふにゃと笑った。全身の力が抜ける。まるでこっちが口説かれているようだ。隙だらけのその顔を見ていると、また、不用意に触れてしまいそうで。

    「……ちゃんと、というのは」
    「ん?」
    「これまでとは違うのか?」

     つい、意地の悪いことを聞いてしまった。すると円堂は、またもや予想に反した行動をとった。きっと眉を凛々しくつりあげ、隣に座る鬼道の両肩をガシッと掴んだのだ。

    「!?」
    「よ……よし、いくぞ!鬼道!」

     顔が近づいてくる。まさか、と思ったとき、頬に冷たい感触が触れた。すぐに離れる。円堂は首まで真っ赤になって、引いたはずの汗を滲ませていた。

    「ど、ど、どうだ!?」

     肩を掴まれたまま、鬼道はしばらく唖然としていた。それからすぐに、耐えきれずに吹き出してしまう。円堂が「え!?なんで笑うんだよ〜」と、情けない声を出すので。鬼道は相手の髪の毛をそっと撫でた。

    「こういうことも……解禁していいと?」
    「う、その……じわじわ」
    「じわじわ?」
    「少しずつ……」

     そう言いながら、完全にキャパオーバーの様子で目を回している。先は長そうだ。でもずっと、勝算は高まった。

     鬼道はぎゅっと目をつぶった円堂の額にキスして、優しく肩を抱き寄せた。



    おわり
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