【吹染】映画館で映画どころではなくなっちゃう話連休の中日、駅の改札前は酷く混み合っている。この状況で待ち人を探すのは骨が折れそうなものだったが、存外すぐに見つかった。髪色が特徴的なうえ、女性三人にナンパされていたせいだ。在学中からモテる奴だと知ってはいたが、こんなところで声をかけられるレベルなのかと、染岡は嘆息した。彼ならうまくあしらうだろうが、相手は多人数だ。囲まれて困っているかもしれない。間に入るかと近づくと、
「ごめんね。僕、今日デートなんだ」
穏やかで優しい口調の、そんなセリフが耳に飛び込んできた。続いて女性たちの残念そうな悲鳴。思わず足を止める。これで出て行ったら、自分がその相手ということがわかってしまうではないか。だが彼ーー吹雪士郎は、染岡を視界にとらえた途端、パッと花が咲くように表情を綻ばせた。
「先生!」
女性たちの訝しげな視線が染岡に突き刺さる。デートが始まる前から、『終わった』と染岡は思った。いろいろな意味で。
「先生はやめろって……」
逃げるようにその場を去ってから、染岡が零した言葉に吹雪は目を瞬かせた。そしてゆっくりと頬を上気させて、
「そっか。僕たち、付き合ってるもんね。なんて呼べばいい?竜吾さん?竜吾くん、とかかな」
と、うれしそうに微笑んだ。違う。
「社会的にヤバいからだっての……学校の関係者がどこにいるかわかんねえだろうが」
「ええ?卒業してるんだし、なんにも問題ないよ。それで、どっちがいい?竜吾さんと、竜吾くん」
「…………………名字で」
続く吹雪のブーイングを聞き流して、ほら、店、この辺なんだろ?と染岡は話を逸らした。
『これからデートしたり、手をつないだりもいっぱいしようね』という言葉の通り、今日は吹雪の提案で二人、こうして出掛けている。つい先日のことだ。ゲイの発展場で、『挿入以外の全部』をされてぐずぐずになった染岡が、一応、付き合うことに了承したのは。
酔っていたが、意識ははっきりしていた。押しの強さに流された面はあるものの、抵抗できない状態だったわけではない。結局のところ吹雪を受け入れたのは、染岡自身の意思である。それなのに、染岡が“一応”という枕言葉をつけるのは、単純な話。思い出すとめちゃくちゃ、恥ずかしくなるからである。
元教え子、当然年下だ。経験豊富なことは察していたが、一晩中愛を囁きながらあんなことやそんなことをされて、しっかり気持ちよくなってしまい。最終的には我を忘れて、なんだか、もう、ものすごいことに………
「……くん、そめおかくん?……先生!」
「わ!?あ?ああ、な、なんだ?」
「着いたよ。どうしたの?ぼーっとして」
こじんまりとした、可愛らしい洋食屋の前だった。きょとんとしている吹雪はどこか幼い雰囲気で、先ほど思い返していたシーンの彼とは、恐ろしいくらいギャップがある。
「いや、別に……」
染岡は脳裏に焼きついた光景を振り払い、ベルを鳴らしながら店の扉を開けた。
狭い店内には、染岡たち以外、男女のカップルや、女性のグループしかいない。人気店のようで、外にはちらほらと行列ができ始めている。きちんと予約を取っていた吹雪はメニューを眺めながら、
「せ……染岡くんは、こういう雰囲気、そんなに好きじゃないかも?と思ったんだけど、初デートだからいいかなって」
とはにかんだ。慣れていそうな吹雪だったが、今までまともに付き合ったことはないらしい。ネットで頑張って店を探したというので、染岡はうっかりときめいたのを咳払いでごまかした。正直に言うと可愛い、と思う。連れてくる相手が自分だということを除いては。
「えーと、大学はどうだ?一年は必修単位が多いんだから、サッカーだけじゃなくて勉強もちゃんとしろよ」
「もう、すぐ先生っぽいこと言って……」
照れ隠しで振った話題に少しむくれた様子の吹雪だったが、すぐ気を取り直して、大学生活について話し始めた。どうやらうまくいっているらしい。高校のときは、他の生徒との間に壁を作っている素振りがあった。どこか危うい雰囲気だったが、今はいろいろと吹っ切れたらしい。染岡はひそかに胸を撫で下ろした。
一番人気だというハンバーグセットは、味もボリュームもなかなかだった。レジ前で揉めるのが嫌だったので、吹雪がトイレに行っている間に会計を済ませておく。電話口で『僕がエスコートするからね!』と張り切っていたから、費用の負担もするつもりなのだろうが。年長者なのだから、そうそう舐められてばかりもいられない。戻ってきた吹雪がニコニコ話しかけてくるのに相槌を打ちながら、染岡は食後のコーヒーを飲み干した。
「えっ!もう払っちゃったの!?」
案の定、レジ前で財布を出そうとする吹雪の首根っこを掴んで店を出ると、驚いて目を丸くしている。「今日は初めてだから全部出そうと思ってたのに……」としょげているので笑ってしまった。
「映画は予約んときに払ってくれてんだろ?トントンでいいだろうが」
「でも僕、彼氏だし」
「どっちも男なんだから彼氏もクソもねえっての」
むむ……と眉間にシワを寄せている吹雪を一蹴して、染岡はさっさと映画館に足を向けた。食事をして映画、というのは定番中の定番だが、ちゃんとした交際をすっ飛ばして『ああいうところ』に出入りしていた吹雪にはちょうどいいだろう。そんなふうに、軽く考えていた。
リバイバル上映、というやつらしい。過去の名作を映画館で見られる形式の。若い奴が選ぶには渋いな、と思ったが、「新作で、きみが好きそうなのがなかったんだよね」とのこと。あまりにも有名なサスペンスものの映画だった。染岡も一度は見たはずだったが、あまり細かい記憶はない。
目玉のアニメ映画に人を取られたせいか、染岡たちが入ったシアターは空いていた。特に、吹雪が予約していた一番後方の席は前も左右もガラガラで、同じ列には通路を挟んでしか人の姿がない。座ってスマホの設定を変え、しばらくするとシアター内のあかりが落ちた。自然と意識がスクリーンに向く。
往年の名作だ。映像に古さは感じるものの、今見ても惹き込まれる。見覚えがあるのはごく一部のシーンだけで、大体の筋を忘れており、初めて見る映画のようにハラハラした。
吹雪も楽しめているだろうか?ふと隣が気になってちらりと見る。スクリーンの明滅に照らされた真剣な横顔。自分に合わせたせいで退屈な思いをしていないかと思ったが、杞憂だったようだ。また視線を戻そうとしたとき、自分の膝に乗せていた手に、吹雪が手を重ねてきた。前を向いたままで、あまりにも自然だった。
「……………」
視線はスクリーンに戻したものの、途端に、映画に集中できなくなってくる。別にこのくらい、付き合っていれば普通のことだ。幸い、見られるような位置に他人もいない。今は染岡の手の甲に、吹雪が手のひらを置いているだけ。今日はつい照れて子ども扱いしてしまったから、握り返したりしたほうがいいだろうか?でも汗かきそうだな。って、俺は中学生か?などと、あれこれ思考を巡らせていると。
吹雪が指の腹で、染岡の指の間、皮膚がうすくなっているところをやさしく撫でた。それだけでぞわりと産毛が逆立つ。これまで意識して触ったことも、触られたこともない。未知の感覚に戸惑っているうちに、指がさらにゆっくりと動く。先からたどり、4本の指でそっと根本をなぞられて、息をのんだ。顔に出る、と咄嗟に口元を押さえて反対側に背けたが、反応していることにかわりない。すりすり、と掠められると呼吸が荒くなる。手で、手を触られているだけなのに。あの夜の記憶が、また蘇ってくる。触られていないところはない、というくらい全身に触れられた。性感帯ではないところまで、こんな刺激を感じるのかと。まるで自分の身体がコントロールできなかった。激しい羞恥に襲われるのに、夜一人になると、何度も思い出してしまう。あのときの。
「…………っ」
内側に軽く爪を立てられて声が漏れそうになる。性器に触れられているわけでもない。手、だぞ、手!自分に対して怒りにも似た感情がわいてくる。なのに与えられる刺激を素直に追ってしまい、もう映画どころではなかった。
エンドロールが流れ始めると、ようやく吹雪が手を離した。染岡は息を吐いて、人のいない前の席に両腕と額をつけた。明るくなる前に前屈みになって、呼吸を整える必要があったのだ。吹雪があやすように背中に手を置いたが、それだけでびくりと肩が震える。ごく小さな笑い声が聞こえた。
「……大丈夫?」
「…………」
横目で睨むが、まったく意に介する様子もない。うっとりと微笑んで、「ごめんね。でも、ほとんど手にしか触ってないよ」とささやいた。それは本当のことだった。ちらほらと席を立つ客が現れ始める。エンドロールは佳境に入っている。
「ねえ、このあと……」
吹雪が耳元に唇を近づけて、吐息を流し込むように言った。「僕の家に来ない?」。
初デートって言っておいて、何考えてんだ。と叱りたかったけれど。ぐにゃぐにゃになった今、どんなセリフを吐いたとて無駄だろう。染岡は目を閉じて、少しでも暗い時間が長引くことを祈った。