新月の夜。あかりの消えた煉瓦造りの街。袋小路に高貴な獲物が追い詰められていた。身の毛もよだつ唸り声をあげて、四つ足の黒い獣がしきりに飛びかかろうとしている。奇妙な獣だった。シルエットは猫に似ているが遥かに大きく筋肉質の体躯。威嚇する背中が大きく盛り上がり鋭く長い牙が一対生えていた。瞳は怒りと狂気に染まって理性の欠片も感じられず、太い銀の首輪、銀の口輪、四肢にはめられた銀の鉄球で動きを制限されてもなお暴れ狂う。首輪から伸びる鎖を手にした人物は、おもむろに獣の横顔を蹴り飛ばした。ギャイン、という悲鳴とともに地面に倒れる。
「うっせえな、今いいとこだから黙れって」
よだれを流しながらも、獣がわずかに大人しくなった。グリーンの長いコートを身にまとった男だ。腿のホルスターから抜いた銀の銃を手にしている。清い輝きを放つその銃はハンターの証だ。ハンターといえば聖協会に連なる尊い職業のひとつであるはずだったが、モヒカンという髪型のせいか、ニヤニヤと口端をつりあげた表情のせいか、とても聖職者に準ずる立場の人間には見えなかった。
「その獣人……狂化の呪いをかけているのか。残酷なことを」
追い詰められたはずの獲物は、形のいい眉をひそめて言った。貴族のような整った身なりをしているが、目の全体を覆う風変わりな近視鏡、端のぼろぼろになった紫のマントがアンバランスさを醸し出している。喋ったときに、白く鋭い犬歯がちらりと光った。歳のころは10代半ば。まだ少年らしさが残る。
獲物の言葉にハンターは一瞬真顔になったあと、すぐに嘲笑を頬に貼り付けた。
「余裕だなぁ。その余裕があるうちに、一緒に来てくんね?」
「嫌だと言ったら?」
問いには答えず、銀の銃を正面に構え、銃口を斜め下に。乾いた音が路地に響いた。追い詰められた少年の右足にぽっかりと黒い穴が開く。そこからほろほろと身体が崩れていった。かと思えば、崩れた身体から無数のコウモリが羽ばたき、ひといきにハンターの視界を覆う。
「!? チッ……!」
手で顔を庇いながら、もう一発銃弾を放つ。しかしコウモリが飛び去ったあとには、獲物の姿は幻のように消え失せていた。
闇を裂く風切り音は不規則で、徐々に弱々しくなっている。コウモリに似た飛膜の翼だ。右肩甲骨との繋ぎ目に受けた銃弾の跡を、血がこぼれないようにマントの端で抑えながら飛行している。歯を食いしばりながら羽根を動かしているものの、高度は下がっていくばかりだ。
「まともなハンターには見えなかったが……案外腕は確かじゃないか」
ぐらりと身体が右に傾き、落下していく。ぼやける少年の視界にゴミ置き場が映った。ラッキーなのかアンラッキーなのか、判断が分かれるな。そう呟いたのか、心の中で思ったのか。最後に覚えているのは、「危ない!!」という、誰かの大きな声だった。
***
歌が聞こえる。幼く、たどたどしく、いとおしいしらべだった。遠い昔に、花が咲く美しい丘で、聞いたことのあるような。
こじんまりとした、質素で暖かい雰囲気の一室。花の飾られた出窓からは、朝の光がさんさんと差し込んでいる。ベッドの上に横たわっていた彼は、薄目を開けようとして、即座に手で瞼を覆った。慌てた様子で上半身を起こし、ベッドの上を片方の手で探る。ベッド横、水差しの隣にある近視鏡に触れて、安堵のため息とともにそれを装着した。
「……………?」
訝しげな顔で部屋の中を見渡していると、調子の外れた鼻歌、バタバタという足音と共に、大きく扉が開かれた。
「よっ、まだ寝て……あ!? 起きてる!?」
少年だった。身なりからして平民だろう。丸い大きな目、大きな口をめいいっぱい開いて、あからさまに驚いている。
「だ、大丈夫か!? いや、大丈夫じゃないよな。えーと、どっか痛いところは? 腹減ってないか? あとは、えっと」
「……………」
「あっ、もしかして喋れない? 聞こえなかったりするかな。紙とペン……」
しばらく黙って見ていたが。心配そうに、しきりに話しかけてくる様子に、彼はそっと肩に入れていた力を抜いた。「……問題ない」。ひとこと呟くと、ぱあっと平民の子の表情が輝いた。ベッドに近づいて、当然のように横の椅子に腰掛ける。
「良かった! でもさ。無理するなよ。なにしろ三日も寝てたんだぜ」
「三日………」
表情が曇る。それを体調の悪さととらえたのか、少年がまた心配そうに気遣おうとするので、彼は手のひらを向けてそれを制した。
「大丈夫だ。……きみが助けてくれたのか? 礼を言う」
「そんなの、いいって! ……あっ、いいデス。お前……あなた? 貴族……です、よね? ていうか、もしかして……」
使い慣れない敬語に戸惑っていた少年が突然難しい顔をして、声をひそめた。にわかに空気が緊張をはらむ。少年は秘密を打ち明けるようにささやいた。
「天使、だったりする?」
「………は?」
予想外の言葉だったのだろう。気の抜けた返事をした彼に、「だってさ、あの日、空から落ちてきたんだ。ちらっとだけど、羽根も見えて……あ、誰にも言ってないぜ! 父ちゃん母ちゃんにも」と続けた。黒い瞳がキラキラと期待に満ちているのを見て、彼は苦笑いを浮かべる。
「違う」
「えっ! でも、羽根が……じゃあ、もしかして悪魔?」
「……だったらどうする?」
少し考えたあとで、少年はあっさりと首を横に振った。
「どうもしないよ」
「? なぜ」
「俺の知ってる悪魔は、人間にお礼言ったりしないからさ!」
「……………」
「あ、腹減っただろ? 起きたって母ちゃんに言ってくるな! そういや俺まもるっていうんだ。円堂守。お前……きみ? あなた? は?」
次々にまくしたてられて、呆気に取られた様子だったが。そのうち彼の口元にほんのりと笑みが浮かんだ。
「敬語でなくて構わない。……鬼道」
「え?」
「鬼道有人だ」
きどうゆうと、と口の中で確かめるようにつぶやいてから。円堂という少年は、まるで今日の日差しのように、明るく笑ってみせたのだった。