🦜夢もどき「あぁ、もう無理だ!どぉせ俺なんて、売れない俳優だよう」
店のカウンターで、ホセ・キャリオカはそう愚痴を漏らした。どうやら飲みすぎたのか悪い方向に出来上がっているらしい、人目もはばからずテーブルに突っ伏し、紅潮した頬でグラスを煽り、
「マスター、もう一杯!」
とオーダーする彼だが、その中身が水なことに彼はいつ気がつくだろうか。
「ミスター、そのくらいにしておいた方が良いですよ。明日もお仕事、あるんでしょう?」
見習いだろう、小さな少年がカウンター越しにホセに問う。
「そう、劇場の「スタッフ」としてね」
未練がましく言うホセに、少年はため息をついた。
「それも立派なお仕事です。せっかく南米の方からやってきたっていうのに、こんなことで燻ってる暇無いですよ」
正論を言う少年に、ぐうと押し黙るホセ。そんなことは自分が何よりわかっているのだから情けない。
正直、全くもって少年の言う通りであった。まだ若いホセは夢見てこの地まで来たものの、結局鳴かず飛ばずの日々を過ごしている。これで世間を無意味に憎めたらまだ良いものの、変なところでお人好しの彼はどうにもこうにもできずに酒に逃げていた、という訳だ。
「そうはいうけどさ……」
と、突如そこに鳴るベルの音。
チュベローズの香りがふ、と巻き起こる。何事かと思って振り向けば、ひとり、またひとりと口を閉ざして──いや違う、ぽかんと口を開けたまま──釘で打たれたかのように、入ってきた女から目を離せなくなっていた。
ワインレッドのシンプルなホルターネックドレス。パーマのかかったショートボブと、その黒髪から覗く大ぶりのイヤリング。切れ長の目に金の星が瞬き、ちらと除く腿は陶器のよう。そしてなにより、真っ赤に染った厚い唇が一際彼女の美しさを立てていた。
向けられた目線に彼女は微笑む。きゅう、と細めた目が、蠱惑的にこちらを射通す。
その仕草に、その場に居た全員が魅了されていた。誰かが唾を嚥下する音が聞こえるほどに──もちろんホセすらも。とにかく、眩いほどの美人がそこにいたという訳だ。
「ね、とびきり強いのを頂戴」
それから灰皿も。そう言うと、彼女は取り出した煙草に火をつけ、細い指でカウンターテーブルをなぞった。渡されたそれに礼を伝え、渡された酒をくるくる揺らす。
周りの客は皆、ちらちらと熱い視線を送り、そしてその合間に隣を覗く。一体誰が初めに声をかけるのか、と。勝手なことに、男共はお互いを牽制しあっていた。彼女は誰のものでもないというのに!
しかし、そんな男どもの暗黙の了解は1人の男によって打ち破られた。酒に酔っていたホセだ。まだ若い彼は突如現れた美の化身にどぎまぎしながら近づき、話しかける。彼は後に、役者のオーディションよりも緊張した、と話した。
「やあ、そこの……お嬢さん。いや違う、レディ。今日の星空は美しい。あー、ほら、まるで君みたいに──」
「今日は曇りよ」
「…その、もしかしたら星たちも、君の美しさに…そう、嫉妬して隠れてしまったのかもしれないね」
「ウソ。今日は晴れてるわ」
「…………ええと、君の…星のような…」
そこまで言ったところで、彼女はぷっ、と吹き出した。
「ふ、ふふ。ねえ、いい加減星から離れたら?ポエマーになれるわよ──売れない、が頭に着くけれど」
「ち、違う!ただ、君が美しいってことを伝えたかっただけで、その……ほんとに驚いたんだ、天から落ちてきたのかと思って」
「あら、星以外にもカードがあったのね。でも何かに例える癖はそのままかしら?
……ヤダ、そんなむくれないでよ。案外可愛い人なのね、アナタ」
そういって、彼女はかろかろと笑った。
からかわれている。しかしなぜだろう、不思議と悪い気がしない。ホセにも男のプライドたるものはあったはずだが、腹が立つどころか彼女にのめり込んでいった。それはくだらないプライドを持たないゆえか、単に彼女の美貌ゆえか。周りの男どもは非難がましくじっとりと見てきていたが──それに気づいているのかいないのか──彼女はしっとりとした白い手を、ホセに重ねる。
「それで?オウムちゃん、アナタは私をどうしたいの?」
「どう、したいって」
「アナタの思うがままにしたい?それとも振り回されたい?ふふ、もしかしてなにか奢ってくれるのかしら。もしくは──アナタが本気で──一緒に夜を過ごしたいって言うなら──答えはノーね」
そう言いきった途端、彼女は煙をふうっとホセの顔に吹きかけた。
「残念だけど、アナタにアタシはまだ勿体ないわ」
少し悪戯めいて言われたその言葉に面食らい、言われた言葉の意味をじわじわと理解する。と同時に、顔が火照っていくのを感じた。
そういうウブなところよ、オウムちゃん。そう言いながら彼女は1口酒を飲み、またかろかろと笑う。美しさも、残酷さすらも孕んでいる笑みだった。ホセは恥ずかしさからしばらく口をもごもごとさせたが、何も言い出すことなく黙りこくってしまった。
それを見て、彼女はきょとんと首を小さく傾げる。
「あら、珍しい」
「……なにが?」
「私がこう言うとね。殿方は大体かっと怒るか、しつこく粘るかするのよ。ね、アナタはしないのね」
今度はホセがきょとんとする番だった。
「……だって、君には何の非もないじゃないか。俺が君に釣り合わないだけで」
「え?」
「ほら、今さっきだって黙ってしまったじゃないか。……気の利いた一言すら言えない自分が情けなくてね」
困ったように眉尻を下げ、頬をかく。
彼女の甘い囁き声の中の、小さな拒絶。それに気が付かないほど、ホセは愚かでは無かった。いくら酒を入れているとしても、紳士たれと言うのであれば、ここが引き際であることは明白だった。まだぽかんとしている彼女に、ホセが言う。
「もし、君に不快な思いをさせてしまってたら……申し訳ない。君に惹かれた有象無象の1人として、忘れてくれると助かるよ」
そう最後に言葉をかけて、彼女の手を離す。先程まで真っ赤だった顔が、急激に色を失っていった。
しかし全く情けない。そう自分自身を嘲笑しながら、ホセは席を立とうとした。
「ん、ふふ、あはははは!」
しかしそれは彼女の笑い声によって阻止される。ギョッとして思わず立ち止まると、彼女は見かけによらない強い力で腕を引っ張り、座り直させた。呆気にとられる事ばかり、ぽかんと口を開けてされるがままのホセに、心底楽しそうに彼女は笑った。
「そんなしょげた顔で言っても、説得力なんてないわよ!ああもう──アナタって──本当に可愛いお人!こんなに笑ったのは久々よ、素敵な紳士さん。
……ね、これあげる。明日のショウのチケットよ。すぐそばの、あの大きな劇場よ。是非見にいらしてね、舞台の上で待ってるわ」
泣き笑いだろうか、目に軽く涙を浮かべながら彼女はチケットを手渡した。それは奇しくも、明日ホセがスタッフとして働く劇場で。そこでようやく、ホセは誰に声をかけたのかわかったのだ。
ここら一帯で、いや世界中でその歌声を待ち望まれている歌姫。酒と暗めの照明と、世間でメディアが打ち出していた印象とは真逆のものだったから。
しかし恐らくこちらが彼女の素なのだろう。今まで見た事もない顔で、ぱちぱちと閃光が弾けるように、煌めきが抑えきれないというように笑う。妖艶な笑みでなく、無邪気な少女のように。
「アタシはいつかスタァになるの。──そうね、アナタが例えてくれたあの星みたいに」
勢いのままにグラスの中身をくい、と飲み干す。紅潮した頬をそのままにして、彼女はふらりと立ち上がる。
「またね、オウムちゃん」そうして、女はバーを後にした。重たい煙草の香りと、ウインクをひとつ残して。
それからのことは、正直よく覚えていない。
覚えているのは、あの後どうにかして宿屋にもどり、ベッドに倒れ込んだこと。午後の回に合わせて休もうにも人員不足で出来ず、それでもどうにか見れないかと袖から舞台をのぞいたこと。あの大きなホールが満席だといっていたのに、たった一席だけ、ぽかりと空いていたこと。それから、
──舞台人の、表現者の、ステージに全てを捧げる人の、その迫力に圧倒されたこと。
スポットライトに当たった彼女は、観客の息遣いからちらちら光る埃の1粒まで、その場の全てを手にしていた。彼女が笑えば皆笑い、彼女が泣けば皆泣いた。
「アタシは自由よ。人の目なんか気にしなければいい。──誰もが私に注目するの!」
そう歌いきった彼女は、誰よりも美しい星だった。
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ラジオから聞きなれない音楽が聞こえる。バーのマスターに何か聞くと、ある映画の曲だと言った。
「何十年前でしょうか。私がまだ見習いだった時に、このバーをよく訪れる役者が居ましてね。その人が売れた最初の映画がこれなんです」
あんなに情けなかったのに、とマスターは冗談交じりに呟いた。仮にも今をときめくスターにそんな口が聞けるなんて、よっぽどその役者はここに入り浸っていたらしい。
「そんなにヘタレだったの?」
「ええ、見ているこっちが恥ずかしくなるほど」
「あら、会ってみたいわ」
茶目っ気たっぷりにシルバーヘアの女性が言う。2人は顔を見合わせ、くすくすと笑った。
女性が追加でもう1杯オーダーする。マスターが微笑み、カウンターに背を向ける。それは了承の合図。ちょうど曲も終わり、バーには心地よい静寂が流れた。と、それを破るようにドアベルの音が鳴る。視線をやるとそこには一人の紳士が立っていた。カンカン帽を被った、はっとするほど鮮やかな緑髪の男性。
やあマスター、いい夜だね。と一言声をかけると、彼は真っ直ぐ女性の元へやってきた。
「こんばんはお嬢さん、ご一緒しても?」
「お嬢さんなんて歳じゃないわよ」
「いつまでも素敵な女性ですよ、僕にとってはね」
まあ、お上手だこと。と女性は椅子を引いてやる。ゆるりと笑った紳士はそのまま座り、灰皿を頼んだ。イエローのテーラードジャケットを羽織る姿はどこかで見たことがあるようだったが、気のせいだろうか。
しかしそれ以上に気になるのは、この歳になってまで声をかけられたことだ。目の前の男はまだ自分より幾らか下だろう、皺も薄く杖もついていない。ロマンスグレーというには若く、青年と言うには歳を重ねている。物好きな人もいるものだ、と苦笑する女性の薬指には指輪が光っていた。
「お煙草吸われるのね?」
「ええ、憧れの人の影響で。見様見真似で吸ってましたら、いつの間にか手放せなくなりましてね」
「体に障るわよ」
「覚悟の上です」
男はまたゆるりと笑った。と、何かを思い出したかのように目を瞬かせ、男はおもむろに懐に手を入れて何かを取り出した。
「……チケット?」
端はあちこち擦り切れ、文字は一部かすれている。押された箔は残っていたが、半券部分はもうだいぶ切れかかっていた。随分と昔の物だ。ここまで原型を留めている方が奇跡と言ってもいいだろう。そして夫人にはこれに見覚えがあった。かろうじて読める部分には日付と座席番号が書いてあった。あの彼女が1番輝いていた時の、一つだけ空になってしまった席の──
彼女が驚いてパッと顔を上げると、ホセは悪戯が成功したように笑っていた。
「今なら、貴女にふさわしい男で?」
「……ええ、そうね。一晩だけ付き合ってあげるわ、素敵な紳士さん!」
グラスを掲げて夜は更ける。氷が次第に溶けていく。
これは、ホセが煙草を吸うきっかけになった、たった何十年か前の話。