応える声はないコミュニケーションなんてそれっぽくやるのは本当に簡単で、例えばこんな思考実験がある。
部屋の中に、英語を母語とするAという人間がいる。このAのいる室内に、外から紙が差し込まれる。そこには何かの文字情報が書かれているけれど、日本語だからAには読めない。ちなみに、外から紙を差し込んだのは日本語を母語とするBという人間だ。
Aは日本語を解さない。けれど実は部屋の中には、日本語マニュアルが置いてある。もちろんAからしてみれば言語としての意味は分からないけれど、そのマニュアルをばらばら見ると、「○○」という文字列には「××」と返せばいい、「AA」という文字列には「BB」と返せばいい、というようなことが何となく理解できる。
そしてAは実際に、そのように振る舞う。そこに書かれている文字情報は読み取れないけれど、なんとなくのルールに従って紙に対応する文字列を書き込み、部屋の外へと返す。
部屋の外にいるBは思う。ああ、コミュニケーションが成立しているな、中にいるのは母語を同じくする人間なんだな、と。
…乱暴にまとめると「言葉による対話は意識の相互理解と同義ではない」みたいなことが言えるんじゃないかと俺は思っている。それは本当にそう。言葉なんて人によってとらえ方が違うから、重さも色も温度も違うものだから、同じものについて話してるはずが全然違うなんてことはざらにあるし、逆に違うものについて話してるのにうっかり合致することもあるし、そういう小さなすれ違いと共鳴の積み重ねが、今日も世界のどこかで誰かを泣かせたり喜ばせたり怒らせたり苦しませたりしてるんだと思う。
この世界には人間が多すぎるのだ。全員と本気で向き合ってたら身体が心が全然もたない。もつ人もいるかも知れないがそれはよっぽどバイタリティがある人の話で、そうじゃない大部分の人はへとへとに疲れ切ってしまうだろう。俺含めて。
だから「適当で」「それっぽく見えるだけ」のコミュニケーションは、悪いことじゃない。穏やかに円滑に生きていくためには必要なスキルだと思うから。心というものは有限であって、誰にでもばらまけるものじゃなくて、それを渡す対象を決めたり分けたりすることが、人生には必要なんだと思うから。
コミュニケーションは簡単なんです。簡単にしようと思えば、いくらでも簡単にできてしまう。
ですが。
ですが、俺はね。
あなたとのコミュニケーションは、そうしたくない。
あなたとは、あなたとだけは、適当でもない、それっぽく見えたりもしない、めんどくさいコミュニケーションがしたいんです。
長ったらしくて、語彙も説明も足りなくて、不完全で、だらだらずっと続いてて、どこに辿り着くかも分からないけれどずっと続けられるような気がする、そういうコミュニケーションがしたいんです。
あなたが部屋の外から紙を差し出してくれるなら、もちろん読みます。英語でも他のどんな国の言語だって読んでみせる。
でもそもそも、紙じゃなくて、あなたの顔が見たい。あなたと会って言葉をかわしたい。何でもいいから、声が聞きたい。それだけです。