6-1 ブルカンの王宮の大浴場にて、窓辺から一番星を見上げる男が一人。褐色の肌は異国情緒の色香を纏い、柔らかいブロンドの髪から滴る水がより官能的に魅せる。
彼は、丘の上に建つ王宮から眼下に広がる街を一望する。非現実的なこの景色が彼のお気に入りだった。夜の今なら、オレンジの淡い光が幻想的に街を照らす。心地よい温度の湯船に日々の緊張が和らいでいく。はあ、とため息をつけば、全身の力が抜けていくのを実感する。が、またもや溜息が出る。今度は呆れと諦めによるものだった。
「…あのなあ、お前はもう少し恥じらいってもんを持ってくれないかな」
背後で静かに大浴場に入ってきた人物に苦言を呈す。振り向けばやはり想像した通りの人物が立っていた。
「貴方は風呂が好きなのですね、モルペウス」
見当外れなことを言う女性は、慣れない人ならばギョッとするほど整った容姿をしている。生気を感じさせない雰囲気がより恐ろしく、畏れさえ抱かせる。陶器のように滑らかな白い肌、一本一本がつやがかった亜麻色の髪。その全てが完璧で、その身を包む荘厳な衣装がより人間味を喪失させる。
そう、彼女こそ五冠席が一人サラマンダー。魔術式に、人の体を模した器と意思疎通機能を与えられた者たち。その在り方は人というよりも動く人形の方がよっぽど適切だ。
彼女は再び歩き始めると、足音はなく、ただ衣が床を擦る音だけが鳴る。当然、風呂に入ることはなく窓際へ寄ると、モルペウスの隣で街を見下ろす。美しい景色にため息を零すでもなく、彼女にとってはただそこにある景色としか見ていないのだろう。なんとも可愛げのないと、逆にモルペウスの方がため息をついた。
「あなたの分身から、番人に変化があったとの報告がありましたよ」
「どんな?」
「詳細までは分かりません。ですが一緒にいた人間たちとは離れたそうです。その中にはアイホークス家の子供もいたと」
「…」
件の人物の顔を思い浮かべ、眉間にシワが寄る。彼女、こちらに来て随分と変わったようだ。昔は意思のない操り人形だったのに。
「糸が切れても動けたんだな」
ついて出た言葉は忌々しく唸った。とはいえ、彼女自身は役割を既に果たした。元々、エリュシオンの砦を開くための鍵、つまり李一族の血を確保するために送った内通者。最終的にはこちらを裏切ったが、優柔不断さのおかげで獲物は捕らえることができた。
「嬉しそうですね」
指摘され、笑って誤魔化す。人の感情に気を遣わない彼女たちは思ったことをそのまま口にする。そのくせ、こちらの内に隠したい感情も見透かしているようだから、たまったもんじゃない。きっと彼女にはこのどす黒く醜い感情も見透かされているのだろう。
「そろそろあがろうかな」
かれこれ三十分は浸かっていただろうか。長風呂しすぎた。話を逸らす意味も含め、宣言するが彼女は「そうですか」と言うだけで出ていこうとしない。いくら人間でないと分かっていても、見た目だけは絶世の美女。こちらもこのままあがるわけにはいかない。
「だからさあ…」
「あぁ、恥じらいというやつですね。出ていけばいいですか?」
「…お願いします」
そこまで言って、ようやく去ってくれた。子供を相手にしているようで時々疲れてしまう。はあ、と本日何回目かのため息が自然とこぼれた。
その後、浴場を出てすぐのところでサラマンダーが待っていたことは想像に難くなく、しかし油断していたモルペウスはその悲鳴を王宮中に響き渡らせた。
◆
ピチョ、ピチョと地下牢の床を水滴が穿つ。ここで時間の経過を確認できるのは、この一定間隔のリズムのみ。エリオット・モントレーがここに来て一週間。王城の下に牢があったのかと他人事のように思った。地上へ続く通路から差す僅かな光でさえも憎たらしい。
彼は一人、暗い牢の中で考える。
自分は何も出来ない。次期領主として将来を約束されていたからには、それに応えなくてはならない。父の背中を追いかけて、でも追いつくことはなくて。
何か残さなくては。
何かやり遂げなければ。
何か
なにか
「ねえ。心残りがあるの?」
ピチャ
いつの間にか鉄格子の向こうに少年がいた。当然忘れることのできない顔だ。ノルテポントの屋敷にいた少年の一人。いや、別人かもしれない。けれどそんなことはどうでもいい。
薄紫の瞳は優しくこちらを見下ろす。
「た、助けに…」
「君の夢、叶えさせてあげるよ」
そう言って錠に手をかけると、金属音が地面に響く。少年はそのまま一歩後ろに下がった。
もう自由に出られるんだ。
出て良いのか。出たら最後、後戻りはできない。
でもまだ自分が何か成し遂げられるのなら…。
「僕たちもね、君が必要なんだ」
囁きに導かれるように牢の扉を開ける。自らの手でゆっくりと。
そしてついに一歩を踏み出した。やってしまったという背徳感と高揚が背筋を一気に駆け抜ける。
「エリオット?」
向かいの牢が彼を現実に引き戻す。
「何をしている?出たのか、牢を」
他でもないエリオットの父、アイザック・モントレーだった。彼は息子が脱獄したと認識するや否や血相を抱えて、鉄格子越しにエリオットの胸ぐらを掴む。
「目を覚ませ!私はお前に苦しい思いをさせていたんだな。お前は私の期待に応えようとしてくれたのだろう?それだけで自慢の息子だ、エリオット。だから、だから今だけは耐えてくれ。いつかここを出る日がきたら、その後は自由に暮らしてくれ…」
「…」
父の訴えは本心だ。けれど今はそれがただただ鬱陶しい。自分は何も残してこれなかった。気が弱く、社交界でも注目の的になることはなかった。初めこそアイザック・モントレーの嫡子として皆の目を引いたが、凡才だと露呈するや否やそれが嘲笑に変わっていったのを知りたくなくても知ってしまう。対して領土整備を推し進めた真っ当な領主であり、諮問委員会の長も務めた父に自分の苦悩など分かるまい。
立ち止まるエリオットに、少年は首を傾げる。
「進まないの?」
今ここで自分を必要としてくれる仲間がいるなら、拒否することはできない。そうだろう?
小さな手がエリオットの手をギュッと握る。
「あ」
エリオットは握らされたそれにゆっくりと目を向けた。嫌な汗が手のひらににじむ。少年の顔が怖くて見れない。
ああ、意気地ないのは自分が一番理解しているさ。
「馬鹿者!」
アイザックは光に向けて歩き出す息子を必死に引き止めようと、その腕を掴む。が、その行動が後悔となるのか否か。
人はかくも焦燥感に駆られ周りが見えなくなると、これほどまでに愚かなものか。
少年は地上に続く道を見上げる。
「あーあ。ごめんね」
牢を振り返る少年の言葉に返答は無かった。
◆
「できた…!」
城の研究室でエミリオと研究員一同は歓喜の声を上げた。かねてより構築していた術式が完成した。遠い遠い過去を参照するための術式。その昔、初代国王ルールが聖剣の力を発動させるために編み上げた術式を、星に問うためのもの。たった今、精度に問題がないことを確認し終えたところだ。これでようやく五千年の時を超えてヒントを得られる。そこまでの過去を遡る術式は大陸初だろう。マルシアも部下たちを誇らしげ思っているのか、随分と表情が柔らかかったがすぐに廊下の騒がしさに気がつき、いつもの澄ました表情に戻ってしまった。
「何事?」
彼女は研究室から顔をのぞかせ、誰かと話している。が、その内容は部屋の中までは聞こえなかった。故にエミリオをはじめとする一同は、静かに固唾をのむ。すぐに彼女は扉を閉め、部屋に戻る。興味津々の視線が集まっているのに気がついた彼女は、大したことではないと首を緩く横に振った。
術式が完成した時点で定時などとっくに過ぎ夜になっていた。
全員を帰した後マルシアは一人、医務室へと向かう。夜番の看護師の他に、衛生部門長も残っていた。看護師はびっくりしていたが、部門長は何も言わず「こんばんは」とだけ言った。彼女が入室を怒らないということは、既に事は終わったのだろう。彼女、女王にでさえ口うるさいのだ。何事も患者第一優先なのはいつでも変わらない。だからこそ信頼を置ける人物でもある。
マルシアはベッドに横たわる人物に目を向ける。医務室の一番奥。そこにはコーネリアス侯爵ことアイザックが静かに寝ていた。
先ほど皆に大したことはないと伝えたが嘘だ。アイザックの息子エリオットが脱獄し、アイザックは重傷。それだけ聞いていたマルシアは、何があったのかと部門長に改めて尋ねた。
「看守が夕方過ぎに地下牢で倒れている侯爵を見つけまして。ご子息のエリオット卿は既に姿を消していたそうです。いわゆる脱獄ですが、既に捜索隊が向かっておりますのでいずれ見つかるかと。それから侯爵の腹部にはこれが」
そう言って彼女は、銀のバットに置かれた血まみれのナイフを指差す。どこにでもある何の変哲もないナイフだ。
「隠し持っていたとは考えにくいわね。共犯者がいる?」
「きっと異国の魔術師か何かでしょう。何せ牢の鍵は壊されることなく、かといって鍵を使った形跡もなく開いていたとのことですから。まったく庇ってくれた父親まで傷つけて何を考えているのやら」
ブツブツと文句を垂れながら部門長は事務仕事に戻ってしまった。
眠るアイザックは投獄後一週間ですっかり肌や髪がくすみ、貴族としての煌びやかさはなくなっていた。諮問委員会での嫌味な空気はもちろんなく、失血のせいかやはり衰弱しているようだ。
彼は侯爵同士、マルシアの父とよくいがみ合っていた印象がある。いつも父を目の敵のように扱っていたが、その関係は腫れ物というよりは好敵手のようだった。彼は父の変貌をどう受け止めていたのだろう。
「また改めてお見舞いに参ります」
「侯爵の調子が戻ったらご連絡しますね」
それだけ言ってマルシアは早々に医務室を後にした。
しかし彼女はまだ帰らない。やることが残っているのだ。屋敷から近い場所にあるアイレスター騎士団本部へと向かう。本部と言っても石造の簡素な砦だ。夜の篝火に照らされ、寒々しさが増す。
「アストリウス、現状はどう」
「お疲れ様、姉さん」
アストリウスはマルシアの異母弟であり、そしてエミリオの異父兄で、アイレスター家の負の部分を受け継ぐことのなかった聖人のような男である。そしてエミリオが養子に出るまでの間、彼のそばにいた唯一の味方でもある。それ故に、どうやらエミリオも彼には懐いているようだった。下積みを経て騎士団長の役職を与えたところ、実力もあり人徳もありと下からも随分と慕われているようだった。ミシャラ襲撃事件において、騎士団の危機管理を問われていた時でさえ冷静に対処していた、良く出来た弟である。
彼は机の上の地図を指差す。
「敵は王の墓を出て、ウィンダムポートを抜けたところです。ウィンダムポートの関所でも捕まえられず、その後は行方が掴めなくなりました」
「そう。モントレー領のウィンダムポートで捕縛できないことは想定内ね」
地図には敵の現在地を把握できるよう、星詠の魔術を施している。ミシャラ襲撃事件で残された証拠から、魔術師の行方を掴むことができた。先日のエリーゼの話から、彼らは王の墓を経由した後、エリュシオンへ向かうことがわかっている。が、今日ウィンダムポートを抜けた後、印は消え行方を追えなくなってしまった。ウィンダムポートでミシガン騎士団が敵を捕縛できなかったということは、魔術によるカモフラージュで敵を認識できないようにされたのだろう。いかんせん相手の魔術の腕をはこちらより上なのだ。それくらい可能と言われても驚きはしない。
「いずれにせよ彼らはエリュシオンへと向かう。となると通れるのは二箇所。西側か東側の大橋」
「そこは既に先行隊を向かわせました。我々も明日向かいます」
「私も後から合流する。なんとしてでも持ち堪えなさい」
「御意。しかし、本当に良いのですか」
騎士の顔から一変、彼は姉を心配していた。
「ダルジアン子爵には、もしもの時は後を継ぐようお願いしてあるわ」
「そういう意味ではありません」
彼は苦しそうな顔をする。彼が思い詰めることなど何もないというのに。これは戦いだ。戦に運命を翻弄されるのを良しとするか否かは個々人によるが、少なくとも武人であればそれは本望だ。むしろ運命さえも手玉にとってやろうという気概がなければ、勝利は掴めない。
「私もアレイスターの一人。本当はペンよりも武器を握る方が性に合ってる。それは陛下も理解してくださった。部門長の代わりはいくらでもいる。でも私の意志を遂げられるのは私しかいないの」
翌日アストリウスは騎士団長として、女王カタリナから直々に、敵を討てとの命を受け戦場へと旅立っていた。
それから二日後。
アイレスター騎士団本部の前にエミリオはいた。二日前にもアストリウスを見送りに来たばかりだった。今日もまた出陣を見送る民衆を押しのけ、最前列でソワソワとしきりに中を伺っていると、馬に乗った一人の騎士がラッパの音とともに出てくる。砦の門を潜った騎士は、そこでエミリオの存在に気がついた。馬を止め、兜を上げた騎士は驚いた顔をしていた。
「本当に行ってしまうのですか、シエラ侯爵」
マルシアが出陣すると聞いたのは昨日のことだった。急な話でエミリオは戸惑いを隠せなかった。アストリウスが出陣したのは騎士団長であるが故。彼が戦いに赴く可能性はエミリオだって受け入れるしかなかった。だが、マルシアまで行くとは思ってもいなかったのだ。しかし、再び魔法技術部門長の代理を任されたオスカーがいたって冷静だったのを見るに、おそらく彼は前々から知っていたのだろう。むしろ後任を任されるであろう彼が知らないはずがない。裏切られたような気持ちを抱える一方で、戦況が変わればそういうこともあり得るのだと納得するほか無かった。理解はできても気持ちは追いつかない。せっかく少しは彼女とも話せるようになったのだ。行き場のない気持ちを胸に、足は自然と騎士団本部へと向かっていたのであった。
マルシアはエミリオが来るとは思っていなかったのだろう。確かに驚いていたがやはり彼女は冷静で、すぐにいつもの調子に戻った。
「ええ。今回の出陣は私にしかできない役目がある」
そう言われてしまったら何も言えない。一人の命と大陸の未来を天秤にかけようものなら、優先すべきはどちらかなどわかり切っている。
「エミリオ…私が死ぬとでも?舐められたものね」
「い、いえ!ですが戦です。もしものこともありますから」
「力こそ絶対。貴方も知っているでしょう。アイレスターの家訓を。力があるならそれを振るうべき時に振るわずしてどうするの?」
青い眼差しは力強い。その信念が彼女の強さの秘密なのだろう。
彼女は馬を降り、エミリオの前に歩み寄る。
「そうね…」
彼女は何かを言いかけ止める。代わりにそっと彼の頬に触れた。ふと彼女の雰囲気が和らぐ。が、一分もしないうちにその手は離れ、彼女は再び馬に跨った。
「息災でね」
「…ご武運を」
本当はそんなこと言いたくなかった。お茶を用意して待ってます、などと言えればよかった。でもそれは違う気がして。なぜなら遠ざかりゆく騎士はマルシアでありながらも、それ以上に一人の武人であるから。彼女の強さを信じて帰りを待つことこそ、今送れる最大の敬意なのだ。
ふわりとそよぐ風も彼女の勝利を祈るかのようだ。
ああ、噂を運ぶ風の精霊よ。この溢れる一粒の雫を、せめてこの想いだけでも伝えてくれたいいのに。