パチパチと油が跳ねる音に意識が呼び起こされた。
窓から差し込む陽の光が眩しさに視界がぼやけるが、覚醒する意識と共に目に映る景色の輪郭がハッキリする。寝起きで最初は聞こえなかったが油が跳ねる音と一緒に小声の話し声も聞こえるようになった。
ベッドから重い動作で起き上がって、音がする方向へと目を向ける。
1LDKの間取故に音の正体はひと目でわかる。台所に立つ男とその足元で座って男の顔を見上げる黒猫。
視線に気づいたのか、黒猫が振り向いてブルーの瞳でこちらを見た。そしてその視線を追うように、男も振り向いた。
そして、自分がこちらを見ていることを気づくなり男は穏やかに微笑んだ。
「おはよう明智。朝ごはん、もう少しでできるからちょっと待っててくれ」
「……………」
男の言葉に返事をすることなく、横切って洗面台に向かう。
鏡に映る自分の姿は寝起きということもあって酷いものだった。かつて探偵王子と呼ばれた母譲りの容姿が台無しだなと自分で思うくらいには。
顔を洗ってみれば、冷たい水に目も完全に覚めて少しは本来の自身の顔に戻ったとは思う。しかしその表情は未だに虚ろのまま。
……まあ、その理由は分かっている。
洗面所から出て再びリビングに行くと、テーブルの上にトースト一枚と少量のスクランブルエッグが乗った皿が置かれている。一方その向かいには、大盛りのご飯が入った茶碗と二つの目玉焼きとウインナーが乗った皿が置かれている。男は目玉焼きとご飯が置かれた位置に腰下ろし、必然的に自分の場所がトーストの方であるということを示された。
「……なんで違うの」
「明智は朝御飯そんなに沢山食べないし、ご飯よりトーストの方が良さそうだったから」
確かに彼の言うとおり今まで朝食は軽く済ませてきた。
リンゴ一つを丸かじり、なんて日も多々ある。自炊なんてあんまりしないし、朝から炊飯器で白飯を炊いて食べ終わったらお釜を洗う、なんて手間を朝っぱらからやらなくてはいけないこと考えるとオーブントースター一つあれば後はなんの準備も要らないトーストの方が効率も良いし好みではある。
「でも俺、朝は米派だから。明智はパン、俺は米。…そういうこと」
「……………………」
……昨日まで量こそ違うものの同じものしか用意しなかったくせに、ついにメニューまで変えるほどになったか。
男の正面に座って、手を合わせて「いただきます」と頭を下げる。
ご飯の上に目玉焼きを乗せていわゆる目玉焼き丼にして食べている男を見ながら、こちらもスクランブルエッグをトーストの上に乗せて食べる。
カリッと適度に焦げ目がついたトーストと、甘すぎず塩辛くもないまろやかな味の卵の味が口に広がった。
シンプルで、少量であっても、それは量産的に作られたものではない。
食べる人間のことを想って作られたものだ。そういう味の料理を食べるのはいつぶりだっただろう。気づけばスクランブルエッグは底を尽き、トーストも残り一口というところまで来ていた。
……この一口を食べてしまうのが惜しいだなんて考えてしまう自分が心底嫌になる。
誤魔化すように最後の一口を食べて、「ごちそうさま」と正面の男に告げる。まだ茶碗の半分しか米が減ってない男は、ハムスターのように顔を頬張らせながらニコッと笑って見せた。
「(クソみたいな毎日だ)」
何思って毎日コイツ──雨宮蓮は、明智吾郎の顔を見て笑っているのか。
分からないし分かりたくもない。
……ああ、なんでこんな事になったのだろう。
○ ○
……結論から言うと、起きた頃には全てが終わっていた。
獅童のパレスのあの出来事が十二月の半ばで、今は二月の末。
議事堂の近くで倒れていたところを発見の後に搬送された僕は二ヶ月間昏睡状態だったらしい。
「貴方、一時期はICUに居たくらい絶望的だったのよ。怪我は酷いわ、意識も戻らないわ、熱は続くわで色々大変だったんだから」
「…冴さん、もしかしてずっと付き添ってくれてたんですか?」
「そうよ。貴方まだ未成年だし、親戚の方とも連絡がつかないからひとまず私が臨時で代理の保護者として色々手続きしてあるの。本当、心配したんだから」
「じゃあ今は冴さんが僕の『おかあさん』ってことですか」
「貴方ねぇ……」
やれやれと溜息をつく冴さんに、ハハッと薄く笑った。
彼女は改心した。だから去年の怪盗団を追っていた頃の血走っていた頃とはもう違う。言葉や態度こそ鋭いことに変わりないが、それでもあの時とは違う。生まれて初めて出会った、『彼女なら』と思える事が多々ある程度には信頼していた唯一の大人。
だから、それこそ彼女なら明智吾郎を行くべき道に導いてくれる。そう信じて、本題を自分から持ちかけた。
「……それで冴さん。僕は退院次第、出頭させてもらえるんですよね。知ってるんでしょ?僕が今までやってきたこと」
「…………………………」
身体の傷は思ったより酷く、そのうえ二ヶ月も寝たきりだったおかげでリハビリは必須だった。
現実ろくにベッドからも身体を起こすことも出来ない現状なので、しばらく入院生活は続くのは明らかだ。幸い主治医も看護師も、僕のことは謎の大怪我で搬送された探偵王子の明智吾郎という認識で留まっているので対応は柔らかいが、それも退院するまでの話だろう。
……だって、その明智吾郎は巷を震撼させた廃人化事件の実行犯なのだから。
「……そうね。本来ならば獅童の立件のために実行犯の貴方には証言をしてもらいたかったのだけど」
「ええ、だから──」
「でも、それはもう必要なくなった。貴方の代わりに怪盗団のリーダーである雨宮君が出頭したから」
「は……?」
彼女の言ってる意味が分からなかった。
「それに、獅童も獅童で件の事件については自分がやったと言ってるの。貴方は関係ないの一点張り。むしろこっちが言うまで明智君の名前すら出さなかったわ」
何を言ってる。
そんなわけないだろ。
「もう裁判所は獅童の証言が全て真実だということにしようとしてる。恐らくだけど、貴方が出頭してもほとんど相手にされないか、保護観察処分程度で終わると思う」
「バカ言わないでください。どれだけ人間が死んだと思ってるんですか」
それこそ、指で数え切れないくらいの人数を。
この手でたくさん殺したのに。
「それは私だって分かってるわ。でも、そもそも根本的に異世界での犯罪なんて立証ができないのよ。その異世界も今はもう消えてしまっているらしいし、確かめようがないの」
「証拠なんてどうでもいいでしょう。本人が殺ったって言ってるんだからそれでいいじゃないですか」
「……気持ちは分かるけど、証拠がなければ刑は下せない。この国は、そういう仕組みなの。私だって貴方にはきちんと法に従って罪を償ってもらいたかった」
「………………」
クソみたいな話にチッと彼女に隠さず舌を打った。
これまで気に食わない人間とは数多く出会ってきたけれど、中でも特別嫌いな奴らから庇われたなんて反吐が出そうだった。
復讐のためと言い訳をして取り返しのつかないことを沢山しておいて、あんな無様を晒しておいて、しぶとく生き残ってしまった上にそれが罪にもならないなんて、生き恥にも程がある。
「……それで。法で裁かれる機会が永遠に訪れなくなった大量殺人者の明智吾郎は、退院したら無罪放免の自由ってことですか」
「いいえ、勿論ながらそういうわけにはいかない。表向きこそ貴方はなんの罪も犯していないことになっているけれど、真実を知る者として私は貴方を放っておくわけにはいかないわ」
「なら、どうしろって言うんです」
「色々と考えていることはあるし、準備する必要もある。でも、ひとまず全て貴方が退院しないことには始まらないわ。その身体じゃしばらく動けもしないでしょう?」
「……まあ」
「今は療養しなさい。その間、私は色々用意しておくから。…また来るわね」
そう言って冴さんは、先日床に落としたカバンをいつものように肩に引っ掛けて、カツカツとヒールを鳴らしながら病室から出ていった。
一人残された部屋の中で、扉に向けていた顔を窓に向ける。
その空の下、自分の代わりに出頭したらしい雨宮蓮は今頃少年院でこの空を見ているのだろうか。いや、塀の中だから窓なんてないのか。どのみちどうでもいい。
真冬真っ只中である二月の空は都内では珍しく雪でも降るのか雲がかっている。
それがまるで今の自分の心境のように見えて、再び舌打ちをした。