『悠長なこと言ってらんなくなった。悪ィけどニキ、マジで今すぐ俺と結婚しろ』
とある午後、燐音が突然そう告げた。今度はなんだと少々げんなりとした気分でニキが視線を落とすと、緊張したように握り締められた拳にいつもの「これ」はいつもの「それ」ではないと気付くには充分だった。
「ニコニコしてるだけでいい、美味いもん食わせてやるから、って言葉に釣られるんじゃなかった~……」
いつもと様子の違ったプロポーズの理由は単純明快。故郷の年寄――老人ではなく故郷の政務などを取り纏めている者達だ――が、身を固める気がないのなら嫁となる人間をこちらで用意すると言ってきたからだ。
君主ともなれば嫁を娶り、共に支え合い政務をこなし、跡継ぎを産み育てるのも大事な役目の一つだろう。ニキからしても年寄たちの言い分がおかしいとは思わなかった。ただし、目の前の男を「天城燐音」ではなく「古めかしい村の君主様」として見た場合であるが。
――そもそも、子供を作れない僕がお嫁さんでいいんすかね?
以前から燐音は故郷で認められる結婚は異性間のみのものではないという発言をしていた。故郷の人間は古臭く黴の生えた思想なのだと聞くわりには、子孫繁栄から外れた非合理な結婚が許されることは意外に思えたものだ。
――燐音くんはいざとなったら叔父さんの孫が生まれたら養子にして跡継ぎにするなんて言ってたけど、あの人そんなことやらなさそうだしなぁ。
君主の弟は兄を補佐し、何かあれば身代わりとして犠牲になったり役目を継いだりするという。前君主である燐音の父親が臥せった際も、弟である叔父を君主とするか次期君主である息子の燐音を連れ戻すかで意見が別れたところ一彩が燐音を連れ戻す案を推し進めて故郷を飛び出した結果、現在に至っている。
そして現君主となった燐音が子を成さないのであれば一彩の子を跡継ぎとすることもできるだろうが、おそらく燐音はそれを選ばない。だからといって自分の都合で叔父の孫の人生を変えてしまうかというとそれもないだろう。ニキとしては、今代で君主制を廃止する方向で動くと予想している。
「めんどくさ……お腹空いてきた……」
「口を開くなっつったろ。淑やかに微笑んでりゃオメェの顔ならなんとかなるって」
「たしかに省エネで助かるっすけどね。でも動きを制限されるのもなんか……なんかエネルギー使うんすよぉ……」
普段如何に自分が無駄な動きをしてカロリーを消費いたかをニキは痛感している。だが、じっとしていてもカロリーは消費されていくのだ。それならばストレスのない行動を取りたいと考えるのは普通のことだろう。
「ニキの微笑みでジジィ共も大人しくなって面白かったなァ。こうやって神格化されて人間じゃないものが出来上がるって仕組みなわけだ」
「なんか騙してるみたいで申し訳ないっすね」
「いいんだよ。みんな信じたいものを信じるし、俺たちは尊くあればあるほど支えになるし言葉も響く」
そういって姿勢を正して真っ直ぐ立つ姿は、出会った当時の燐音を思い出させるものだった。その頃はまだ幼さも見えていたが、現在の燐音は威厳を感じさせる佇まいだ。
「ニキのことも都会から来た余所者じゃなくて、俺っちが選んだ素晴らしい伴侶だと思わせときゃ肩身も狭くないっしょ」
「体質のことも説明してくれてるおかげで、定期的に果物とかもってきてもらえるのは助かってるっすね。美味しいし」
「食いもん渡すと嬉しそうに笑うから、女たちがおまえにメロメロになって競うように差し入れして
ンだよなァ……老若男女全員籠絡して俺っちの故郷滅ぼすつもりかよ?」
燐音が当初懸念していたニキへの冷遇など杞憂であった。頭の固い年寄連中に普段のニキの言動は受け入れ難いだろうとあまり口を開かずに微笑んでいろと指示したものの、その微笑みは中高年の男たちの心臓に矢を放っていた。世話係になった女たちもである。ニキの傾国の女神な有り様に、己が陥落したのも仕方のないことだったのではないかと思うほどだ。燐音がニキに惚れたのはそれだけが理由ではないのだけれど。
「弟さんは結婚式には来られないんでしたっけ?」
「生放送の歌番組が入ってるンだと。それでもこっちを優先しようとしやがったから、一発蹴り入れて吹っ飛ばしてやった」
この兄弟は、どちらもとても賢いのに時折こうして肉体言語に走るきらいがある。それは感情的に暴力を振るうのではなく、どちらかというと獣同士の躾のように噛んで諭しているようなものだとニキは認識している。
「そっかぁ。弟さんに晴れ舞台見てもらえなくて残念っすね」
「別にィ? いつももっとすげェ舞台見せてっからいいっしょ」
たしかにそうだ。こんな形だけ取り繕うような結婚式よりも、燐音本人が心から求めて楽しんでいるアイドルとしてのステージを見せる方が何倍もいいのだろう。
――こんな結婚式、誰か望んでる人はいるんすかね。
「……俺」
「えっ?」
まるで考えていたことを見透かされたかのようなタイミングで声を掛けられてニキは肩を跳ねさせた。
「俺さァ、元々十八になったら、年寄共が決めた相手と結婚するはずだったんだよなァ」
初耳である。だが、燐音が都会に出てきた頃の年齢を思うに、そうなる前に飛び出してきたのだというのは想像に容易い。自分の人生を自分で選びたいと、選べと己にも他人にも強く願うのは、幼い頃からそうあれなかった環境がそうさせているのだろう。
「だからさァ……結婚する相手はちゃんと自分で決めたかったっつーか……」
「なのに、時間切れでこうなっちゃってるんすね」
「あァ? ちゃんと選んでるだろ。ずうっと前から。ここで結婚したって都会じゃ何の効力もねェけど、せめてここに居る間くらいは何不自由ない生活させてやるからさ……笑えよ」
珍しく真面目なトーンで見つめてくる燐音に居心地の悪くなったニキが、笑えと言われた言葉のまま『なはは』と適当に笑うと、そうじゃねェと脳天に手刀を落とされた。
「嘘でもいいから楽しそうにしてくれってこと。嫌々結婚されっとさすがの燐音くんも傷付いちまうだろォ
?」
そう言って拗ねたように顔を背ける燐音に、ニキは自分の覚悟はまるで伝わっていないのだなと嘆息した。燐音は今、ニキから選択肢を奪ってしまっていることを嘆いているのだ。
「だからさぁ、何度も言ってるっすけど、僕は余計なことしてるお腹の余裕はないんで。たしかにご飯に釣られちゃったのは否定はしないっすけど、さすがにこんな状況で何も考えてないわけじゃないっすよ」
「椎名さん! ……っと、ここではそう呼んではいけないのだった。無礼をお許しください、ニキ様」
「やめて~……キミには普通にしててもらいたいっす。それでもし誰かに怒られるなら僕がそう命じたんだって怒ってあげるんで」
「ふふ。そうだね、あなたにはその権限がある。僕でさえ口を出せない場面もあるから……兄さんの、君主の伴侶として兄さんを守り支えて欲しいよ」
「僕ぁバカっすから、何て言って口を挟めばいいかとかわかんないっすけどね」
「そもそも、兄さんに異を唱えることもあってはならないのだけど。ならぬものはならぬ、って突っぱねるだけでも効果はあると思うよ。兄さんの次に偉いのが椎名さんだから」
「正直、突然そんな権力を手にして困惑してるっすよ。僕らが白と言えば黒も白になっちゃう感じ」
「そういうものだからね。だから愚か者に君主は務まらない」
「だから、何かあったら叔父上が君主になったかもしれねェんだから、その血族から後継者を選んでも問題はねェだろうが!」
「君主として優れておられる先代様とそのお子――燐音様の血を引く者ならそれよりも優秀な子ができるでしょう」
「優秀ねェ……俺のこと気が触れてるだのなんだの言ってたやつらがどの口でぬかしやがる」
「幼き頃の異端な蛮行は優秀すぎたあまりのことだったのだと理解しております」
「何が理解だ――」
「ならぬ」
「……ニキ?」
「ならぬものはならぬ。君主の決定に従えないって言うんすか」
「……ニキ様が、そう仰るのでしたら……」
「何で俺っちのときより素直に聞き入れンだよ腹立つな……」
「あ~~ヤバ! ビビったぁ~! 弟さんさまさま!」
「ァア? 一彩?」
「弟さんが、ならぬものはならぬ、って言ったらいいって教えてくれてたんで」
「なるほどなァ。オメェの語彙じゃねェしどうしたのかと思ったぜ」
「僕、君主のお嫁さんらしくできてたっすかね?」
「上出来上出来。さすが俺っちの女神。俺っちの嫁。愛してンぜニキ」