気の長い男 今夜が最後だと思った。
夜も更けてきた時間の飲み屋で、お互い気持ちが良くなるくらいの酒が入っている頃合いだった。できることなら執行人として一緒に働いてくれるなら嬉しいと、無限が風息に言ったのだ。その願いに不快感を覚えない自分がいた。だから、自分と彼との付き合いはこれっきりにしなくてはいけなくなった。
故郷を館に追われてから、風息達はまだ腰を落ち着ける場所を見つけられていない。どこでも良いはずなのに、どこもしっくり行かず転々と場所を変える日々だった。その中で風息は時折街に降りて、情報を集める事もあった。
彼に会ったのは見目と声を変え、街で周囲の開発状況を調べていた時のことだった。気で妖精を探知できる館に対しては気休めでしかなかったが、どうやら人間の彼には有効だったらしい。風息を館とは別のスタンスの妖精であるという理解をしただけで、相手がお尋ね者の風息だとは露とも思わなかったようだった。
執行人らしい彼は自らを無限と名乗り、はぐれ者の妖精を館に連れて行きたいのだという。今は世界が大きく変わりつつある。一人でいれば、そのうねりに容易に飲まれてしまうかもしれない。避難所としてでもいい、館をうまく使う事を考えて欲しいのだ、と彼は言ったと思う。
彼を利用しようと思った。ひとまず虚淮達にはこの街から距離をおいてもらい、その間に無限から館の動向を聞き出した。彼も風息の質問には当たり障りのない情報のみ渡していたようだったが、体制や主要人物の考え方など、得難いものもあったように思う。
すでに何日かに分けて彼の話を聞いており、そろそろ潮時だとは思っていたのだ。皆の下に戻るため、どう彼の誘いを断るか考えていた。そんな折の事だった。
「――それはできない。今日で終わりにしよう、無限」
「そうか、それは残念だ」
すぐに答えがあるとは思いもしなかったのだろう、ぱちりと瞬きをした無限が握っていた器を机に戻す。声の調子は普段と変わらないように思ったが、その声量は雑然とした周囲の物音にまぎれてしまいそうな小ささで、言葉の内容に偽りはなさそうだった。
「俺があんたのことを気に入っちゃったから。このままじゃあ館がどうこうというよりもあんたのためにって判断してしまいそうで」
「私はそれでも一向に構わないけど」
もう一度ぱちりと瞬きしてから、無限が思いもよらない返事をしてくる。今まで館を理解して納得した上で風息を連れていきたいふうだったのに、急に考えが変わってしまったようにも感じられた。
「そうやって惚れ込まれてというのは正直悪い気持ちではないよ。それがあなたの信念を曲げるものであったとしても。いや、だからこそかな」
「悪い奴だなああんた」
言いたいことは分からなくもないけれど、と笑ってやればそれは良かったと無限が笑う。何かを犠牲にしてまで傍にいたいと言われて、自尊心が擽られないなんてことはそうないだろう。
最後の最後に見えた彼の性質を風息はやはり不快に思わなかった。彼に告げたように、自分はもう無限を気に入ってしまっているのだろう。残念ながら風息は無限にそんなことをしてやることはできないのだけれど。
「俺には館のやり方は合わないよ。妖精より人間を優先しているようにしか見えないし、それじゃあ近い将来どうしようもなくなる」
いつかそこらじゅう切り拓かれて、人間の手の及ばない場所などなくなってしまうだろう。多分、彼らを止められるとすれば今しかないと風息は思っている。きっといつの日か、人間は妖精に対抗しうる力を手に入れはずだ。いや、ひょっとしたらもう手遅れなのかもしれない、とすら。
「俺にはあんた達がそういう道筋を作ってるようにしか見えないんだ。今日と明日の保障をされたところで」
そこまで口にして風息は口を噤んでしまった。言いたい事は明白なのに、どうにも形にできない。そうしているうちに、無限が小さく相槌を打った。
「このままだときっとそうなる」
「なら……!」
「妖精には人間を止められない。なら、共に歩む道を探すしかない」
気色ばもうとした風息の言葉を遮って、無限が緩く頭を振った。もうその手立てはないのだと、他ならぬ人間だからこそ彼は知っているのかもしれない。はっきりとした断定を受けて、腹の底に小さな穴が空くような心地になりながら風息は無限の言葉を待つ。それに何の意味があるかは自分にも分からなかったが、それでもそうしなければならないと思ったのだ。
「しばらくは人間に対して手探りの日々が続くだろう。あなたのような妖精には迷惑をかけることになる。けれど、ここを乗り越えて、館をあなた達のような考え方をする妖精にも参画してもらえるような場所にするのが私達の……いや、私の目標だ。館がそうなったときにはもう一度検討してほしい。あなたと共にあれる日を楽しみにしている」
何の毒にも薬にもならないような、教科書通りの言葉だと思う。けれど、それが彼にとって嘘でないことくらいは風息にも分かった。風息が思い描けない未来の姿を、この男は本気で作り上げようとしている。実現できるかなんて風息には分からない。できるはずがない、と風息は内心で唾棄してしまう。
それでも彼はその世界を目指し続けるのだろう。無限の声は他者に確信をもたらす音をしていた。
「……随分と気の長い話だな」
それまでに取り返しのつかないことになっていないといいけれど、とぼやく声に不快感が混ざってしまったのは否めない。その調子を聞いた無限は少し寂しそうに苦笑しただけで、それ以上風息を誘おうとはしなかった。
そう。そんなこともあった、と鉄道の上で風に嬲られながらぼんやりと思い返す。山をくり抜いたトンネルは長く、列車の照明がなければ風息にも見通せない暗闇が続く。
館はいざ知らず、少なくとも無限はこのままでは妖精に未来がないことを知っている。風息が人と歩むことを諦めた頃には、彼だって理解していただろう。その頃から妖精達の生活は好転することなく、悪化の一途を辿っている。
館が変わる兆候は風息のいる場所からは窺えない。おそらく、距離を縮めたとしても同じ事だろう。肥大化して身動きが取れなくなった組織の下に、自分達の未来があるとはどうしても思えなかった。
人間たちの生きる速さに、妖精はついて行けなくなってしまっているのだ。人である彼には分からないかもしれないが、歩幅が異なる者同士が歩調を合わせて歩み続けるのは難しい。すでに狂ってしまったリズムが噛み合うことはなく、自分達が二度と足並みを揃える事は叶わないだろう。
ふいに風圧が変わって列車がトンネルを抜けた。暴れる髪を押さえて空を見上げると、夜の近づいた色が頭上を覆い始めている。夜空は様変わりしてしまったが、この時間帯の空は昔とあまり変わらない。この空の色すらも、いつか奪われる日が来るのだろう。
彼はまだ諦めてはいないのだろうか。自らを襲った刃の鋭さを思いながら、あの日の言葉を思い返す。
風息に刃を向けたという事実だけでは正確な判断は下せないだろう。今の風息は無限にとってははぐれ者の妖精ではなく、館の敵対者でしかない。彼の刃に灯されたものは、無限が口にしたように任務の実行以上も以下もなかったはずだ。
彼の心の内を風息が再び知る機会はきっともうない。けれど、彼が妖精との未来をまだ捨てないでいれば良いと思う。彼が目指すような道があれば良いと、かつて思ったこともあった。その名残もすべて、彼の中に詰め込んで行くことにしよう。
風息はもうその時を待てなくなってしまったけれど、数多の痛みと忍耐の先にそんな未来も本当はあるのかもしれない。その犠牲を許す事が風息にはできなくなってしまった。ただそれだけの話だ。
もしも、彼がまだかつて描いた未来を忘れても諦めてもいないのだとしたら。妖精よりも気が長いなんて大概な人間だと、そんな幻想にちくりと刺されながら風息はひっそりと苦笑した。