ESビル6階の衣装ルームは、もはやValkyrieのふたりの溜まり場と化している。
彼らがまだ夢ノ咲学院に在籍していた頃も、手芸部の部室はユニットの本拠地としてほぼ私物化されていたし。ファブリックに囲まれた室内が落ち着くという習性は、宗とその相方のみかにも同様に備わっていた。
本日も例に漏れず、Valkyrieの作品制作は衣装ルームにて行われている。日頃はパリで暮らす宗の今回の帰国は今日が最終日であり、宗はあと数時間後には飛行機へ乗り込まなくてはならない。
なお、衣装ルーム内に宗とみかが揃っている場合、他者はなるべく彼らの世界を邪魔しないように努めている。芸術家たちの創作には環境づくりが重要で、集中しているふたりの傍では物音のひとつも立てづらいからだ。
そんな暗黙の了解から成り立った昼下がりの密室で、事件は起きた。
「……できたっ、できたでお師さん!」
ゾーンから解き放たれたみかが朗らかな声を上げたそのとき、宗はラックに掛けられた色とりどりの衣装を眺めていたところだった。ひときわ目を惹く上質な一着から手を放し、無邪気な完成報告に振り返る。
「ふむ。思ったより早かったね」
「ほら見てや! これ……っ」
ソファから立ち上がり、ぱたぱたと宗のもとへ駆け寄ったみかだったが。持ち運んだ衣装から垂れた裾に途中つまずいてしまい、豪快につんのめる。
ふたりの悲鳴が飛び交った。バランスを失ったみかは宗を押し倒す形で、どさりと前方へ倒れ込む。趣味のトレーニングが活きたか、宗はどうにか体幹を維持し無防備なみかを抱き留めた。おかげでふたりとも頭を打ち付けずに済んだのは、不幸中の幸いである。
だがそれでも、勢いは殺し切れず。目を見開いたみかと宗との、唇同士が──ぶつかった。
かちっ、と何か硬そうな音が一瞬鳴ったが、みかにはその出どころが互いの歯であると認識することはできなかった。
みかの視界をおぼろげに支配するのは、この世で最も美しい師の顔だ。
「んあぁ!?」
ようやく事態を把握したみかは情けなく騒ぐと後ずさった。頬が、熱い。己を受け止めたそこには、まぎれもなく宗がいて。はじいた痛みの手前には、確かな甘みもあったのだ。
濡れた感触の残る口元を手のひらで覆いながら、紅潮したみかはどうにか言葉をひねり出す。
「……お師さんごめんっ、おれ……!」
「怪我はないかね、影片ッ!?」
一方の宗はというと。青ざめた形相でみかへ詰め寄るなり、火照るみかの頬を挟むように両手で包み込んだのだった。
顔の向きを正面に拘束され、至近距離で見つめられているにもかかわらず、宗の表情はまるで赤子を案ずる母親のようである。焦り気味に眉を下げ、はらはらと状態を診てくる宗の一連の行動により、みかに迸っていた熱も次第に引いていった。
「ああ、なんともなくてよかったのだよ……」
みかの骨ばった輪郭をそっと撫でては、宗は力んでいた両腕をだらりと下ろして安堵の声を漏らした。その額には冷や汗が滲み出ていたようで、短い前髪の毛先がしっとりと貼り付いている。
生粋の粗忽者だと宗に認定されたみかはそれから、己の行動の危険性をさんざん咎められたのであった。もしも、顔に傷がついてしまったら。鼻の骨が折れてしまっていたら──。そんな最悪の悲劇を例に、がみがみと説教を垂れ続ける宗と目を合わせることができず、みかは床へ放り出されてしまった自作の衣装をとっさに拾い上げた。
「ところで……何の話をしていたのだったかね?」
部屋中に響き渡っていた怒号は、火が消えたようにふと止んだ。いつも突発的に感情を昂らせてしまう宗だが、我に返った瞬間はどこかあどけない。
しかし。目をぱちくりとさせているそんな宗を見やることもなく、みかは俯いたままでたどたどしく答えた。
「……おれの、縫っとった衣装。……さっき完成してん」
「そうだったね。どれ、見せてみたまえ」
美しい所作で手を差し出され、みかは黙って習作を渡した。師に品定めをされるこの瞬間はいつだって緊張するが、今はそれに加えてさらに逃げ出したい気分である。みかには宗の考えが読めなかった。あれは、気のせいだったのか。生まれて初めて味わった、あのやわらかな弾力は。
「ほう、ほう。君にしては、悪くない出来なのだよ」
フクロウのごとく頷きながら、宗は満足そうにみかの腕前を評価した。最近の宗はもっぱら、みかに優しい。より正確にいうならば、元から秘めていた優しさを全面に出してくるのだ。
こそばゆいそんな愛情は。不安定なこのときのみかを、かえって苦しめることとなる。
「何度も噛み締めるけれど。君の成長が喜ばしいよ」
「っ……」
「芸術家として、相棒として。僕と並ぼうとしてくれる姿勢がね」
「……今言うこと、それなん?」
拳を震わせたみかは床へ落とすようにそう呟く。宗の意識は完全に、上達したみかの裁縫技術へと向いていた。
もちろん、それは本望だ。憧れの相手に褒められたなら、芸術家として有頂天に決まっている。
だが。激情を吐露せずにはいられない宗が、扱いもしない事象が起きた。つまりは先の出来事に、なんの感情も湧かなかった、ということだろう。
この部屋で動揺している人間は、みかひとりだけだった。
「影片?」
小首を傾げた宗が、うなだれたみかの顔を覗き込もうとしてくる。
慈愛と憂いに満ちた宗の眼差しを、みかが捉えることはない。
「見んといて、今ッ……!」
ふたたび頬に血を巡らせたみかは頭を振り拒絶した。宗を唸らせた力作の衣装を奪い返すように掴み、その布地で顔を隠す。
恥ずかしさと、悔しさと──あのとき感じた高揚感の残骸が、みかの胸中で綯い交ぜになる。
「君。具合が悪そうなのだよ」
様子のおかしいみかに対して、宗は体調不良と結論づけた。互いに徹夜など無茶をしがちなユニットだからと、相手の不調は率先して労おうとする癖が出たようだ。
先の怒声とは裏腹に。宗の声色は穏やかで、心配性の気質が汲み取れる。
「まさか、脳震盪を起こしたのでは」
「大げさやで。……どこもなんも打っとらんよ」
みかが暗に込めた皮肉も響くことなく、宗は純粋にみかの身を案じてくるのだった。
「そうだとしても、風邪か何かかもしれない。顔も少し赤いのだよ」
「……ちょっとのぼせただけや。ずっと作業しっぱなしやったし」
「ああ……ずいぶん集中していたからね。頑張りすぎたのだろう」
そっとみかの前髪を撫でてくる手のひらは、とてもあたたかい。
しかし、その熱は自分のそれとは違うのだとみかは悟った。
知りたくもなかった温度差を浮き彫りにしつつ、宗のぬくもりが離れていく。
「僕は帰る準備もあるから、そろそろ戻ろうと思うのだけれど」
「……せやな、ほんならここで」
「君の部屋まで送るのだよ」
無理をしていると思われたのか、宗はみかの介抱をしようと身を乗り出してきた。存外に世話焼きな性格のため、長々と押し問答になることもめずらしくない。
「そこまですることあらへん。おれはちょっと座ってから出るわ」
「では、僕もまだ待っていよう」
「もう解散で大丈夫やで。……先、行ってや」
「けれど。君を置いていくわけには」
「時間ないんやろ? えぇから、早よせんと」
みかに促されて時計を確認した宗は、出発時刻が差し迫っている現状をしぶしぶ肯定する。いかにもつまらなそうに口を曲げるそのしぐさにも、顔を背けたままでいるみかは気づけなかった。
「ひとりで本当に平気なのかね?」
「うん、飴ちゃん食べて糖分摂るから」
「そうか……あとはゆっくり休みたまえ。……ではまたね、影片」
誰も見ることのない微笑みをたたえて、宗は衣装ルームから去っていく。次に会うときを待ち遠しそうに、名残惜しそうにしながら。
室内がしんと静まり返る。人数が減ったのはもちろんだが、宗の存在はみかにとって、どこにおいてもきわめて大きなものだった。
誰よりも大切で、大好きなひと。そしてその想いは宗からも、かけがえのない“家族”としてみかへ注がれている。
──おれたち。ちゅー、したんよな──?
瞳を揺らしたみかの独り言は、声にならずに虚しく消えていった。
◆
その日の夕方、宗は予定通りパリへと発った。見送りは不要だとあらかじめ伝えられていたことと、あんな出来事が起きた直後でもあったため、みかは宗の申し出に沿い空港へは出向かなかった。
唇が触れてから、一度も宗の顔を見ていない。ふたり揃ってのValkyrieの仕事は幸いしばらく先だ。いつもは宗に会いたくて待ち切れないみかだが、その日がまだ来ないでほしいと祈ったのは初めてだった。
また、みか個人の仕事ならば明日の午前から入っている。したがって今夜は早めに床へ就かなければならないものの、眠れるはずもないみかは手すさびにスマートフォンを点けたのだった。
放置していたホールハンズには、案の定通知が溜まっている。
『無事にパリへ着いたのだよ』
『あれから体調はどうかね?』
『睡眠や食事には気をつけたまえ』
『休んでいるのなら、返事は明日でも構わない』
『おやすみ。また連絡するのだよ』
短時間のうちに、合計5件の連投メッセージを受信していた。わざわざ差出人を見なくとも、この内容と頻度でみかへと連絡してくる者など、他にはいない。
現在、パリでの時間帯は昼間だ。夜分遅いから返信は自重した、との言い訳がしづらいのが時差である。ここでみかが連絡を返してみれば、宗からはきっとすぐに反応があることだろう。
だとしても今は返事をする気にはなれず、みかは文面をひと通り見ただけでアプリを閉じてしまった。今さらあのときについての話題を蒸し返すこともできないし、かといって平然と接することもできないのだ。
溜息をついたみかは消灯したスマートフォンを伏せて置く。今はプライベートでこれほど悶々としてしまっているが、自分は星を目指すアイドルだ。せっかく与えてもらった輝かしい仕事にまで、私情を引きずってはいられない。
もっとも、宗との関係は業務上のパートナーでもあるため、完全なプライベートとも言い難いのだが。キスをしただとかしていないだとかそんな不埒な話は、アイドルの身には御法度であることは明白だった。
「んあ~、もう、どないしょ……!」
「どったの、みかりん。眠れない?」
急な問いかけにみかはびくりと身を跳ね上げる。夜型なその声の主は、みかと同室のアイドルであり友人の凛月だ。
せやねん、と頬を掻いたみかは枕元の間接照明を点けると、凛月のほうへ上体を向けてはがくりと肩を落とす。
「当ててあげよっか。悩みがある、って感じでしょ」
「おれどこまで口にしてたん!?」
「あはは……図星だねぇ、これは」
どないしょ、って部分だけだよと慰めつつ、騎士団の軍師である凛月はさっそく核心に迫ってきた。
「もしかして。『お師さん』さんと何かあった?」
「んあっ!?」
たちまち飛び出た間抜けな鳴き声が、正解を物語る。みかと宗が喧嘩した際などは端から見てすぐわかるし、普段仲睦まじいからこそ異変が際立つのだ。
観念したみかは呼吸を整えてから、諸事情で宗からの連絡を返さずにいる旨を凛月へ打ち明けた。理由はさまざまだが、みかが宗に対して音信不通になったことは初めてではない。そのたびに宗がやきもきしていたらしいとの噂は、外野のアイドルたちの間にも流れていた。
“諸事情”の詳細までは、凛月は敢えて聞かなかった。みかが気まずそうに言い淀むのを察したからである。嘘のつけない素直さはみかの美点だが、必要に駆られれば偽証も辞さないだろうし、余計な悩みを増やしてしまっては本末転倒だと考えたのだ。
ベッドを並べて暮らす友に、むざむざ罪悪感を植え付けたくはない。みかの心を少しでも軽くできれば、それで充分だった。
「ま、いいんじゃない? 『お師さん』さん、みかりんに過保護すぎだし」
凛月はからりとした物言いでみかの行動に賛成した。宗を形容する過保護という単語は、近頃みかも随所で耳にしている。現に日中もそうした態度を取られたばかりで、未熟者だからと庇護されている可能性は否定できない。
あたかも親子のような表現に曇りかけたみかの眼を、晴らすのもまた凛月であった。
「でも。みかりんももう、子供じゃない。……分類的には成人男性、ってわけ」
宵闇の吸血鬼、あるいは小悪魔か。ひとつ歳上の余裕で、薄く笑んだ凛月は魅惑的にみかを焚きつける。
「駆け引き、しちゃいなよ。離れれば離れたぶんだけ、あとで燃え上がるんだからさ?」
◆
凛月の囁くような口調で落ち着いたのか、みかはそれからほどなくして夢の世界へと堕ちていった。朝一番の収録も不備なく終え、このあと昼休憩を挟んだなら、午後以降は企画の打ち合わせで『プロデューサー』と会う手筈となっている。
ひとりで摂る昼食はつい軽く済ませがちだが、目ざとい『プロデューサー』はみかの栄養不足を見抜いてくる節があるのだった。宗のいないときでも気を抜けないと、みかはやむを得ず社員食堂へ向かう。
宗からは依然として複数のメッセージが来ていたが、みかはそのいずれにも返信をしていなかった。一部着信もあったものの、ちょうどというべきか仕事中の時間帯だったため、大義名分を得たみかが応じることはなく今に至る。
ESビル内の移動中も、食堂で料理を待つ間も、数分単位ならどうとでも暇は作れるけれど。宗からの通知の数が増えるほど、なおさらどのメッセージを選んで返信していいかわからないのだ。
既読にはしているのだし、生存確認は取れている。そもそも昨日の今日でまだ丸一日も経っていない。みかは決意を固めた。過保護すぎるとの悪評を真摯に受け止めてもらうためにも、凛月のアドバイス通りに宗とは距離を置くべきなのだろう、と。
こうなればもう、宗の不在中の単独行動を満喫すべきか──。少々食欲が湧いてきたみかは、もはや専属シェフと化したニキの焦げランチに舌鼓を打つのだった。