「この店にも、もう何度も来ているね」
行きつけの中華料理店。みかとふたりでテーブルを囲んでいる宗が、運ばれてきた品々を皿に取り分けながらつぶやいた。
目の前に差し出された回鍋肉へ一瞬視線を落としたあと、宗へと焦点を戻したみかは眉をハの字にする。
「んあ〜? お師さん、ここの中華飽きてもうたん?」
「そうとは言っていないけれど……」
まあまずは食べたまえと、宗は傍らの容器から割り箸を取り出してみかへ渡した。「おおきに、ほないただきます~」と両手を合わせたみかが、ぱきんと小気味いい音を鳴らす。
そうして熱々の料理を食べ始めたみかの姿を、宗はお冷やを飲みながらぼんやりと眺めていた。
「あちち。ふーふーせなあかんなぁ」
「それくらいわかるだろう。君はやはり抜けているね」
「せやけどお腹すいてるんよ〜、おれ」
温度が下がった途端、みかは改めて豚肉へかじりつく。タレにまみれたそのそそっかしい口の周りを、宗はやれやれと拭ってやるのだった。
本日はふたりとも個々の仕事帰りで、ES前で落ち合い夕食に訪れたところである。
今回の帰国は一週間。あと数日もすれば、宗はまたパリへ発ってしまう。Valkyrieとして、みかのパートナーとしてのひとときは、宗にとって日本で過ごす期間中の醍醐味だ。
黙々と食い入る相方をしばし観察していた宗だったが。ぱくぱくと顎を動かしながらふと顔を上げたみかと、ここで目が合う。
「んあぁ、お師さんがずっとおれを見てくる! ドキドキしてまうっ」
「不気味な反応はやめたまえ……よく食べるようになった、とただ感心していたのだよ」
「ちゃんと食べへんと、って意識はしとるからなぁ。最近のお師さんみたいに、おれも体力つけなあかんと思ってん」
そうかね、と相槌を打つ宗の表情は穏やかだった。今のみかは人間として自発的に行動している。その期待通りの変化が実に好ましく、宗は見ていて飽きないのだ。
「頑張るで!」と宣言したみかはふたたび炒め物に手をつけた。さて──と仕切り直した宗もようやく自分の割り箸を割る。まっすぐに入ったこちらの亀裂と、眼前でせわしなく動く歪な線。たかが使い捨ての一膳でもふたりの完成品は異なっていて、宗は相反した芸術家が共存するおもしろさを再確認するのだった。
みかの食いつき具合が予想以上であったため、宗は追加の注文をしては自身も食事を始めた。いつもより食欲旺盛なみかに対し、宗の胃袋にはさほど空きがない。それでもみかを見ていると消化にも刺激をもらえる気がして、箸を進めるペースを宗が速めようとしたときだった。
「そやそや、お師さんっ」
「……なんだね?」
「さっきの、『このお店にも何度も来てる』って。なんや言いたそうやなかった?」
今度は白飯を掻き込んでいたみかから不意に問われ。その頬についた米粒を左手でつまみ彼の唇へ押しやりつつ、宗は発言の趣旨を返す。
「僕たちがこうして、外食をするようになってから。……ずいぶん経ったと思っただけだよ」
宗の指先から忘れ物を舐め取ったみかは、「せやなぁ」としみじみ同意した。
「学院時代は僕の家で作っていたし。屋台飯なども制限していたからね」
「そやったねぇ。懐かしいわぁ~」
「……君には、だいぶ我慢をさせてしまっていたから……」
小声でそう吐き捨てた宗は目線を逸らすと、みかのもとへおずおずとチャーハンも回してやる。炭水化物ばかりに摂取品目が偏らないよう、控えめな半サイズだ。
縁には綺麗なレンゲを乗せて。茶碗のご飯を平らげたみかの正面に、頃合い良く給仕される。
「我慢やなんて、今も昔もしてへんよ?……おおきにお師さん、おれにぎょうさん美味しいもの与えてくれて!」
これは遠慮ではなく、飾らない本心だ。ばつの悪そうにしている宗へと向かって、みかは顔をほころばせて礼を告げた。
立ちのぼる湯気にはチャーシューの香りが漂う。舌を出したみかは黄金色の半球をレンゲで崩すと、すくったひと口をはふはふと頬張った。
この場で美味しいものを与えてくれているのは料理人だが、みかの想いは受け取りたい。そう願った宗は「僕にもくれるかね?」と己の口元を指差しては、ひと匙のチャーハンをみかから与え返されたのだった。
「どや、いけるやろ?」
「カカカ。……悪くはないのだよ」
あとは君が食べたまえ、と薄く笑んでは、宗はみかと分けてあった回鍋肉へと箸を伸ばす。もう出来たてではないとはいえ、こちらも質は損なわれていないようだ。分野こそ異なれどプロの技術力を汲み取った宗は、作り手をひっそりと礼賛した。
近年はまともに食事を摂るようになったものの、本来は比較的食の細いふたりにとって、小皿で少量ずつを分けられる中華料理店は存外重宝している。繁盛しているわりにどことなく居心地も良いため、自炊をしない日にはこの店を訪れる機会も多かった。
「ここへは、小娘とも打ち合わせで来たことがあるし。夏目……小僧も利用しているらしいね」
何気なく放たれた宗のひとことで、ぴしゃ、と空気が一変する。宗と共有した直後のレンゲをぐっと握りしめたみかは、真っ向から不機嫌を露わにした。
「あんずちゃんになっくんて。今一緒におるのおれやのに、他の子の名前出さんといてっ!」
無意識な元凶は咀嚼したキャベツを飲み込むと、みるみる眉間に皺を寄せる。
「ノン、店内で喧しいのだよ!……それに君のほうこそよく、鳴上や同室の朔間の話をするじゃないか」
「それとこれとは別やし!?」
ふたりの口論が白熱してきたところで、ちょうど追加の品が運ばれてきた。第三者との平和なやりとりを挟んだなら、争いもおのずと鎮火する。
店員が厨房へ戻っていく様を見届けたあと。先に話題の軌道修正を試みたのは、みかの方だった。
「……おれは。ここの中華、またお師さんと食べたい」
「もちろん。構わないよ」
「せやけどお師さん、もともと洋食派やもんね。ごめんなぁ、おれの気分に付き合わせてもうて」
「だから承知の上だと言っているだろう。それに近頃は僕も、朝食以外は中華も和食も選ぶようになったからね」
クロワッサンは譲れないけれど、と言い添えた宗は目を細め、わずかに口角を吊り上げる。
「柔軟になったのだよ。君のおかげで」
「んあ? おれの?」
「ああ。……ほら影片、この油淋鶏も食べたまえ」
親しき者たちの談笑と、金物の擦れる調理音。賑やかだけれども落ち着く絶妙な空間は、心惹かれるアンサンブルを奏でていた。
◆
満たされたふたりが店をあとにする頃には、夜空の濃度は入店時より一段と深まっていたのだった。繁華街に並ぶ灯りが煌々と道を照らすも、粗忽者が万一転ぶなどしてはたまらないと、宗は夜目の利かないみかの腕を軽く引きながら帰路に着く。
行き急ぐ人とすれ違うたび。ぶつからぬようにと身を寄せたふたりの距離が、そっと縮まる。
「んふふ。桃まん、お師さんみたいで可愛かったわぁ~」
甘くつやつやとしたピンク色の丸みを思い出しては、みかが頬を緩ませた。
密着している肩を鬱陶しがりつつも、振り払おうとはしない宗は溜息混じりに応じる。
「……同意はせず聞き流すよ。しかし君、今日はデザートまでしっかり平らげるとは。よほど空腹だったのかね?」
「だってなぁ、時間なくてお昼食べてへんかったから……って、あかん!」
失言を認めたみかは空いた手でとっさに口を塞ぐ。だが案の定、耳の良い宗からの怒号を避けることはできなかった。
「ノン! 忙しさを理由に食事を抜くなと、いつも言っているだろう!」
「んあぁ、堪忍してお師さん、っ」
「君だけの問題ではないのだからねッ!?」
「し~っ! 道端で目立ってまう!」
注目を浴びている状況を把握し、みかは声量を抑えるようにと宗をなだめる。最低限の変装はしているとはいえ、こんな言い合いを聞けば誰しもがValkyrieだと気づくに違いない。
宗はつねに激情家だが、みかの不摂生を叱る際にはとりわけ激昂する傾向にあった。事実を宗に知られてしまえば、こうなることは予測できたのに。己の詰めの甘さをみかが反省するも、後の祭りだ。
「お師さんとの待ち合わせに遅れたくなくて。お昼休憩で雑務を片付けてもうたんよ〜」
「……僕との約束など、いつでもいいのだから。日時変更だって」
「そんなん嫌やぁ! 絶対!」
「影片の声こそ大きいのだよ!?」
騒がしい『お師さん』と『影片』の横を、くすくすと笑う人々が通り過ぎていく。端から見ればこの光景は痴話喧嘩と評されていることを、当の本人たちは知る由もなかった。