真っ直ぐ帰宅する気になれず、自宅とは正反対の方向へ向けて夜の道を歩いた。
高層ビルの最上階に位置するカフェバーは、吸血鬼のホットスポットたる新横浜らしく閉店時間は朝の4時となっている。
新幹線が停まる虚無の街を照らす明かりは少なく、薄いレモンサワーを傾ける間に一つ、また一つと明かりは潰えていく。
昼間はいくつかの会社事務所とテナントが開くとあるビルも夜半を過ぎた頃には窓を閉ざす。
冷え冷えとした殺風景な四角形にオレンジ色の明かりが一つだけ点されていた。
人影を認識することもできないほどに離れた窓辺に向かい思いを寄せる。
授業参観に親がきた子供のようにはしゃぎ、憧れの異性を前にした乙女のように頬を染めた自分と同じ髪色と空色の瞳を宿した男のことだ。
(…どうしてあんな風に育ったのか)
リストで眺める退治人ロナルドのアカウントに音沙汰はなし。個人のアカウントは知らない、聞けば教えてくれるだろうが自分にはそこまで知る資格はないように思えた。
退治人を辞めた原因の怪我にお前は関係ないのだと再三言い含めてから数ヶ月が過ぎた。
ついに甘えん坊の弟にも反抗期が来たのだと奥歯を噛み、仕事に忙殺して時が解決してくれるのを待っていた日々が遠い昔のことのように感じられる。
似たような職業に就いていたので仕事の話ができるようになっただけでも嬉しかった。
兄貴、と呼びたい気持ちを堪え隊長さん、と呼ぶ甘さの抜けきらない声音にいつもにやけないように頬の裏を噛み締めた。
弟は四年前に家を出て行った時と変わらずに純粋で情に厚く人に優しい…、ちょっとアホでセロリが大の苦手なままだった。美しく育った容姿と端麗な顔立ちが彼の持つ感情表現の全てを使って親愛を向けてくるのだ。その破壊力たるや30年培ってきた性癖も信条も全て吹き飛ばしてしまう。
「…ここなら遅くまでやってるし…、寝てたらその時はその時…」
部下やギルドの仲間たちがいる前ではロクに話せなかったが、俺はあの嬉しそうにとろけた笑顔を向ける弟を独り占めしたくて、こうして弟が暮らす事務所近くのバーに足を運ぶに至った。
以前もこうして話がしたくて事務所前に手土産まで持って来ては、どうしても扉を開けることができずに踵を返す日々だった。
(でも今日なら!なんか今日ならいける気がするんじゃ!)
弟宛てのメッセージアプリで一言。店の地図と共に「近くで呑んでるんだが、飯は済ませたか?」というメッセージを添えた。
ぽひゅん、と間の抜けた送信音が鳴って再び視線を夜景に向ける。ピスタチオの殻を剥き、二、三粒噛み砕いている間に既読マークがついた。
レモンサワーを飲み終わり、スマホを再び眺める。既読がついてからたっぷり十分が経過したが返信はなかった。
(こりゃあ振られたか…?)
既読がつかないのであれば仕事中かと諦めもつくが、メッセージが読まれたという事実がもう一杯粘るかとアルコールのメニュー表を掴む。いや、ソフトドリンクの方がいいかもしれないと別のメニュー表を手に取ったときのことだ。
「…ドラルク?」
なぜか弟の同居人からメッセージが届く。訝しげに思いながら内容を確かめた。
『私はこれから出かけますんで、五歳児はお願いします。ドライヤーは洗面台の下です』
ドライヤーの文字に首を傾げていると、入店を知らせるチャイムが鳴った。
「え、えっとここに兄貴…じゃなかった、待ち合わせ…でもないか、…あ、あれ?スマホ忘れちまった…」
「ヒ××!?」
「あっ、兄貴!」
黒のフードパーカーに灰色のジャージ、左の踵を踏んづけたままのスニーカーという出立ちの男がにこやかに振り返った。
その瞬間、俺はドラルクのよこしたメッセージを完全に理解すると伝票を掴んで席を立った。
「へへっ!よかったまだ居てくれて」
「ばっ……!髪くらい乾かしてからにせい!」
湯上がりの濡れ髪から垂れた雫が、紅潮した頬を伝う。フードを被せ、周りの視線から隠すように背中に弟を隠した。身長的に隠せてないだろう、などというツッコミはなしだ。
「あれ、帰るとこだった?」
「違わい!おみゃーの髪を乾かす方が先じゃろ、事務所に戻るぞ」
「あっ……そ、そうか…ごめん、俺、…」
弟はまるで飼い主に怒られた子犬のように俯いてしまう。しまった、と思ったときにはもう遅い。
「いやいや謝るな」
「走ってるうちに乾くかな、って思ったんだけど…ドラ公もドライヤーしてけ、って言ってた気がする…ううっ俺は人参を前にした駄馬…ザリガニ釣り用のスルメを行きの道のりで食べ尽くす小学生…」
「それただの小5の時のお前、…じゃなかった!いいんじゃいいんじゃ、俺が急に呼び出したせいだからな?泣くんじゃにゃあよ、男前が台無しだ」
含み笑いを堪える女性店員に会計をしてもらい、俺は弟の手を掴んで店を出る。
「髪を乾かしてな…、事務所で飲み直すか」
「……うん!」
「はは、泣いた子がすぐ笑ったな」
既読無視に凹んでいた部分が温かな充足で満ちていく。明かりの消えゆく街を月明かりを頼りに歩いた。
「…そういやドラルクがでかける、って言っとったが鍵持ってきたんか?」
「えっ!?……な、ない…」
「うん、まあ…スマホも置いてきたくらいだもんな。…じゃあ、俺の家来るか」