逃避行ヴォックスは、すぅすぅとした寒さで目が醒めた。シーツの海でぼんやりとしながら腕で周囲を探って、やっと寒さの理由がわかった。
昨晩腕に抱え込んで寝たはずの、ミスタがいない。
特にセックスも何もせず、眠たそうな顔のミスタを腕の中に閉じ込めて寝たのが、つい八時間ほど前のこと。
そして、現在朝の七時。ダブルベッドの上には、寂しいかな、置いていかれた男がぽつんと一人だけ。
「……ミスタ?」
少し声を張ってみたが、返事は無い。ドアを開けて、階段を降りて、リビングを抜けて、キッチンへ。
誰もいない。部屋にも、風呂にも、庭にも、誰もいない。ミスタの気配が家の中から消え失せている。ミスタの自室にも立ち入ったが、やっぱりそこにもいない。
「……なるほど」
ヴォックスには、一つだけ心当たりがあった。
これは、家出だ。多分、衝動的なやつ。
かつて一度だけ、同じようなことがあった。まだ恋人になったばかりの頃、抱え込んで寝たはずのミスタが忽然と消え失せていたのだ。そう、まさに同じ状況。その時のヴォックスは柄にもなく慌てふためいて、仲間であるシュウに追跡を依頼してなんとか見つけ出したのだが、家出した理由がまたミスタらしいと言えばミスタらしいのだが、同時に頭を殴られたような衝動的な理由でもあった。
ミスタ曰く、「怖くなったから逃げた」らしい。その一言でミスタの保護者たるシュウから一瞬、鋭い目線を向けられたが、その後に続いた言葉で二人して顔を覆って泣くところだった。
ミスタにとって、愛してもらい続ける事は幻のようなもの、らしい。
愛なんて一瞬で、いつか捨てられると思ったら怖くて、幸せな今逃げ出して終わりにすれば、ずっとその時のオレが幸せなままでいられるでしょ?愛されてるオレを、永遠にしたかったんだ。一人ぼっちになった後じゃ、幸せを思い出せないから。
そう、つまりは、発作的なものなのだ。ヴォックスの腕の中で目覚めた時、きっとミスタは幸せだった。幸せだったから、逃げた。幸せを、幸せのまま、綺麗な思い出にしてしまい込むために。
ヴォックスはニンマリと、愉快そうに笑った。
「いい度胸だ、MyBoy」
絶対に逃がしてやるもんか。
「…………で、また逃げられたんだ?」
「ふふん、だがまぁ、ウン、私に愛されているという自覚がある故だから、可愛いモンだよ」
ハハ、と笑うが、実の所ヴォックスにそんなに元気は無い。普通に空元気だ。なぜなら、ミスタがいないから。普通に逃げられたのはショック過ぎる。幸せ感じてくれて嬉しいけど。
締切を終えてエナドリを豪快に飲み干したアイクは、ヴォックスにじっとりとした半目を向けた。この鬼、ミスタのことベッタベタに可愛がる割に伝わってないんじゃないか?と常日頃からそこそこ疑っている文豪は、「言っとくけど、僕は何も知らないよ」と今度はコーラを開けた。
「だろうな。こういう時に坊やは身内を頼らないからね」
炭酸ジャンキーは幸せそうにコーラを飲んで、それから「うーん、でもまぁ」と一呼吸置いた。胃から空気を少し吐き出して、一言。
「……悟られすぎてない?大丈夫なの?君、ミスタの前ではいい感じに装ってるけどさ」
「ハハハハハ、なんの事かな」
「うわ、しらばっくれたぞこの四百歳」
シュウ〜何とかして〜。僕もう無理だよこれ。内心でシュウに念を送ってみるけれど、アイクは残念ながら一般文豪なので伝わるわけもなかった。
「さてと、」
ヴォックスは立ち上がって、「美味しい紅茶をありがとう」と微笑んだ。
「心当たりは?」
「一箇所」
郊外にある静まり返った教会の隅っこに、綺麗なミルクティーの髪がはみ出しているのが見えた。
やっぱりなぁ、とヴォックスはわざと足音を立てて近づいていく。少しだけ持ち上がった頭に口角を上げた。
「……こんな所にいたんだね、坊や」
「っ、」
小さく声をかければ、びく、と肩を跳ねさせた小狐が、ゆっくりと後ろを振り向いた。
「……なんでわかったの?」
「愛の力……とかどうだい?魅力的な響きだろう」
「アホくさ」
「手厳しいな」
ミスタは少し俯いて、また背を向けた。
オヤ、何かモヤモヤしているらしい。
ヴォックスが横に座って、「手を繋ごうか」と小さく囁いても、ミスタは縦にも横にも首を振らなかった。沈黙を肯定と捉えて、そっと手を重ねる。冷たい手は、いつからここに座っていたのかも分からなくなっていた。
「……やっぱり、綺麗なところだね。どうしてここにしたんだい?教えておくれ」
「……………………から、」
「ン?」
「赦してくれる気がした、から」
「……」
観念したのか、ミスタはそう言った。
小さな声を聞き漏らさないように、ヴォックスは黙る。鐘も鳴らない、賛美歌も歌わない、こぢんまりとしたそこは、少し前にヴォックスとミスタがたまたま立ち寄った場所だった。静かで厳かで、なによりも人がいないのがよかった。遠くの子供の声と、鳥のさえずりと、風の音。ステンドグラスの磔刑と、乳白色のピエタが佇んでいるだけの、素朴な室内。多くない長椅子の一つを占領して、二人はただ存在している。愛し合う隣人としてそこにいる。
少し間を置いて、ミスタは口を開く。
「オレね、やっぱり怖いんだ」
「うん、」
「明日、daddyに……ヴォックスに別れようって言われたらどうしようとか、いらないって言われたらとか、いなくなってたらどうすればいいんだろうとか、寝る度に怖くて、」
「それで?」
「……でも、ヴォックスは、そういう時に限ってちゃんと優しくしてくれるよね。寝れない時は声をかけてくれるし、俺の事抱き締めてくれるし、おやすみって言ってくれる。凄く嬉しい。嬉しいけど……やっぱりもっと怖くなる。こんなに嬉しくて幸せなのに、消えちゃったらどうしようって。そしたらもっと怖くなって、」
「ここに来たんだね?」
「……ウン」
こくん、と小さく頷いたミスタの頭を、ヴォックスはいてもたってもいられない気持ちで、抱き寄せた。ぎゅう、と強く背中に手を回して、柔らかい髪を掌で梳いてやる。
「ありがとう、ミスタ。私に愛されて、幸せになってくれて」
「……」
「大丈夫、怖がらないで。私は坊やを捨てたりしないし、この幸せが限りなく続くように努力していくつもりだ」
震える肩を、背中を、ゆっくりゆっくりと撫ぜる。
「大丈夫、大丈夫だよMyboy。ゆっくり慣れていこうね。坊やがちゃんと私の愛を受け取ってくれて本当に嬉しく思っているよ。勿論、泣いてもいい、怖くなってもいい、逃げたくなってもいい。でも、そうなったら、まっすぐに私の腕の中に来て欲しい。愛してるよって、目一杯伝えてあげたいから」
「……だでぃ」
きゅ、とヴォックスのシャツを掴む手に、ぱたぱたと雫が落ちていく。だんだんと縋るように背中に回る手を愛おしく思って、ヴォックスはミスタのこめかみに口付けた。
「怖かったね、しんどかったね。もう大丈夫。暗い中ここまで来たのかい?とても疲れただろう。落ち着いたら、家に帰ってゆっくり過ごそうか」
「うん、う゛ん……!」
泣きじゃくり始めたミスタをあやしながら、ヴォックスはそっと目を閉じる。
あぁ、やっぱり、早く全部私のモノにしてあげないと。
教会の片隅で、鬼がうっそりと笑った。