あの日どうしてか、我慢ならなかった。
ミスタの側から一時も離れまいと、保護者のように彼を守るシュウの姿に眉を顰めた。
なんとなく分かってはいたさ。私のせいであの子が苦しんでいることくらい。伊達に長く生きちゃァいない。シュウの瞳の奥に潜む緩やかな炎、それは悪人を責め立てる者の瞳だった。確かに彼の瞳には覚えがあった。
それは昔昔、遠い昔、それこそ生まれて間もないくらいの鬼子の時のことだ。
食うものもなく、飢えを凌ぐために死体を漁った時、たまたま人の子に見つかってしまった。その子供は穏やかな瞳を一変させ、烈火のごとく目を吊り上げ、俺を罵倒し殴ろうとしてきたのである。
私は生憎と道徳を携えずに生まれたものだから、どうして怒っているのかとんと分からなかった。
薄野に埋もれながら食べた初めての食事の味は、腐った死体の腐敗臭が嫌に舌に残り、ウエッウエッと嘔吐きながら必死に口元を塞いで食べたんだった。
長く頭を死体に近づけていたからか、蝿が頭の周りを飛び交い彼ら特有の耳障りな音が、当分耳元から離れなかったのを覚えている。
ブーン、ブーンと耳を掻きむしりたくなるような音を鳴らしながら、一匹の蝿が肩に止まった。
残暑の厳しい、秋の初め頃だった。
最初の変化は、さてなんだっただろうか。
鬼として生を受けた自分にとっては、とても緩やかな変化だった。たった数ヶ月、されど数ヶ月俺はミスタのほんの小さな変化を見逃してしまった。
みんなと診察室で集まった時、あんなに医者から彼の声は心因的なものだと言われたのに、本当の意味で分かってはいなかった。
まず彼に与えた服の中で、長袖で尚且つ透けない素材の生地を選ぶようになったこと。そして時たま利き腕じゃない方の腕を庇うようにして、ご飯を食べるようになったこと。最後に一緒にお風呂に入らなくなったこと。
セックスの時は電気を消し真っ暗な部屋の中、彼の珠のように白い背中と形のいい臀部を眺めながら腰を打ち付けた。鬼である自分は夜目がきく。そんなことも知らずに、恥じらいながら毎度お願いするあの子が可愛くて何にも気づかなかった。
ミスタはいつも腕をひしと抱え、後背位から俺を誘った。その姿がいじらしくておぼこくて大好きだったんだが、事実を知った時にはえもいわれぬ恐怖に憮然とした。
結論として、自傷行為が再発してしまっていた。
最初にそのことを知った時には、狼狽しつつシュウに連絡を入れた。『ミスタには自傷癖があるのか』と。
すると肯と返ってきてしまったから、さあ大変。私にはてんで覚えがないし、なぜミスタの自傷癖が再発してしまったか何もわからず、藁にもすがる思いでシュウに再度尋ねる。すると怒りを含んでいるであろう文章が長文で送られてきた。
『だから君ではダメなんだ』と言われた時には思わず彼を罵る言葉が口を吐いて出てきてしまった。けれど実際シュウの言うとおりで、ミスタは日に日に弱っていく一方だった。
暦にして2月、ミスタが来て既に六ヶ月が経っていた。
「ミスタ、ミスタ起きなさい。もう11時じゃないか」
未だ睡眠を貪るミスタを起こしに彼の部屋を訪ねる。いつの間にかルーティーンになっていた。
真新しい血が滲むTシャツを、彼の両腕に触れないようそっと腕まくりをする。未だ起きないことをわかっていて、ミスタの腕に増えた傷の手当てをした。
この数ヶ月で医者並みにケガの処置が上手くなった。その経緯は決して褒められたものではないけれど、ミスタの体に古い傷が治る暇もなく新たな切り傷が増えるもんだからまァ参った。
「ミスタ、私の可愛い子。また腕を切ったね、私の何がそんなに気になるんだ?なァ、教えてくれ」
返答など期待していない。これはただの日課だ。歌うように口をついて出てくる、まあ習慣みたいなもんさな。
横一文字に躊躇いなく引かれた線は、そこまで深くはない。浅く浅く、表面を撫でるくらいのものだ。けれどもそれが何度も繰り返されるうちに、段々と治りが遅くなり傷跡も残ってきている。ミスタが同じ位置に何度も刃を入れるからだ。積み重なれば、深い傷になってしまう。
そうしてもう何度シャツをダメにしたか、片手で収まらなくなってから数えることをやめた。特に利き腕で剃刀を滑らした右腕部分は、左腕よりひどいもんだった。ミミズがのたくったように赤い腫れがたくさん浮き出ている。治りかけの傷は痒みが伴う。思い切り引っ掻いたのだろう。その弾みで治りかけていた瘡蓋までも剥がしてしまい、出血する。悪循環だった。
丁寧に薬をぬり、痛くないようにガーゼを当ててから包帯を巻いた。常に清潔にしておかないとな。
彼の腕に触れながら、一番古い傷を見た。この傷はシュウが手当し病院まで連れて行ってなんとか治療したらしい。けれど皮膚が引き攣れ、ぼこりと波打っていた。
「ミスタ…」
自分の頬に彼の薄い掌を当てる。ほのかに温かく、生命を感じさせた。最近は、この一連の流れをしないと生きた心地がしないでいる。いつかミスタが遠くに行ってしまうような、そんな感覚に付き纏われていた。
とく、とくと血が巡る。彼が眠るベッド脇に跪き、無心で男の鼓動に耳を澄ませる。ああ、よかった。今日も生きている。ここ4ヶ月はそう実感できて初めて、朝を迎えられる気がするのだ。
死んではいまいか、腕ではない別の場所を切ってはいまいか、そんな不安に駆られる。
「きっとお前は、私のせいで辛いのだろう」
けれど私には、お前が何に悩んで何が辛いのか何もわからない。私の何がそんなにお前を苦しめているのか。
「愛しているのに、なぜ伝わらない」
ぼんやりと、男を見つめる。浅い呼吸を繰り返し、顔色は土気色で精気を感じさせない。
ここに来て二ヶ月はまだあんなにも可愛らしかったじゃないか。まろい頬をりんごのように染めて、私のそばで姦しく囀っていただろう。猫のように私の首に腕を回し、じゃれついていたのは紛い物だったとでもいうのか。
いや…それはないか。彼はいつだって甘えてくれていた。ただミスタにとって私は何かが足りなかったのだ。けれど、
「離してやれない、すまない」
どれくらいそうしていただろうか、時間にしたら数分にも満たなかっただろう。ピクリと男の瞼が痙攣し、ゆっくりとマリンブルーの瞳が露わになる。
「…おはよう、私の愛しい子」
瞳は雄弁に言葉を語る。『なぜ俺の手をとって頬に擦り付けているんだ』ー・・・まあ、こんなところだろう。
じっと私の目を見つめてくる。何かを探るように、心の奥を暴こうとしているかのようだった。
「もう11時だ、一緒にご飯を食べようミスタ」
そう声をかけると、気だるそうに上半身を起こす。そのままベッドを降りると思いきや、私の手首を掴みどこにそんな力があったのか勢いよく自分の方へ引っ張った。
「うっ、お」
思わずバランスを崩し、ミスタをベッドに組み敷く形になってしまう。彼を私の体で押しつぶす前に、なんとか片方の腕を彼の顔の横につきバランスをとった。
「どうした、ミスタ」
じっとりと私を見つめ続ける男の表情に、焦りと嫉妬、そして諦観が渦巻いているのが見てとれた。何がそんなにこの男を駆り立てるのだろうか。
はくはくと口を動かす。それをゆっくり正確に読み取っていく。この半年で読唇術は7割方マスターした。ミスタは声の出ない口で、何度も同じ言葉を繰り返していた。
『ヴォックス、シたい』
「…シたいって、昨日もやったじゃないか。今日は休んだ方が」
『シて、お願いだから』
「でも、こんな真っ昼間から」
『いいから、お願い』
虚な目をころりとこちらにやり、細くなった腕で服を引っ張った。こうなったミスタは聞かないから、渋々彼と体を重ねるしかない。
「わかった、一回だけだ。終わったら一緒にご飯を食べようミスタ」
そういうとミスタは幸せそうに微笑み、キスをねだる。唇を重ねるだけのキスだった。
床に落ちた剃刀を見てふと、もう家中の刃物を隠さないとダメかもしれないな、と考えた。
その日は特に変わり映えのない一日だった。いつも通りに配信を終え、夕飯を作り彼を起こしに部屋に向かった。…言い表せないどこか不快な胸騒ぎがしたのは、虫の知らせというやつだったのかもしれない。
「ミスタ、ミスタ起きているか」
いつもならこんなに荒々しく声をかけないのだけれど、その日だけはどうしてか急がねば、彼を起こさなければという気持ちが強かった。ドアの前に立ち、力いっぱい扉を叩く。
「起きているなら反応しなさい、ミスタ」
何度声を張り上げても、扉を叩いても物音ひとつしやしない。普段なら夜は勝手に部屋に入ったりはしないが、今日は何かがおかしいと己の第六感が告げていた。
「ミスタ、入るぞ」
逸る気持ちを抑えつつ、ドアノブに手をかけ扉を引く。…なぜか重たかった。ゾッと血の気が引いていくのがわかる。人が首を吊ればこんな重さになるんじゃないか、そう思った。
「ミスタッ!」
普段の私からは想像もできないほどの声量で彼の名前を叫ぶ。
ほんの僅かに開いたドアの隙間に手を差し込み、指の皮が剥けるのも厭わず第三関節あたりまで突っ込んだ。そして思い切り扉を手繰り寄せる。
ズル、ズル、ズル
何かが引き摺られる音がした。気を失った人間は重い。重いのだ。それが死んでいるのか、あるいはただ失神しているのか分からなかった。いや、確かめるのが怖かったのかもしれない。
「ミスタ、ミスタ」
左足を壁に当て、体全体を使いどうにか扉をこじ開けていく。そうこうしているうちに、ようやく彼の顔が見えるほど開いた。
男は扉に背をもたれ、白いビニールロープを首に引っ掛けていた。
顔は青白く引っ張った衝撃だろうか、首元には擦り切れた赤い筋が走っている。ロープも所々千切れていて、もう息はないんじゃないかと思わせる何かがあった。
「今、今助けてやるからな」
足をもつれさせながら自室からハサミを持ち出し、片腕を隙間に差し込んでロープを切る。ブチンと音を立て切断されたロープから、ずるりと床に倒れていくミスタを急いで持ち上げた。膝の上に乗せ、咄嗟に彼の胸元に耳を当て確認すると、僅かに鼓動が脈打っていた。
とくとくと血が巡る音が聞こえる。…彼がまだ生きている証拠だった。
きっと、衝動的なものだ。ロープではなくビニールロープを使っていた。それにこの方法よりもっと確実に縊死できる方法があっただろう。
「ミスタ」
彼の唇にそっと親指を添える。顔は蝋人形のように青白く、唇は紫色に変色し乾燥からかカサついていた。胸の中にミスタの頭を掻き抱く。
ポケットから震える手でスマートフォンを取り出し、エマージェンシーコールを押した。
ポトポトと一定の間隔で落ちる点滴を、長い間見つめていた。
安物のパイプ椅子に座り、手は互いをきつく握りしめている。握りすぎてもはや白くなっていた。
医者からは明日退院できるそうだ。私としてはもう数日くらい様子見の方がいいのではないかと思ったのだけれど。首元には大袈裟に見えるほど包帯が巻かれ、彼を一層病人たらしめていた。
昔を思い出していた。luxiemのメンバー五人でコラボ配信をした時のことを。五人でなんて事はないことで笑い合い、弄りあって、お得意の下世話な話で盛り上がって。何百年もの間生きてきた中で、何にも変え難いほどに大切な時間だった。楽しかった。あの時の自分が今の関係性を見たら、きっと鼻で笑うだろう。
『情けない』
と、一瞥するはずだ。今までだってそう大きなトラブルに発展することなどなかった。どんな魅力的な女性を抱いても、どんなに様々な人間と関係を持っても、全て上手くいなしてきたのに。…どうして彼のことになると上手くいかないのか。
「どうしてだろうな」
誰に問うわけでもなく、ただただ呟く。
ふと自分の体が震えていることに気づいた。気が動転していたから、上着も忘れてしまったのだろう。ミスタの左手を握るもどちらの手も冷たく、体温を分け合うことは叶わなかった。
「寒いな」
彼の手首に親指を置き、脈を測りながら体を震わせる。一瞬脳裏をよぎった。このまま彼を抱えて外に出れば、一緒に死ねるんじゃないかと。そしてミスタの気持ちが理解できたならいいのに、なんて思ってしまったのは墓場まで持って行こう。
窓の外には深々と雪が降っていた。
結局ミスタは自傷行為を止める事はなかった。退院してからも彼の体には生傷が絶えず、イタチごっこだった。
治しても治しても彼の腕や首、しまいには太ももにまで手を出してしまった時には思わず頬を叩いてしまった。頬を真っ赤に腫らし片手には剃刀を持って、ぼろぼろ涙をこぼす姿はいっそ哀れに思えた。
日がなぼんやりと日向で外を見つめている時間が、ほぼ半分を占めている。寒いからと窓を閉めても、いつの間にか開いている。きっとミスタ自ら開けているんだろうけれど、薄着のまま外を眺める彼がいつか凍死するんじゃないかと別の心配もあった。
相当、参っていたんだろう。だから彼の気配にもとんと気づかなかった。
「やあ、久しぶり」
ひょいと軽いノリで現れたシュウに声を呑んだ。
チャイムが鳴ったから、宅配便だと思ったのだ。まさか同僚が訪ねてくるなんて思っても見なくて。ピザを頼んだ。ミスタと一緒に食べようと思って、マルゲリータとコーンを一枚ずつ。アイツは子供舌だから、きっとコーンピザを機にいるだろうと思って、だから。
「ミスタ、いる?」
動かないヴォックスを気にする素振りもなく「お邪魔します」と一言、シュウは玄関をくぐり家に上がる。止めようにも体が固まってしまって動けない。何か声を出さなければと思っても、はくはくと息が漏れるだけだった。
玄関の扉に手をかけたまま、後ろでシュウがミスタの元へ向かう足音を耳が拾う。彼の足取りに迷いはなかった。まるでもうすでに彼の場所は知っているかのような。
通りを歩く人の目も憚らず、ずるずると玄関に座り込んだ。顔を両手で覆い、硬く目を瞑る。タイルの床は底冷えするほどに冷たかった。
今の自分には彼を止める術を持たないことを、もうわかっていた。今ここでミスタを手放さないと、きっともう戻れなくなることも。
近づく音に重い頭を振りかぶり、顔を上げる。彼の両手には、死んだように眠るミスタが抱き抱えられていた。
「ちょっと痩せたね、ミスタ」
何も言い返せない。その通りだったから。間違いなくミスタはピザを半分も食べられない。それを理解しつつ、現状維持を望んだのは自分だ。
「一度ミスタの様子を見にきたんだよ。君は気づかなかっただろうけど。本当にミスタが幸せならそのままヴォックスに任せようと思ってた。だけどぼんやりと外を眺めるだけで微動だにしないミスタが、本当に正常だと思う?僕に気づきもしなかった」
最後の言葉は思わず口をついて出たものだろう、消え入るような声だった。
走馬灯のように半年前の病院でミスタの手首を掴み、駆け落ちよろしく逃走したことを思い出す。あの時みたミスタの顔はりんごのように真っ赤で、自分の選択肢は間違ってない、そう思ったのにな。
「ヴォックス、君は悪くない。君はそういう生き方しかしてこなかった。ただそれだけだよ」
生き方に疑問を抱いたこともなかった。ただ必死に殺されないように、死なないように、飢えないように必死に生きてきただけだった。皆等しく愛してきた。皆、等しく。
震え呂律がうまく回らない舌をどうにか使い、彼に聞く。
「…どうして、ここに」
「心配だったから。一度連絡くれてから何も音沙汰ないから、突撃訪問ってやつ」
はにかんだシュウの笑みは、どこかぎこちなさを覚えた。きっと彼も計り知れない決意を持ってここに来たんだろう。もしかしたらもう五人で活動できなくなるかもしれないと思いながら。
…ただの憶測だけれど。
「ヴォックスは問題ないって報告してたみたいだけど、丸分かりだよ。ミスタは一向に復帰しないし、君はなんかピリピリしてるし」
ああ、申し訳ないなと思った。
隠しているようで丸見えだったのだ。ここ最近はミスタの体調に、己までも引きずられるようになっていた。
彼はミスタの様子を伺いながら、時折抱え直している。扉を開けっぱなしなもんだから、風が頬を撫で刺すような痛みを持ち始めていた。
「これ以上ミスタといると、共倒れするよ。もう、終わりにしよう。ミスタを引き取ってからヴォックスが変わったって、アイクとルカも心配してる」
真剣な面持ちで、こちらを見やる。シュウの言葉は、何一つ間違っちゃいなかった。昨日のルカとのコラボ配信で、彼からの過剰なまでの体調の気遣いはこのことだったんだな。なんて、情けない。
「また一緒に、配信をしよう」
最後にぽつりと『ミスタも一緒に』と言い残し、床に蹲る私をちらりと横目で一瞥する。それから振り返ることなく二人は雪の中を歩いていった。一段一段と階段を降り、ゆっくりと見えなくなる彼らをぼんやりと見つめる。
「…これじゃまるで、あの時と反対だな」
はは、と乾いた笑い声が空気に溶ける。これから来るであろう二人分のピザは、食べられることなく冷蔵庫行きだ。シュウもあの時、こんな気持ちだったのだろうか。残された方の気持ちなんて、当事者にはわかりはしない。
冷え切った体が悴み、吐く息は白い。立ちあがろうと腰を上げたけれども、足に力が入らなかった。
カラカラと笑う声だけが、周りに響く。
こうして男との同居生活は、唐突に終わりを告げた。
end