七九肩で息を吐き、そして身体中が熱された温石のようになっているのを感じる。
「·····熱、い」
暑い、熱い。
己の金丹はこんなに約立たずで愚図っていたのか。
仙師ともあろうものが、更に清静峰の主ともあろう自分が熱に脅かされてるなんぞなにも面白くない。
こんな哀れなそれでいて寝首を搔かれるであろう姿を弟子達には見せられないため有事の際以外は下がるように命じた。
(薬、はどこに置いたか)
朦朧とする意識の中、千草峰が置いていったであろう薬を探す。
投げ捨てられるでもなく、鼠のようにこそこそとせずに薬が与えられるなど昔では考えられない。本当に早くあの家を出ていれば良かった。
「あっ·····」
頭に激痛が走る。身体が動くな、死ぬぞと警告を告げているのがわかる。
熱さは苦手だ。
何年も前、昔に"約束"に縋っていた哀れな自分を思い出すからだ。目を瞑ればパチパチと目の端で舞い上がる火の粉と耳に囲っていた人間たちの悲鳴を思い出す。
もう彼処に沈九はもういないのに。
その場所だってもう無い。
やっとのことで身体を起こそうとするとずるりと寝台から支えていた手がずり落ちるのがわかる。
落ちる、と思った瞬間がしりと身体が抱き抱えられている。
「沈師弟、動けるようになったのかい」
熱でばくばくとした鼓動音が邪魔してよく聞こえない、身も心も預けたくなる声がする。
強ばっていた身体を解く。
「まだ意識ははっきりしていないんだね」
そっと寝台に戻されゆっくりと水差しから口に冷たいものが差し込まれるのを感じた。気持ちが良い。
こくこくと水を飲み、そして突然口の中に苦味が広がり眉頭を歪ませる。
「苦いだろうけど、彼の薬はよく効くからね」
すうっと苦味が消えたかと思うと眉間のシワに角張った指の感触がする。
なんだか昔見ていた夢のようだった。
隠されたところに付けられた傷は雨雲が月を隠す晩、それは酷く暴れだした。
叱責された付け根から雨音が責めるように傷がグズグズと疼き出す。そこから持って出てきた熱が足の芯に響いてくる。
(嗚呼この痛みはいつ終わるのだろうか)
そんな夜は七哥が迎えに来てくれる夢を見る。
寝床の扉がガラッと開いて、待たせたね。よく頑張ったよ、心配させてごめん。そんな柔い言葉を吐きかけながらあの頃より大きくなったあの人が自分を連れてどこかに連れ帰ってくれるのだ。
実際は扉は開くことはなく、倉庫から盗んできた薬をせっせと塗り、夜だけが空けていく。
愚かしい夢だった。
今あの夢と似た感覚を額から感じる。
(またあの夢を見ているのだな)
自分に対して落胆を抱きつつ、夢の中ならばと横にあった自分のものでは無い袖を掴む。
頭上から驚いたような反応が返ってくるが、ここは夢だ。
「七、哥」
少しくらい清静峰の沈清秋じゃなく、沈九として夢の続きを見たって構わないだろう。
もう死んだあの頃の自分が、約束をしてくれた死んだあの人の名前を呼ぶ。
やはり私は愚かで浅ましい。なんと滑稽だろう。
額から流れてきていた霊力が一瞬止まり、そしてまた広がってきた。
「·····なんだい」
あの頃と同じ、戸越しに聞いた声が返ってくる。
今日の夢は都合が良い。ふ、と口元が緩むのを感じた。
「隣に」
いて欲しい。あなたの隣でずっと居たかった。
別に名をあげなくても隣にいてあの酷い所から抜け出せたら良かったんだ。私を置いていかないで欲しかった。
全部今なら言える気がするのに熱で約立たずの舌は回らない。いつもは要らないくらい回るのに。
ただ指は舌より言う事をきくようだからしっかりと握りしめた。
「いいよ」
本当に?何も良くないんじゃないか。
兄弟なんて接し方がわからない。たまにはいい事をしようとしたけど上手くいかなかった。
貴方が目をかけた男が居たから引き入れたけど、何でも持っている男から奪ってはいけないんだろうか。私が隣に立てなくなるかもしれないのに。
隣に居たいのに全部上手くいかない。
「おやすみ」
ゆっくりと厚くなった手のひらが自分の髪を梳き、安心して意識が遠のくを感じる。
いつもより深く眠れそうだ。
そうだ、この熱が治まったらもっと金丹を練ろう。
そして熱なんかに脅かされないようにして、もっと強くなろう。
そうすれば貴方がどんなに高い所に居ても登れるだろうから。
(願わくば)
沈九と七哥は隣に立てなかったけど、沈清秋と岳清源は隣に立てるように。
◇
ハッと意識が覚める。
蓮の花がいくつも見え景色は穏やかで幻想的だ。
ここはどうやら見慣れた竹舎ではない。
(どういう事だ)
ザアと風が通る音が聞こえる。
大きな蓮の上に自分は立っているらしい。
「は·····」
はははと高く、高く笑うしかなった。
(沈清秋は死んだのだ!)
それも魔族との戦いに敗れた訳でもない、愚かな弟子に誅殺された訳でもない、凡人でもかかるような熱なんかで、仙師が死んだのだ!
なんと滑稽で愚かで笑えることだろう!
叶わないだろう約束を待ち続けて、待つのに飽きたので自分の脚で出ていき、周りを蹴落としてまで足掻いたのに、こんな事で!
「ははは·····」
かつての沈清秋を知るものがそこに居たら驚いただろう。何故ならいつも飄々と涼しい顔をしている彼は笑いながら泣いていたのだから。
私は結局、凡人だったのだ。
あの秋の家となんら変わらない、燃やしたはずの居場所を思い出す。あの愚かな男が言った通りだったのだろう。
死んだということはもう淡い夢すら見ることが出来ない。ひとつおかしい事があるとすれば私はまだ地獄の業火に焼かれていない事だ。
(こんな所に私が来れるとはな)
それとも地獄でも夢を見ているのかもしれない。
「泣かないで」
背中から声がする。
やはり夢だったようだ、だって。
「七哥」
「やっと迎えに来れた」
待たせたね、よく頑張ったよ。何度も繰り返し聞いた声が聞こえてくる。
「もっと早く来たかったんだけど」
あれから幾許も経ってしまった、と聞かされた。
岳清源ともあろうものがそんなにすぐ死ぬものか。と皮肉を垂れると嗚呼そうだね、と悲しそうな、そして嬉しそうな顔で笑った。
「やはり君はもう」
「黙って」
なにかまた謝ろうとする唇を手のひらで隠す。
もう謝られるのは懲り懲りなのだ。
「迎えに来た、そうだろう」
多分自分の知らない何かがあって今自分はここに居て、そして彼もここに居る。もう遮る戸もないのにすまないという言葉は聞きたくないのだ。
もう事実だけがそこにあればいい。
「行こう」
その後の事もわからない。以前のこともわからない。でもまた会えたのだから。
約束を果たしたただの七と九は歩けば良いのだ。