記憶の灯り 雲深不知処に戻って来た思追は、部屋の扉を閉めると急激に疲れを感じた。義城での事件は、思追達にとっては初めてのことばかりで目が回るようだったから、疲れ切っているのは確かだ。
「はぁー……疲れた」
「もう景儀、そのまま寝ないでよ」
先に部屋に入った景儀がそのまま寝台に倒れ込んでいるのを見ながら、旅の荷物を片付ける。そして、持ち帰った灯篭を枕元に飾ろうとして、置き場所に悩んでいると景儀に後ろから声を掛けられた。
「飾るのか。律儀だな」
「だって、含光君からこんな風に何かを頂くのは珍しいし」
「まぁ、確かにそれもそうだな」
灯篭に描かれている兎を見ると、含光君が日頃から慈しんでいる兎達を思い出して頬が緩んでしまう。この灯篭を手渡してくれた時の含光君の顔を思い出すと、思追はどこか懐かしい記憶が引き出されるような気がして胸に手を当てた。
義城から麓の街に降りてきた頃には往来には明かりが灯る時刻になっており、人の活気があることに思追はホッとしていた。そんな思追の様子に気付いているのかいないのか、隣を行く景儀は色とりどりの灯篭に彩られた街の様子に、見るからに浮足立っている。
「なぁ、せっかくだし夜市を見ていこうぜ!」
景儀がはしゃいで言うのに含光君もいるのにそんな遊ぶようなことをして良いのだろうかと判断に悩み、思わず含光君を窺うように見てしまった。すると、莫先輩が早速露店の品物を物珍しく手に取っているのが目に入り、ついで含光君もその姿を目を細めて心なしか口元を少し緩めて見ているのが見えて、息を呑んだ。
そんな思追を振り返った含光君と目が合い、慌てて拱手する。
「含光君」
見てはいけないものを見たような気がして顔を上げられずにいると、含光君は急いでいるとばかりに声を掛けてきた。
「思追」
「はい」
顔を上げると、含光君は歩きだした莫先輩について歩を進めるべく既に体を半分後ろへ向けていた。
「後程、宿で合流にしよう」
「わかりました」
思追が答えると、景儀が軽く肩をぶつけてきた。
「なぁ、俺たちもあっちを見に行こうぜ!」
人混みに消えていった含光君と莫先輩の後ろ姿をどこかで見たことがある気がしたのは一体どうしてなのだろう。
「う、うん……そうだね」
景儀に早くと促されて思追は不思議な既視感に頭を振ってから、景儀の後を追った。
景儀達にそんなものを買うのかと言われながらも夜市で買った蝶の玩具を懐に入れて宿に辿り着くと、まだ含光君と莫先輩はまだ来ていなかった。
「思追は何か買ったのか?」
「……うん」
合流した藍氏の子弟に聞かれて、思追は小さな子どもが欲しがるようなものを買ったことを言うべきか悩んでしまった。
「あっ、含光君!」
その時、含光君と莫先輩が現れてその場にいた各家の子弟達は含光君へと拱手する。含光君と莫先輩の二人が並んで帰って来る姿を目にして、思追はどうしてか少しばかり動揺していた。どうしてだろうと思う前に灯篭を手渡されながら見上げた含光君の顔は普段と変わりがないようなのに、いつか似たようなことがあった気がする。靄がかかったままの柔らかくて懐かしい覚えがない記憶に、胸が痛くなった。
「おっ、おい、思追どうしたんだ? どこか痛むのか?」
景儀の声に我に返った思追は、驚いて顔を上げた。
「どうって……?」
いつの間にか近くに来ていた景儀が見たことないくらい慌てているので、思追は首を傾げた。
「ほら、えーと……これで拭けよ」
くしゃくしゃの手拭きを渡されて、自分の頬が濡れていることに気付く。
「ほんと、どうしたんだ?」
溢れてしまった涙を袖で拭ったが、自分がどうして泣いているのか良く分からなかった。
「何でも無いよ」
「急に泣き出して、何も無いってことはないだろ?」
確かに景儀の言う通りだけれど、どうしてなのかが思追にも分からなかったから。
「本当に何でもないから。大丈夫」
思追が袖で涙を拭いながら答えた。未だに滲む兎の絵を見ながら、景儀にどうしてと聞かれたところで思追に答えられる言葉は無かったから答えられることが無い。
ただ、どうしてかは分からないけれど、靄がかかったような記憶のどこか、知っているような何かが、思追の失った記憶を揺り動かしているのかもしれなかった。
「……どこも痛くないし、大丈夫だから。ほら、疲れてるんだし今日は早く寝よう」
手渡された手拭きをありがたく返しながら、彼の寝台の方へ景儀の背中を押す。
「まぁ、それならいいけどさ」
まだ納得はしていなさそうな景儀だったけれど、それ以上は何も聞かずにいてくれそうで助かった。
はぁと一息ついてから枕元に灯篭を置き、その隣に懐から蝶の形の玩具を取り出した。雲深不知処でこの玩具で遊んだことがあったのか、思追には分からない。
いつかこの焦がれるような懐かしさの正体を知ることはできるのだろうか。自分も早く身体を休めなければと、兎の灯篭の隣に蝶の玩具を置いた思追は、二つを愛おし気に眺めてから、景儀に見つかれないように溢れた涙をもう一度袖で拭ったのだった。