やがてとけゆくひとひらの。 体力育成からの昼休みとあって、着替えもそこそこ、我先にと更衣室を飛び出していく生徒が多いのは理解できる。
しかしアイツに限っては、大食堂で目当てのメニューを奪い合う必要などない。今日も俺の用意した昼ごはんがあることだって知っている。だというのに、校舎外での防寒用にあつらえたアウターに袖を通させたと思った時にはもう、舞うように更衣室から駆け出していた。
慌てて制服を雑に着て後を追うすれ違いざま、
「過保護っスねえ、シシシ」
肩を揺らしてラギーが笑う。
その目は意味ありげに、俺の手が引っ掴んだマフラーに向けられていた。ふんわり風に舞うほどの風合いに反して、懐炉でも握っているかのごとく暖かな素材の品質が、ハイエナの目にもそれとなく伝わったのだろう。
カリムを思い遣っての過保護じゃない、奔放と知れている主人に風邪を引かせたとあっては、俺自身の保身にかかわるからだ。
きっちりと説明したい気持ちはあれど、いちいちの揶揄に足止めを喰らうのももどかしく、
「違う」
否定だけを言い捨てた声と並んで、またまたあ、と言わんばかりに下げられる目尻。
あのホリデーを経てもなお、俺が自主的にカリムを追って駆けずり回っているかのような誤解で憎々しい思いをさせられるのは、もはや慣れっこだ。と、言いたいところだが、腹立たしいものは、やはり腹立たしい。それもこれも、カリムのせいだ。
こうして後を追う羽目になったのも、熱砂にはない冬場の気候に体調を崩さぬよう、汗は拭いたか肌着は着たかとアイツの身支度を優先してやって、俺の着替えは後回しになったせいなのだから。
昼食どき、しかも曇天とあって、メインストリートの入り口は人影もまばらだ。
アイツはそこで、ぽつんと空を見上げていた。
空きっ腹を鳴らし一足先に駆け出た生徒たちの群れは遥か遠く。ラギーも同じく、大食堂を目指して、さらに向こうの校舎へと駆けていってしまった。後から続く生徒たちも、一人、また一人と、寒さに背を丸め、よそ見もせず、俺を、カリムを、追い越していく。
「カリム!」
呼びかけに応えた赤い瞳が俺を捉えるより早く、首にかけてやった白いマフラーに、ほんわりと重なる白い呼気。
「へへ、ありがとうな」
「何を見ていたんだ?」
二重に巻いてやりながらそう尋ねたのは、面白みなど微塵もない灰色の雲が、学園上空いっぱいに垂れ込めていたからだった。
しかしカリムときたら、
「あのな、雪の匂いがしたんだ」
などと、問いかけとは無関係な答えを返す。
「は? 雪に匂いなんてあるか?」
「あるぜ、ヴィルが教えてくれた」
「ヴィル先輩が……」
彼の故郷はたしかに、輝石の国の中でも雪深さで知られる地方だった。また突拍子もないことをと、混ぜっ返そうとしていた俺の言葉も、信憑性のある裏付けによって止められてしまう。
「だからオレ、ここんとこ雪が降り出したら匂いを嗅いでみることにしてたんだ。きっともうすぐ降るぜ!」
茹でたての芋みたいに、白い息をいくつも吐き出して、アイツはまた曇り空を見上げる。さっき見つけた時と、そっくり同じ角度で。
言われてみればなるほど、犬のように鼻を利かせながら、最初の一欠片を見逃すまいと目を見張っているのがわかる。
毒の嗅ぎ分けに長けたコイツが、降りはじめの雪の匂いを覚えたと言うのだ。それも、降り出すたびに懸命に空気を嗅いで意図的に覚えたのだと。
おそらくこれから、雪は降るのだろう。
確信したそのとき、俺は結びかけていたやわい布地を引き寄せていた。
それは、カリムが更衣室を飛び出したときよりも、ラギーに揶揄われたときよりも、もっと壮絶な憤りがこみあげたからだ。
こいつの鼻が利くようになったそもそもの理由のせいで。俺も知らぬことを他人から教えられ、会得できたと誇ったせいで。
それから、寒空の下も厭わず飛び出したのはきっと、俺に見せたいとか思いやがったに違いないと推測できたせいもあって。
——つまりは全部、カリムのせいだ。
凍ったように冷たかった薄い唇に、俺の熱がうつっていく。瞼を閉じることなく見据えた瞳の前で、赤い瞳がぱちりと瞬きをする。
その全てに、こんなにもホッとするのもカリムのせいだ。こんなことでホッとしている俺自身に、こんなに苛立つのもぜんぶ。
ぜんぶ、カリムのせいにできたならよかったのに。
冷えた髪飾りが触れるこめかみに、髪飾りとは違う冷たいものが落ちて消える。
最初のひとかけを、コイツから教えられなくてよかった。
最初のひとかけを、コイツに見せてやれなかった。
自分自身の真意なのに、告げる言葉をどちらとも決めかねて、俺はまだ重ねた唇を離せない。