主従は鏡ほどに似る・
琥珀色のガラスボトルは、ジャミルが調合してくれたボディオイルだ。その隣に並ぶ真っ白な陶器のボトルと、揃いの菫色のボトルは、ヴィル特製のボディミルクと化粧水。
自室のシャワールームを出てすぐの、マホガニーのローシェルフの前。モザイクガラスのランプが落とすオレンジ色の灯りの下。うーん……と漏れたオレの声と、濡れ髪から滴る雫を、肌身にかけたバスタオルが吸い込んでいく。
ヴィルに教えてもらった順序じゃあ、化粧水をつけた後にボディミルクなんだっけ……で、ジャミルがオレにこのオイルを塗ってくれた時、ボディミルクは使ってなかった気がする……けど、肌に触れられる気持ちよさと、なんだかふわふわした心地もあって、んふっ、よく思い出せないうえに胸がこそばゆくなってきた。
VDC前にオンボロ寮で合宿をするまで、自分自身で風呂上がりのボディケアをしたことはなかった。
実家で、なんだかんだと塗りたくってもらってたものも、その世話も、使用人たちの務めなんだろうし、ありがとうって受けとって労うのが、オレの務めなんだと思ってた。いいや、心のうちを説明するならそんな言葉になるってだけで、アルアジームとしての身だしなみを世話してもらうことは、日常に過ぎなかったってのが正直なとこだろう。
それよりもっと、考えが足りてなかったんだなって振り返るのは、スカラビアに来てからのことだ。
入浴や洗顔の都度じゃないにしても、乾燥や火傷なんかで肌を痛めてるときには、ジャミルもオイルだかクリームだかを何かしらと塗ってくれていた。それを、優しさだとか、友情だとか、いいヤツだなあとか、やっぱり深く考えもせず受け取っていたのは、「してもらって当たり前」だと思っていた証拠に他ならない。
化粧水のボトルと、ボディミルクのボトルの蓋を、かわるがわる開けては香りを確かめる。やっぱり、化粧水は成分特有の匂いが微かにあるだけだ。けれどミルクの方には、ラベンダーを軸にしたフローラルな香りがつけられてる。
ジャミルが作ってくれたオイルからも、サンダルウッドやシナモンなんかの、熱砂で馴染みの成分が香りたっていた。それぞれどんなにいい匂いがしていても、違う香りを重ねづけするもんじゃないだろうってのはオレでもわかる。
ヴィルの化粧水はきっと、ヴィルのボディミルクが合うように調合されてる。だけど、ジャミルが作ってくれたオイルを使いたい。ジャミルのオイルを使うなら、ヴィルの化粧水をつけるのは先か後かそれとも不要なのか……うーん。蓋を開けては閉めて、ボトルを置いては手に取って、オレはまた唸る。もう寝るだけなんだし、やっぱまとめて全部つけちまおうかなあ。浮かびかけた安易な思いつきに、飛びつかないよう首を振る。
オーバーブロットまでしてジャミルが伝えてくれた本心は、そりゃあ衝撃だった。けれどその衝撃を受けて、じゃあオレに何ができるのかって気づかせてくれたのは、あの合宿なんだと思う。
自分のためになることを、自身で自分に施すこと。
ヴィルが「ヴィル・シェーンハイト」であるため必要なものを自身に与えてきたように、オレだって、アルアジームに必要なものを、自分でも施すことができるはずだ。デュースやエペルが、ヴィルを見返せる強い自分になるために、自身を磨いていったように、オレだってもっとオレを磨いてやれる筈なんだ。
その一環として今日のオレは、あんまり使っていなかった寮長室のシャワールームに、一人で入ることにした。
なぜって、オレが寮生用のシャワーやバスを使うとき、当たり前のようにジャミルが一緒にいてくれたのだって、当たり前なんかじゃなかったって気づいたからだ。
オレの編入に合わせてスカラビアを改築した際、ブース型のシャワールームはその数を三倍に増やし、ハマムとでっかい湯船も増設された。
以前がどれほど不便だったのか、オレは知らないが、順番待ちをせずシャワーが使えるとか、大きなバスやハマムは他の寮生と居合わせたってゆったり入れるだとか、感謝してくれる声を何度となく聞いてきた。
オレ自身も、スカラビアの大浴場が大好きだ。皆が喜んでる、ピッカピカで広いってとこよりも……まあ、実家の浴場に比べりゃどこもかしこもちまっこいんだけど、そんなことより、寮生たちのリラックスした顔が見られるってのが一番の魅力だ。
寮長になる前はもちろんオレも使ってたし、この寮長室に越してからだって、備え付けのシャワーをあんまり使わなかった理由はそこにある。
学校や談話室で見るのとはまた違う、寮生たちの表情。くつろぎ戯ける楽しそうな声。連れ立ってハマムやバスに出入りしたり、シャワー後にたむろしたりして、悪ふざけするのを見てるだけでも、すげえ楽しくって嬉しくって……ああ、思い出したら、ちょっとだけ覗いてみたくなってきた。
先に行っててくれ、って送り出したジャミルも、そろそろ風呂を出るころだ。オレが来るまで待ってるだろうし、みんなの顔を見るためにも、早くスキンケアを終わらせなきゃな。
アイツには、オレの身の安全だとか世話だとか、なあんにも気にせず、シャワーでもハマムでもバスタブでも、好きなものを好きなだけ使ってもらいたいんだ。寮生たちのリラックスした姿が大好きなんだ、って言いながら、ジャミルにだけはその癒しも憩いも存分に味わわせてやれてなかったんだから。
「そりゃあどうも、お優しいことで」
「うひゃあ⁉︎」
突然の声と被せられたバスタオルに、オレは飛び上がる。
わしゃわしゃと髪をかき混ぜる、湿った感触。頭と目の前を覆っているのは、広げて肩から身にかけてたバスタオルだ。
「うひゃあ、じゃ、ないんだよ、いつまで経っても、来ないと思ったら、こんな、裸同然の、格好で、ノックしても、近づかれても、気づきもしなくて、俺が刺客だったら、どうするつもりだ!」
タオル越しでもわかるやさしい指遣いに反して、低く力強く叩きつけられる声。以前だったら、怒らせちまったーって感じてただろうその声音の中、喉奥で震える苦い響きが今は伝わってくる。ごめん、ジャミル。またお前を不安にさせちまった。少しでも震えを拭ってやりたくて、オレはできるだけ明るい声を出してやる。
「ごめんなあ、心配かけちまって!」
「謝るくらいなら、出来もしない我慢をするな」
「我慢って」
「お前の安全だの世話だのを気にせず、好きな時に好きなだけ寛いで欲しいと望むなら、風呂上がりの無防備な格好でボケッとするな。それができないなら、我慢せず一緒に大浴場を使え、それも嫌なら俺がこの部屋にいるときにシャワーを使え」
「それじゃあジャミルが……って、なんで知ってるんだあ」
「ぜんぶ口から出てたぞ。言葉にすることで考えがまとまる時があるのはわかるが、次期当主としては直すべき悪癖だ」
ふん、と鼻を鳴らす音とともにタオルが取り去られて、思ったほど不機嫌でもなさそうな皮肉顔が目の前に現れた。
片方だけ持ち上がった眉に、歪んだ唇の端っこ。言いたいことを言いきった後の、この顔つきがオレはけっこう好きだ。ヴィルに言わせりゃ「悪い男」の顔ってヤツなんだろうけど、言いたい放題の内容によっちゃ腹が立つときだってあるけれど、返す言葉が吹っ飛んじまうくらい、心臓あたりがドキンとする。
「何をニヤニヤしてるんだ、気持ち悪い」
「え、いや、へへっ」
気持ち悪いって言われてるのに、その嫌そうな目つきは悪ガキめいてて、懐かしくってなんだか可愛くって、さらに気持ち悪がられそうなくらいほっぺたがゆるゆるになってく。けれど、しっかり水を拭えているか確かめるように、大きな手指でくしゃりと髪を混ぜられただけで、続く悪態は聞こえてこない。
よかった、ひとまずは安心してくれたんだな。って、オレもホッとして、
「裸ってわけでもないぜ、ほら、ひとまず下だけは履いておいたし」
どや、っと片足をあげ絹のルームウェアをひらめかせて見せたら、
「はあ? びしょびしょじゃないか! 新しいのを出してやるからすぐに脱げ、ほら今すぐに」
途端にアイツは顔色を変え、クローゼットに駆け寄り替えのルームウェアを取り出した。そうかなあ。オレは両手でパンツを摘んで、広げてみたり、パタパタとなびかせてみる。
「びしょびしょ、ってほどでもないけど」
拭き残しの水でも吸ったのか、多少の濡れた感触はあれど、水浸しってわけじゃあない。ツルツルの生地の心地よさは変わらないし、吸った汗だってすぐに乾くんだから気にもならないし、
「軽くみて風邪でもひいたらどうする。脱いで乾かしおくだけだ、手間でもないことを面倒くさがるな」
「はーい」
もちろん面倒くさがってるつもりだってないけれど、風邪をひかないようにって気遣いを無碍にはしたくない。素直に脱いで、ジャミルから渡されたルームウェアに履き替える。こっちも同じ色柄、同じデザインのシルク製だ。
「こら、こっちも」
両手を通せばスポンと着られるよう広げた上衣の裾を突き出され、
「待ってくれ、ジャミルのオイルを塗ってから着ようと思ってたんだ!」
後ずさるようにしてローシェルフへと身をひねり、オレも琥珀色のガラスボトルを突き出した。
「……つまり、俺に塗れ、と」
「じゃなくって、自分でやるつもりだったんだけど……だけど、まあ、」
答えかけたオレの唇が、勝手にふわふわと言葉尻を濁してく。
このオイルを塗ってくれたジャミルの、手のひら、その厚さと硬さと、肌を滑る感触。どきどきと騒ぐ胸、なのに甘やかな心地よさ。身体の内にも外にもよみがえって、妙な汗がじわりと肌を湿らせて、
「えっと、やっぱり今日は、ジャミルに塗ってもらいたい、な……」
浮わついた変な声で、そう頼んじまっていた。本当に、そんなつもりなんてなかったのに。
「今日も、の間違いじゃありませんか? ご主人様」
「くぅ〜……っ、意地悪言うなって……」
呆れられるかと思ったのに、意地の悪い声はそのくせ柔らかくって、胎の底をなんだがそわそわとさせる。言い返してやるぞと強めた声も目力も、ふにゃふにゃと頼りなくなりそうで、代わりに、ドン! と、アイツの胸へ顔を押し付けた。
裸の背中に、おっきくてやさしい手が触れる。子供を宥めるようにさすられて、情けないのに、胸は勝手にキュウッてなったりどきどきしたりで落ち着かない。焦りのような、熱のような、たまらない感覚に、掴んだガラスボトルと、ジャミルの匂いがする柔らかなルームウェアをぎゅうと握り込んで……
「ん? なんか変だぞ」
指先が拾った違和感に、ふいと顔をあげた。
「っわ! 急に顔を上げるな!」
「だけど、お前この服……」
鼻と鼻とがくっつく目の前で、まんまるくなってる灰色の瞳を覗き、それからオレは、アイツの脇の下を引っ張るように潜るようにしながら、その身をくるりと回す。
「ほら、やっぱり。ほつれてるぜ、襟の下んトコ」
長い黒髪を指でよけ、ジャミル気に入りのルームウェアの、金と黒とでカラーリングされた襟ぐりのあたりをよく見てみる。ちょうど首の後ろ、背中の布地との繋ぎ目に、小指の先くらいの隙間が空いていた。
ゆったりとした作りではあるけれど、身ごろや袖がきっちりと縫い合わされてる既製品だ。生地を握って引っ張れば、襟までぐいっとついてくるはずが、妙な感触だと思ったのはこのせいだろう。
「気づかずにもっと引っ張ってたら、もっとおっきくほつれさせちまってたかも。ごめんなあ」
「とか言いながら指を突っ込むな、穴が広がるだろうが!」
「広げてないぜ、見えないだろうから、ココだぜってつっついてやってるだけだ」
「見えないから心配なんだ、お前の『つついただけ』なんて力加減が信用できるか」
「ひでえなあ、じゃあ自分で見てみろよ」
ぷくっとほっぺたを膨らませるオレを、何か言いたげにチラっと睨んだかと思えば、ジャミルはさっさと服を脱ぐ。
「……まだお前に服を着せてないってのに、なんで俺まで脱ぐ羽目に……なんだ、これっぽっちのほつれで大袈裟な」
「オレの服がほつれてたら大騒ぎするくせに」
「アルアジームの身だしなみと、一従者の部屋着を一緒にするな」
ちょっと縫えばすぐに直るから気にするな、と、さっさと脱いだ服にまた袖を通し、背中に潜った長い髪をするりと抜いて整える。
「何をぼーっとしてる。オイルを塗るんだろう、そこに掛けろ」
「お、おお。頼むぜ……」
しなやかな仕草に見惚れてたオレにスツールを示して、アイツは琥珀色のボトルを受け取った。言われるがままに腰をおろし、まあ、見惚れてたってのもあるんだけど……耳に残ったジャミルの言葉を、胸の内で繰り返す。
ちょっと縫えば、すぐに直る。
そんなふうに、気に入りの服を、アイテムを、日用品を、大切に使う男なんだよなあ、って。
アルアジームの身だしなみと一緒にするな、なんて言うけど、ジャミルだって、アジームの従者に相応しい身なりを心がけてるのを知ってる。
ひと目に触れる仕事着やアクセサリーはもちろん、長い黒髪も、艶やかにケアして、いつも綺麗に編み上げてるし。いまさっきしたように、さっさと脱いでさっさと身につけるだけの仕草だって、品よく磨かれてるってわかる。
その一方で、アイツはあのカジュアルなルームウェアを、直して着るくらい愛用してるんだ。
既製品ではあるけれど、厚みも布目もしっかりとしていながら肌ざわりの柔らかな生地は良い物だ。オレのルームウェアが洗い替えも同じなのは、オレが選んだ布であつらえてくれたオーダーメイドだからだけど、ジャミルも同じように、あのルームウェアの洗い替えを持ってる。それくらい気に入ってるってことだ。
「ジャミルはすごいなあ……」
「今度はなんだ。ほら、先に化粧水をつけるぞ」
「そっか、オイルを塗るときも化粧水が先か」
「顔に塗るから黙ってろ。目も閉じて」
「はーい」
文房具に、生活雑貨、調理器具。ルームウェアの他にも、直してでも愛用してるものがあったよな。幾つあったっけ、どんなところが気に入ってるんだ、って、訊きたかったけどきっかけを失った言葉たちが、目を閉じて暗くなった世界のなか手を繋いで輪になってぐるぐるとダンスを踊る。
そんなジャミルに、ひとまずは傍に居るって決めてもらえたオレは、幸せ者だ。
ジャミルが選んだのはオレ自身じゃなく、アジームの力や、アルアジーム第一の従者であることや、愛する熱砂の国だってわかってるけど……、でも、でもいつかはその中に、オレ自身の魅力も仲間入りできるようになりたい。
そのために必要なものを、オレはオレ自身に施して、磨いて、いつかはジャミルに負けないくらいピッカピカに輝くんだ。それでもたまに縫い目がほころびちまったときには、『まったく、しょうがないな』って悪態をつきながらでも傍に居たいって思えるようなオレになるんだ。
必ずなるからさ、もう少しだけ、待っててくれよな。
……いったい、何を考えているのやら。
おとなしく目も口も閉じて身を委ねてる主人の、うっすら笑みが浮かんだ間抜けヅラに、化粧水をとった手のひらを押し付ける。
ヘアターバンで前髪を上げた、まあるい額。こめかみ。大きな瞳を覆うまるい瞼。から、鼻筋を通って、ちょんと突き出た鼻の頭。にやにや、ふくふく、とまあるく持ち上がっている頬(どうせ愚にもつかないことを考えているに違いない)を包んだ後は、指の腹でマッサージを施しながら、耳の付け根からからピアスのない耳たぶまでを優しく揉みこんでいく。
ヴィル先輩には、化粧水によってはコットンも使用するよう教えられたが、こうして手指で揉みほぐされるほうが、カリムは好きなようだ。耳元からリンパを流すようにして、おとがい、首筋をたどって鎖骨から肩の先まで、化粧水を足しては潤していく。
「痛くはないか?」
肩と腕との境、骨の尖ったあたりをさすりながらそう尋ねたのは、少し前に、飛行術の授業で痛めた箇所だったからだ。
「ああ、もうなんともないぜ」
顔のケアが終わったことに気づいたカリムが、大きな目と大きな口を開けてカラッと笑う。おまけに、ほらな、と肩をぐりぐり回してみせた。
置いたままの俺の手のひらには、肩と腕の骨とが滑らかに可動しているさまが伝わってくる。
ほっと胸を撫で下ろし、首の後ろにも、そして背中へと化粧水を足しながら、
「治ったならいいが、少しでも痛みや違和感が残るようなら隠さず言えよ。いいな、隠さず、だぞ」
あらためて念を押した。わかったぜ! と返ってきた気前のいい声を聞いても、腹の底では灰色の感情がもぞもぞ蠢き続けている。
「怪我や体調に限った話じゃないからな。シャワーだろうが、スキンケアだろうが、一人でやろうと挑戦する気概自体が悪いことだとは言わないが、隠すのは駄目だ。何かがあってからじゃ遅い。何もなくたって、前もって聞いてさえいれば、大事が起こる前に防ぐことができるだろう」
手を動かしながら説教をしているのか、説教に合わせ手が動いてしまうのか、自分でもわからなくなる忙しさで手と口を動かしていたら、
「ぅう、ジャミルぅ、ごめん、なぁ……」
やけにしおらしく喉を震わせるから、幼子を叱りすぎたかのような罪悪感に襲われた。くそっ、俺は悪くないだろう。だいたいコイツ、同い年の高校生だぞ。いたわしく感じる必要なんてないのに、とか。だからお前と話してるとイライラするんだよとか、胸の内に湧きでる不服と並行して、
「まあ、あの授業では、お前にしちゃ周りを見ていたと言うか、お前にしちゃよくかわせた方だと言うか、墜落もせず、軟着陸ができたところも、以前に比べれば上達したとは言えるが…」
慰める言葉も、口から自然に出てきてしまう。
カリムが肩を痛めたのは、いわゆるとばっちりというヤツだった。
定められた間隔を維持しながら、複数列での飛行を続けるという指導のなかで、近づきすぎだの、そっちが悪いだのと、揉め出した奴らに巻き込まれたのだ。
後方で列を作っていた俺が騒ぎに気づいたのは、今まさに互いを引っ掴もうと、奴らが手を伸ばしあった瞬間だった。
バカ、そんなことしたら、後続を飛んでるカリムが衝突する!
そう声を上げ、自身の列から飛び出そうとして、目の前をフラフラと飛んでる下手くそに進路を妨げられる。
事態に気づいてはいたようで、カリムは右に避けようとしたが、隣の列へとぶつかりかけ、また左に戻ったせいで避けきれず巻き込まれそうになった。咄嗟に高度を下げ彼らをかわそうとしたところで、俺は真っ青になって、後を追うようにして一目散に地上を目指した。カリムの飛行技術では、急な進路変更と急降下に対応しきれない。コントロールを失って地面に真っ逆さまだと確信していた。
錐揉み状態で落っこちてくるかもしれないカリムを受け止めるため、下方に風魔法を起こしておく。多少は緩衝材になればいいが、と願いながら飛び込んだ俺の目に映ったのは、斜めに傾きつつも箒にしがみつき、「いいぞ、その調子だ、がんばれ!」と話しかけながら(絨毯じゃあるまいし、授業用の箒に語りかけても効果はないが)わずかながらも確かに緩やかに、速度を落としていくあいつの姿だった。
最終的には俺が受け止めながら地上に降り立ったが、想定以上に穏やかな軟着陸を果たすことができた。カリムが痛めた右肩は、どこかにぶつけたわけでも、地面に叩きつけられたのでもなく、無理な姿勢で箒にしがみついたせいで捻った程度のことだった。
一人で無理や隠し立てをするな、という説教も、飛行術の一件で成長を見せた、という評価にしても、俺は間違ったことを言ってはいない。
言いすぎただのと謝ることも、褒めすぎたと撤回する必要もない。だが、どちらかに偏った感情を、相反する言動で偽装するのはたいして難しくはないのに、どっちつかずの感情を処理しながら言動を一致させるのはなかなかに骨だ。
隠しきれないため息を、ふう、とついたところで、ようやく俺の手と口が止まる。
ごめんと呟いたきり何も言わないカリムを不思議に思って顔を覗き込めば、真っ赤な頬に、溢れそうな水を湛えて潤んだ瞳。声どころか、ふうふう漏れてる鼻息までもが震えている。
「ど、どうした、やっぱり肩が痛むのか、どこか強く揉みすぎたか、それとも……」
叱りすぎたか、褒めすぎたか……とは言いたくなくて言葉を濁した俺に、あいつはぎゅうっとしがみついてきた。
「ち、違うんだ、オレ、気持ちよくて、もう、胸とか、腹も、もう、ジャミルの手、すごくて、オレ、もうムリだあ……っ」
「はあ⁉︎」
のぼせた顔を見られたくないってことか……? ぐりぐりと押し付けられる頭と顔をそう理解して、やれやれと両手を挙げる。降伏する犯罪者じゃあるまいし、なんで俺がこんな体勢を……とは思うが、俺に触れられるのが無理だとかいう戯言が落ち着くまで、不用意に触れて事態を悪化させたくはない。
ぎゅうぎゅうとしがみつく主人の背中を見下ろし、滑らかな皮膚に残る幼さや、綺麗に並ぶ骨のおうとつを、数えるように眺める。塗れといったり、急にやめろと言ったり、腹が立つところも困ったところも山ほどある男だが、その身のどこを見ても、骨の一つ一つ、髪の一本一本までもが美しい男だ。
上衣を着る前にオイルを塗りたいと言ったのだから、胸や腹にも塗って欲しいのだろうと思っていたし、触られることなどわかっていただろうに。ましてや、オイルやクリームを塗ってやったり、マッサージをしたりすること自体、これまでだって散々してきたのに、何を今更。
そう正論を投げつけてやりたいが、俺にもまた、言い逃れのできない感情があることを、その背を眺めては噛み締めて、口をつぐむ。
襟首のほつれに気づくまで、同じようにしがみつかれていたとき。
はたと上げられた顔が、赤く輝く瞳が、鼻先が、そして唇が、触れるほど近づいたとき。
確かに俺も、動揺したのだ。これまで散々味わってきたはずの距離に、狼狽えるほど戸惑ってしまったのだ。
「……落ち着いたか?」
うう、とか、くう、とか、言葉にならない声が漏れては途切れて小さくなって、いよいよ顔を上げるきっかけが必要そうな頃合いで、そうっと頭を撫でてみる。
「ごめん……」
バツが悪そうに見上げてきた瞳から、俺もまた目を逸らしつつ、
「謝らなくてもいいことを、簡単に謝るな」
それだけ告げて、身を離した。ローシェルフの隅に置いたままだったルームウェアの上衣を取ってやり、
「ひとまず早く着ろ。そのあとで、オイルを塗るのも手伝ってやるから」
そう広げてやると、素直に腕と頭とを突っ込んでくれた。滑らかなシルクの中を、髪と肌とがするりと滑って通る。
「謝らなくても、いいこと、か?」
出てきたカリムが真っ先にした質問に、なんでだ、と問われたらどう答えようかと迷いつつ、
「謝らなくていい」
顔も見ず、言っておかなければならないことだけを口にして、
「寝る前の香を焚いておこう、気も休まるだろう」
なんでだと問われる前に話題を変え、チェストから香炉を取り出して、香灰に火をつける。温まるのを待ちながら、すっ、すっ、と室内のランプに指先を向け、魔法で一つ一つの灯りをほのかに落とした。
部屋の明かりが落ちていくにつれ、窓の外では星たちがあかるく瞬き出す。
空は紺に藍にとゆたかな色合いをみせ、昇りゆく月はなだらかな砂丘に影をつくる。
「暗いほうが落ち着くかと思ったが、思いのほか月が明るいな」
「ほんとうだ、綺麗だなあ」
あれほど困惑に揺れたりしゅんと萎んだりしていた声が、もう、のんびりと緩やかに伸びていく音を聞き、毎度のことながら呆れてしまう。切り替えの早い男だと知ってはいるが、今夜のように惑わされては、なおのこと。腹立たしさすら感じさせる。さすがのカリム・アルアジーム(皮肉)だ。
「さて、香はどれにするか……オイルの香りと合わせるなら……ああ、これがいい」
ボディオイルにも使っているサンダルウッドをベースにした香をトングでつまみ、温まった香炉のなか、香灰の上へ、そっとのせる。
立ち昇るアガーウッドの深い香りを確かめてから、ゆっくりと香炉を運んで、室内に焚きしめていく。
「古くから、香の薫りと煙は魔を払うとも言われているからな。気の昂りも、魔力の乱れも鎮めてくれるだろう。あとは、気の迷いとか」
香炉を揺らさぬよう、静かに歩む足取りに合わせて、ぽつり、ぽつりと独りごちる。
従者として生まれ育ち、日々追われてきた身に染み付いているのだろうか。こうして、なすべきことに手を動かしていると、緩和と覚醒が同時に訪れているような、妙な居心地の良さを味わうことがある。
思えば、化粧水を塗ってやっていた時もそうだった。小言と慰めを交互に口にしながら手を動かすことに集中しすぎてしまい、カリムの様子に気づくのが遅れてしまったのだろう。これじゃあカリムのために焚いているのか、自分のために焚いているのかわからないな、どちらでもあるか、と自嘲混じりに続けた呟きに、
「魔力が乱れてるようには見えないけどな、さっきの手際を見る限りはさ」
挟まれた合いの手で、ああ、またやってしまった、と気付かされた。
「魔力よりも、気が乱れているようだ。今夜は喋りすぎてしまうな」
「ええー? ジャミルがお喋りなのは、いつものことだろ」
「はあ? お前には言われたくないね!」
売り言葉に書い言葉でハッと目を向ければ、窓辺にもたれ寛ぐカリムの、嬉しそうな、何かに安心したような顔が待っていた。
ああ、そうか。先ほど身を離してから、ずっと、あいつの顔を見ることができていなかったのだ。
「言っておくが、お前の無駄なお喋りとは違うからな」
「あはは、そっか?」
「注意すべきこととか、教えておかなきゃならないこととか、何度言っても忘れてしまうことだとか、伝えることが多すぎるせいだからな。お前相手じゃなければ、俺はもっと寡黙な男なんだ」
「そうだな、オレにだけ、ってことだよな」
言われた意味がわかっているとは思えない、妙にニヤついて細められた目つきに、俺はイラっと眉を顰める。
「本当にわかってるのか?」
「うーん。あんまりわかってないかも知れねえけど……、ジャミルが前よりも、もっとお喋りになってくれてるのはわかるぜ」
不覚にも、ぐう、と喉を鳴らし返す言葉が出なくなったのは、俺のほうだった。
カリムの言う「お喋り」が、今夜だけのことではないとしたら。説教だけではない胸の内や、たわいのない感想の一つ一つまでもを、もう幾つも聞かれてしまっているのかと思ったら。カリムほどではないが、俺まで頭がのぼせてしまいそうだ。
「違うからな」
「何がだ?」
「お前の前でイイコぶる必要がなくなったから、とか、本音を隠さずに言えるようになったからとか、そういうことだからな」
カリムが腕をかける窓辺を奪うように、隣に並んで、ふんっと押しやってやる。「あはは、そうだな。ジャミルが素直になってくれて、オレも嬉しいよ」
負けじとカリムも、ぐいぐい肘で押し返してくる。
「そうではあるが、そういうことじゃない」
「お前の気持ちがもっと聞けるように、オレももっと頑張るぜ」
「そう力むな、お前が無駄に張り切ると、ロクなことにならない」
どちらからともなく、くすくす、あはは、と笑いながら、俺たちは肘と腕とで互いを押し合う。触れるのも、触れられるも、どこかドギマギとしていたさっきまでの自分たちもが可笑しく思えてきて、その感情に安堵した。
こいつと俺とが、まかり間違って、主人と従者、だけではない関係(もちろん、友達でもない)になった先に、どんな未来が待っているのか。その覚悟も、目標も目的も定まらないまま、一時の劣情に押し流されたくはない。そんな無謀に足元を掬われるのはゴメンだ。
そう冷静に考えられる自分が戻ってきたことに、ほっとしたのだと思う。
「そう意地悪言うなって、もっと成長してみせるからさ」
「なら俺は、お前よりも早く、もっと成長してやるだけだがな」
もう何度目かわからないくらい、ぐいっとあいつの腕を押したとき。
「じゃあ、オレが頑張って頑張って、そんなお前に相応しいくらい成長できたさら」
押し返すことなく、呑気に夜空を見上げるでもなく、まっすぐな瞳が俺を見つめ返してきた。
「聞かせてくれるか? なんでさっき、オレは謝らなくてもよかったのか」
「……!」
なんの自信に背を押されてるのか。それともまだ劣情や気の迷いの熱が晴れていないのか、月あかりにきらきらと輝く瞳は、見たことのない火をその奥に灯している。
ゴクリ、喉が鳴ったのが、自分でもわかった。
もう忘れたと思っていたのに。
なんて答えたらいいんだこれ。
いや、「そのとき」が来るまで答えなくてもいいのかこれ。
いや「そのとき」ってどのときだ……!
「わあっ、ジャミル〜!」
目まぐるしく変わる思考を切り裂いて、カリムの声が夜空に響き渡る。
あいつが伸ばした手の先を見れば、四人家族が二ヶ月はゆうに生活できるほどの価値ある香炉がゆっくりと遠ざかっていた。
確かにそれを握っていたはずの俺の手は空っぽで、落としたのだと気づいた頃にはもう、馨しい煙をたなびかせ香炉は金色の砂漠へと吸い込まれていく。
「拾いに行く!」
「いいぜ、夜空のデートだな! 来いよ、絨毯!」
「お前は待ってろ! 来るな絨毯!」
呼ばれて飛び出た絨毯は、再び押し合い退けあう俺たちと戯れるように、攫うようにして、月夜にふうわり舞い上がっていった。