マーブルの窓.
石造りの回廊の、ど真ん中にオレは立っている。
まあ、後ろを振り返り、前へと頭を振り戻しても、どこから来てどこに続いてるのか見えないくらい長いから、仮に「ど真ん中」としたわけだが。少なくとも、五、六人はゆうに行き交えそうな通路の中央に突っ立ってるのだから、「ど真ん中」で間違っちゃいないと思う。
両側にはアーチ型の窓が並んでて、斜めに差し込み落ちる日差しが、どこまでも、どこまでも、白い床を点々と照らしている。
まあるい天井も、壁も床も、真っ白な石造りの空間ながら、照り返しは眩しすぎず、この明かりがあってちょうど良いくらいに仄暗い。ひんやりすれど寒くはない、並んだ陽だまりが空調の機能も担ってるのかもしれない。
立地や陽の向きを考慮して、うまくデザインされた建物なんだろう。作ったヤツ、すげえなあ。なんて、足元に目を落として、またびっくりした。
大理石のマーブル模様だと思っていた、あわくて白い濃淡は、細かなモザイク柄でできている。継ぎ目もわからないほどぴっちりと嵌め込まれたタイルみたいだ。
はてさてこれは石なのか、それともタイルなのか。素材を確かめようとしゃがみかけた時、
「ちがうって言ってるだろう、カリム」
溜め息まじりにオレの名を呼ぶ声がした。
落としかけの腰を戻して、あたりを見回す。
だあれもいない。真っ白な回廊のど真ん中に、変わらずオレはひとりぼっちだ。
だけど、あの呆れたように、小馬鹿にするように、オレの名を口にする声をオレは知っている。もう、耳にしたのは何年も前の、懐かしい声色ではあったけど——
「まったく、お前はなんにも知らないんだなあ」
呆れ声の中に、ほんのりにじむ優越感の音色もオレは知っている。確信すると同時に、声の出どころもわかった。
いちばん近くの、右手の窓だ。
おーい、そんなとこで何してるんだ⁉︎ って呼びかけなかったのは、馴染みがありつつも記憶に遠い声音だったから、だけじゃない。
「オレがなんにも知らないんじゃなくて、ジャミルがなんでも知ってるんだと思うぞ」
同じく幼い声で言い返す誰かも、そこにいたから。
かくれんぼしてる時みたいに、息を潜めて、窓辺の縁に身を隠す。そうっと覗き見た景色には……見覚えがあった。柘榴にオリーブ、ありふれた熱砂の木々と庭園装飾。いいや、熱砂の国にしちゃ瑞々しい緑の植え込みも、色あざやかな外来種の花々も、水盤や水路の装飾も、ありふれてたのは実家の庭だ。
「しーっ!」
反射的にハッと自身の口を両手で覆ってから、オレに向けられた叱責じゃなかったと気がついて、窓辺の下方に目をやる。
予想通り、視界のずいぶん低いところに、小さな影がふたつ。
片方は口を手で覆われて、もう一方は他方の口を覆った手と反対側の人差し指を自分の口に当てて、木陰に隠れるように寄り添っていた。
「呼び捨てにするなら、小さい声でって言ってるだろ」
「ふぉんはひほほほえはっはは?」
「わきまえろって怒られるのは、俺じゃなくお前なんだからな」
「ふぁあーい、ジャミル……さま……」
「小さい声なら、いつも通りでいいってば」
さっと周囲に視線を走らせて、はにかみ笑う幼い表情は、いじらしくなるほど可愛くも、あの邪気のない友人のようにも見えて、ドクンと心臓が跳ねた。
甘い痛み、とは言い切れない後味の悪さに、思わず胸を押さえちまう。
「とにかくさ、妙な鏡には気をつけろってこと」
「でもさ、『みょう』か『みょう』でないかなんて、見ただけじゃわかんないぞ」
「見てわかんないからって、触ったり近づいたりするなって言ってるんだ」
「さわったり、近づいたりしたら、どうなっちゃうんだ?」
「そりゃあ……連れていかれちゃうんだろ、『向こう側』へ」
もうどちらも口を覆ったり覆われたりはしていないけれど、幼い二人はぴったりと身を寄せ合ってヒソヒソ話を続けている。
オレの目にも、あたりに大人の姿は見あたらない。でも、このジャミルが言うように「わきまえない」話しぶりを聞き咎められるのが小さなオレのほうなのだとしたら、ずいぶんと気遣ってくれてるんだろう。
ジャミルの父ちゃんや母ちゃんが、一緒に遊んでるアイツの首根っこを掴んで引っ張っていくとき、なんだかんだと聞こえたお小言を思い出す。それに、
——カリム様、息子が立場をわきまえず申し訳ありません。
——よく言って聞かせますので、どうかお許しください。
そう言っては、頭を下げられたことも。
オレは、なんて答えたっけ。
ジャミルは悪くないぞ、とか、気にすんな、とか言っては笑ってたと思う。「叱らないでやってくれ」って、オレなりにアイツを守ろうとした笑顔だったけど、それだけじゃ、ダメだったんだよな。小さなジャミルに思い知らされちまう。
どんどんそつなく振る舞えるようになっていく、大人みたいになっていくジャミルに「すげえなあ」「かっこいいなあ」って憧れていたけれど。憧れるばかりじゃなく、オレだって、アイツを助けてやらなくちゃならなかったのに。
「でも、『向こう側』だって、そんな怖いもんでもないんじゃないか? 父ちゃんも、母ちゃんも、ジャミルだっているんだろ、こっちと同じに」
「こっちと同じにみんないるのに、みんながどれも違うんだぞ。家族だろうが、友達だろうが、鏡の向こうにある世界と同じ数だけ、どこへ行ってもみんな違ってるんだ。そんなとこにひとりぼっちで怖くないわけあるかよ」
「うーん、そうかなあ。それって、ひとりぼっちって言えるのかなあ」
「じゃあお前は、この俺がいない世界でも平気だって言うんだな!」
あんなに周りに気を配ってたのに荒げられた声で、オレまでギクリとした。
小さなジャミルは自分の声の大きさにも気づかぬふうで、肩を怒らせ、ふるえる息を吹き出している。
「それは、嫌だけど、でも、どこかの世界にいるジャミルだって、その世界のジャミルなんだし、えっと、えっと、わかんねえけど、オレは仲良くしたいし、」
うろたえてるオレの声を掻き消すように、幾つもの足音が駆け寄ってくる。
ジャミル様、いかがされました、ジャミル様、と口々に近づく大人たちの影。
たまらずオレは窓の外へと飛び出そうとして——ビタン! 見えない壁に手をついた。
いや、これは壁じゃない。
緑の庭園、駆け寄ってくる使用人たちの見慣れた衣服、怯える小さなオレと、小さな背中でそれを庇うジャミルが、うっすらと透けて見えている。
鏡に映る、オレの向こう側に。
回廊の左手側にも並んでた窓を振り返る。
そのどれもが、白い床や壁面を映しては長く長くその向こう側へと続いている。
手をついた窓から身を離し目をやった隣の窓も、そのまた隣もその先も、慄き見開かれた赤い瞳がオレを見返し小さく映し返してく。
ああ、ここもまた『向こう側』だったんだ。小さな二人が交わしていた不思議な鏡の秘密を、オレは理解した。
この、無限に続く一つ一つの窓それぞれにも、それぞれの世界が広がっているんだろう。どこかの窓に飛び込んだなら、そこにもきっと。どこか、ちょっとずつ違うオレたちがいて、家族がいて、友達や先生もいるんだろう、きっと、この回廊に居続けるよりは、ひとりぼっちじゃないんだろう。
どんな世界でだって、どこに行ったって、オレはみんなと仲良くやりたいし、やっていけると信じてる。小さなオレが言いたかったのは、そんなとこなんだろう。
だけどジャミル、小さなお前の言う通りだ。
オレは、オレが知ってるお前のいる世界がいい。オレが知ってるお前と、生きていきたい。一言だけでいい、あんなに小さなほっぺたを、あんなに真っ赤に膨らませてくれてたお前に、一言だけでもそれを伝えてやれたなら……!
向き合った窓を、そこにある鏡を、もう一度強く叩く。叩いたつもりだった。だが、その手は空を切り、手応えもなく宙をかいて……
「……っ!」
ぼすん、勢いよく落ちた手の先には、赤いシーツ。
見開いたままのオレの目に映る、シーツに広がる艶やかな黒髪。
「ジャミル……!」
オレの声に、長いまつ毛が震えて、ううん……と、むずがるように眉根が寄せられる。持ち上がりかけた瞼は、抵抗の末けっきょくその下にある灰色を見せることなく、
(もう少し寝かせてくれ……)
と思しき寝言をむにゃむにゃこぼした後は、穏やかな寝息だけがすうすうと続いた。
「あんなにぐっすり眠らされたんだ、しばらくまともに寝られる気がしない」
なーんて、言ってたくせに。
そう思い出して、やっとここが本当の現実なのだと気がつく。
マレウスの夢から醒めて、ドタンバタンとようやく寮に帰ってきて、
「よーーーっし! みんなの無事を祝って! パーっと宴を、」
「開くのは後日として、寮生全員、親族や実家に無事は伝えたか? 眠っている間に身辺に異常が起きてはいないか、体調と身の回りの確認もしっかりとするように」
「うーん、そりゃそうだ。さすがジャミルだぜ……」
「飲み食いせずとも千年眠れる魔法領域に囚われていたからと言って、空腹からいきなりご馳走を口にするのもよくない」
「そうかもなあ。じゃあ、ひとまず軽ーく腹ごしらえして、ゆっくり休んで、落ち着いたら心置きなく! パーっと宴だな!」
「その通りだ」
「と、いうわけで、みんなひとまず解散な!」
「まっすぐ自室に戻るんだぞ」
とか言いつつ、まっすぐオレについてくるから、
「ジャミルも自分の部屋を確認してこいよ」
「お前の部屋と腹具合の無事を確かめてからな」
「オレを優先しなくたっていいんだぜ」
「お前を優先してるんじゃない。自分自身にとっての懸念事項を優先順に潰しているだけだ、気にするな。いや、気にしないのは腹立つな。気にはしろ」
とも言って、オレが寝入るまではオチオチ寝られないとか言って、そんであんだけ眠らされたんだから寝れるわけがないとかブチブチブツクサ言ってたのに、どうやらそのままこのベッドで寝落ちたらしい。
……と、思いたいけど。ほんとにココが現実か? ほんとにほんとのほんとにか?
疑わしくなって、自分のほっぺたを思いっきりつねってみる。
痛え!
痛いけど、ジャミルと殴り合った夢の中でだって、めちゃくちゃ痛かったし、たんこぶまでできたからなあ。マレウスが見せた夢のせいもあるだろうけど、紛らわしい夢の続きみたいな夢まで見ちまっちゃ、何が願望でどこが現実なんだか。実感を持つって難しい。
ジャミルと認識の擦り合わせができりゃ、それがいちばん手っ取り早い。とは思っても、起こすのは可哀想だ。さっきの様子じゃ、すんなり起きる気もしない。
急いで目覚めなきゃいけない状況じゃなし、ま、いっか。そう腹を括って、ごろんとオレも横になる。目と鼻の先にある大きな手に触れてみたら、思ったよりもあたたかくってドキリとした。夢のなかで喧嘩した傷も、闘った痕もなく、丁寧に手入れされた爪はすべすべで、勤勉な指先の皮膚は硬い。
ああ。ジャミルの手だ。
胸の内に呟いた途端、鼻の中がツンとして、目の奥がじわあっと熱くなってくる。
ああ。ジャミルだ。ジャミルがここにいる。
まるで実家にでもいるような、穏やかな寝息をたてて、安心しきったように眠ってる。そして今度はちゃんと、当たり前みたいに目を覚ますんだ。オレたち、帰ってこられたんだなって。ここは確かな現実だって。
それから、これまでと同じ朝がやってきて、新しい昼と夜が毎日やって来るんだ。
嬉しいことや楽しいこと、嫌なことや、悲しいことも、これまでと同じように織り交ぜながら。これまでと違って、オレたちはもっと本気で話し合ったり喧嘩をしたりもするだろう。そうして痛みや怒りすら分け合って、生きていくんだ。そんな日常が、何も変わらないような顔をして、そのくせ少しずつ様子を変えながら、毎日やってくるんだ。
それは、なんてしあわせなこと。
指のひと節ひと節に触れ、手の甲の筋を、血の流れる管を、なぞって、撫でて、その度に現実の手触りは濃く強くなって、反してオレの視界は歪んでベチャベチャになってよく見えなくなっていく。
ジャミルだけじゃない、オレたちだけじゃない、もしかしたら世界が明日を喪うかもしれなかったんだ。
そんな実感が今更ながらに襲ってきては、怒涛のようにオレを掴んで揺さぶる。
夢から醒めたっていうのに、夢見心地のような安堵感で、現実味が麻痺してたんだろう。ディアソムニアを退避してから、さっき目覚めるまでの自分が、ずうっとふわふわ浮わついてたように感じられた。
当たり前のようにやってくる明日に、どれほどの幸福が詰まっているのか、いま本当の意味でわかったような気がした。
一方で、この幸福感も現実味も、また日常に薄れていくんだろう実感も、まざまざと身のうちに戻ってくる。
命の危機に行き遭うたび、苦もなく呼吸のできる今日を、なんて幸せなんだと噛み締めてきた。何も口にできないオレに温かなスープを作ってくれたこの手に、抱き止め引き寄せ守ってれたこの手に、そうやって新しい今日をくれたジャミルに感謝した日も、たくさんあった。
それでもオレはヘマを繰り返して、怒らせたり、心配をかけたり、たくさんしちまったから。
生の実感が濃くなったり薄くなったりする日々こそが、ある意味では「しあわせ」だとも言えるんだろう。……そりゃあこれからも、もっともっと気をつけて生きていきたいけど、こんな事件に巻き込まれることだってあるのが『日常』なんだって、新たな実感がまたオレを内側から揺さぶる。それでも——
「……オレは、お前と生きていきたいよ」
喉の奥まで熱くって、べしょべしょになった声で、誰かに伝えたかった言葉を絞り出す。思う以上に情けない声は、伝えたかった相手は夢で会った誰かじゃない、ってオレにわからせてくる。
目を瞑っているはずの強い手が、ぎゅうっとオレの手を握りかえした。
オレは両手でその手を、やさしく、強く、ぎゅっと包みかえした。