ハチワレボーン【ヤーナムへようこそ】――報酬でお菓子を買って、皆で食べる筈だったのに……。どうして。
憂鬱な霧と重苦しい静寂の中でハチワレは目を覚ました。空気はひんやりと冷えていて、起こした身体の周りから土の匂いがしてはっとした。乾いた土の感触が伝わって来た。どうやらずっと地面に横たわっていたらしい。小さな身体は冷え切っていた。
起き上がって数秒、何処からか物悲しいメロディーが流れてくるのに気が付いた。クラシックで心に纏わりつくような音色はあまりにも美しい。耳を澄まし、音のする方へとハチワレは歩き出した。まるで見えない何かに誘われているようだった。
花嫁か被るヴェールのような霧が徐々に薄れ、土と緑で埋もれた小道が現れた。小道には高い木が植えられていて、その下に灰色の石造りの墓石のようなものが並んでいた。大きさはどれも同じぐらいだが、ひとつひとつの装飾が異なり、彫られている文字も違っていた。中は空っぽだが、平らな器や聖水盤に似た作りの像が置かれているところもあった。墓石はきちんと手入れはされているが、不気味だった。ハチワレはそこで初めて怖気づいた。
静けさの中、異様な空間で完全に一人きりというこの状況が少し怖かったが、瑞々しい草花で満たされた小道の上に大きな屋敷が建っているのが見えて、心を落ち着かせる。
「大丈夫、大丈夫……」
優美なメロディーは屋敷の奥から流れていた。ハチワレは息を呑んだ。石造りの屋敷の壁には緑が生い茂り――アイビーのような鮮やかな緑の蔦が絡みつき、幾つもある窓が解放されていた。細い窓枠にも蔦が絡み、その影が分厚い窓ガラスに落ちている。
建物の周囲にはハチワレの知らない種類の花が咲き乱れていた。優美な純白の花は茎が細く百合のような姿をしており、大振りの花弁から甘い香りが漂っている。風は吹いていないのに、花が揺れ、地面に落ちた無数の影が僅かに変化した。
絵のように美しい屋敷に命が宿っているように見えたのは気のせいだろうか。束の間、屋敷の中で何かが蠢き、意志を持っているようにハチワレは感じた。
「え……、ここ何処だろう?……まだ夢の中とか?」
慎重な足取りで屋敷へと向かうと、玄関は開け放たれていた。音をたてないようにして近づき、中を覗くと、品の良いアンティークの調度品が並ぶ部屋がハチワレの目に映った。蜜蝋で磨かれたマホガニーの背の高い収納棚に大きなガラス瓶と無数の分厚い本が整頓され、用途の分からない小道具――透明な瓶やランプ、赤い宝石に似た艶やかな塊、色褪せた洋紙、シーリングスタンプ用の道具、ラベルの張られた紙箱、ペーパーナイフ、錆びついた鋸など――が乗った作業デスクが置かれている。
アンティークチェアの上には稀覯本と思われる古い書物が置かれ、漆黒の丈夫な生地の外套と帽子が掛けられていた。部屋の奥には長さの違う蠟燭が立てられた祭壇があり、ハチワレには読解不可能な文字が綴られた紙が乗っている。それは文字というよりは、記号のような文字のような奇妙な形をしていた。
「誰もいないけど、入っていいのかな……。すみません、お邪魔します」
慎重な足取りで中に入ったハチワレが感じたのは、この屋敷は自分が知るどの建物の空気とは明らかに違うということだった。部屋は奥行きがあり、天井が高い。背の高いアーチ状の窓もあり、そこから暖かな陽光が射し込んでいる。外の眺めを見渡せるようにしたのか、全ての窓とドアは開いたままで、冷えた空気も流れてきた。
移り行く時代を跨いできた優雅な書棚や調度品が並ぶ壁を見ていると、突然声がした。低い男の声だった。
「――君は新しい狩人かい?」
「え……?」
目を丸くしながらハチワレは声の主の方を向いた。誰もいなかった部屋にいつの間にか車椅子に乗った老人が現れていた。帽子の隙間から肩まで伸ばした白髪が覗き、厚手の外套――上品でトラディショナルな装いを大胆にアレンジし、ヴィンテージ感溢れる形にしている。首には褪せた薄い生地のストールを巻き、上着もズボンも時代を感じさせていた――を羽織り、両手を膝の上で重ねている。
老人の酷くやつれた頬よりも先に右足の義足の存在をハチワレの目は捉えた。片足のない人を見るのは初めてで、ハチワレは僅かに動揺したが、老人に近づいた。
「勝手にお邪魔してすみません。あの……ここは何処ですか?買い物に行く途中で迷ってしまったみたいなんです」
「どうやら迷い込んでしまったようだね、君は。ここは狩人の夢の世界だ。狩人の休息の場でもある」
老人は老いていたが、鋭敏そうな顔立ちをしていた。真っすぐに自分よりもずっと小さなハチワレを見詰め、年季の入った車椅子を操作して互いの距離を縮める。車椅子が軋みながら回転する音がした。ごく至近距離でハチワレを見下ろすと、「え?うん?君は猫ちゃんかい?」と尋ねた。
「猫?いえ、違います……。ハチワレと言います」
首を傾げて答えるハチワレに老人――屋敷の主であるゲールマンは「ふむっ」と漏らし、暫く沈黙した。どうやらハチワレに掛ける言葉を探しているらしく、眉間に皺を寄せて黙り込んでいた。気まずい沈黙が流れた後、
「ちょっと私一人じゃ判断できんな。なにこれ、猫ちゃんじゃないのかい。どう見ても猫ちゃんだけどな……。ちょっと”狂人の智慧”をあげるから啓蒙を上げてもらっていいかね?」
「狂人の智慧?」
頭の中に「?」マークが沢山浮かんでいるハチワレの心が整う前に、ゲールマンは右手に禍々しい魔の力を集結させてハチワレに与えた。一瞬、奇妙な力に包まれて肌がぞくりとしたが、ハチワレの見た目などには変化は訪れない。与えられた狂人の智慧によって啓蒙がひとつだけプラスされたハチワレは、「何ですか、今の」と目をぱちくりさせている。
「これで君が”人形”を駆使できるようになった。――来たまえ、新たな狩人が現れたぞ」
誰かに向かって堂々とした口調で声を響かせるゲールマンに驚いたのか、ハチワレは一歩だけ後ずさった。主人の命令に応じた従者はすぐに屋敷に現れた。開放された入り口から上品な足取りで入ってきて、小さな小さなゲストを見つけると静かに一礼した。
「わっ、わっ……」
ハチワレの目に飛び込んできたのは美麗花のような完璧な美貌の女性だった。身長が高く――とにかく高くて、ハチワレにはでかつよを見上げる感覚だった――、艶やかで眩いプラチナブロンドを持つ端麗な顔立ちの美女だ。雪花石膏のように白く滑らかな肌に長い睫毛の影が落ちている。淡いピンク色の唇は年頃の少女が持つような自然な色をしていた。
この世界の流行りの端麗な顔立ち。恵まれていて、とにかく非の打ち所のない美しい女性だが、彼女には表情というものがなかった。長く豊かな睫毛を動かし、瞬きはするが、人間に存在する感情というものが一切存在しない。生きてはいるが、ハチワレが知る生命体とは大きく異なっていた。過度に美しく、儚い芸術品のような姿は確かに”人形(ドール)”と呼ぶのに相応しい。
「――初めまして狩人様。私は人形です。貴方が狩りを全うする為のお手伝いをさせて頂きます」
「は……初めまして、ハチワレです」
ぺこりと一礼するハチワレをプラチナブロンドの美女――名のなき人形は凝視する。じっと見詰めて、小さな狩人の全身を観察してから一言。「……ゲールマン様。このように可愛い狩人様は初めてですが、本当に獣狩りに行って頂くのですか?」
「私も悩んでいるのだよ。見ての通り、小さなぬいぐるみみたいな子なんだ。戦えるのかねぇ、こんな小さくて可愛い子が」
迷いを口にしたゲールマンに人形は頭を振って言葉を続けた。「ゲールマン様を非難するつもりはありませんが、ハチワレ様をヤーナム市街に放ったらある意味大変危険かと……。過去にゲールマン様の手解きを受けた狩人様の中から、ハチワレ様の援護をしてくれる方を探しましょうか?現在獣狩りに参加している狩人のリストはございます」
滔々と流れだす声にはやはり感情というものがなく、機械仕掛けの玩具のようだった。悩んでいたゲールマンが顔を上げると、解れた髪が肩の上から零れ落ち、ウェーブ掛かった長めの髪が束になって揺れ動いた。
「そうだな、誰か共闘してくれる狩人を探すか……。ハッちゃん一人じゃ危ないだろうし……」
何故かハチワレをハッちゃん呼びするゲールマンを見て、人形は何か言いたそうに唇を開いたが、結局は何も言わなかった。ゲールマンと人形のやり取りを見聞きしていたハチワレは何を思ったか、ぴんっと背筋を伸ばして二人に話をした。
「戦うって、あの、討伐ってコトですか?それなら出来ますけど……」
「「え?」」
驚愕で固まる二人をよそに、ハチワレは続けた。「討伐って言って、小さいのとか大きな魔物みたいな奴を倒すお仕事をしています」
「え~、こんなに小さくて可愛いのにぃ?出来るのかい、ハッちゃん」
孫と話すような口調でゲールマンはハチワレに尋ね、その横で人形も興味津々にしている。口元に両手を持っていき、「こんなに可愛い子が……。嘘みたい……」と人形はぼやく。
「武器はあるのかい、ハッちゃん専用の」
「武器ですか?……え、と、どうしたらいいんでしょうか?いつも使ってる武器がありますが」
「ならば頭の中でその武器を強くイメージしなさい。色や形をはっきりを思い浮かべてみなさい」
ゲールマンに促され、ハチワレは愛用の武器を思い浮かべた。さすまたの色と形状をしっかりと思い浮かべ、右手を翳す。ほんの僅かに衝撃があり、空気が揺らいだ。音もなく、右手に青いさすたまたが顕現し、ハチワレは力を込めて握った。
「これです、討伐の時にはこれを使ってます」
「ほう、それかい。面白い形をしている……」
そこでゲールマンは豪快に笑い、自分の声の大きさが恥ずかしくなったのか、口元を覆ってくっくっと笑い続けた。想像していた武器とはかけ離れた形状を見て、笑いが込み上げてきたらしい。通常新人の狩人は「ノコギリ鉈」「ノコギリ槍」「獣狩りの斧」といった変形する仕掛け武器を使って戦うのだが、ハチワレが手にしたのはさすまただった。変形も何もしない、ただのさすまた。
「可愛らしい武器ですね、ハチワレ様」と気を利かせた一言を人形が伝えるが、ゲールマンはぐふふっとずっと笑っている。肩を震わせて笑う度、彼が首に巻いたストールが揺れた。押し殺したような声を漏らしながら体を小刻みに揺らし、「さすまたか……」と呟いてはまた笑っていた。「大丈夫ですか?」とハチワレが心配そうに見詰めてきたので、ゲールマンはそこでやっと息を整え、「ああ、申し訳ない。ちょっとツボに入って……」と答えた。ゲールマンの両目は涙で濡れ、それを右手で拭いながら彼はハチワレに向かって微笑んだ。
「えーと、ああ、そうだ。いい武器だね。ちょっと戦うポーズって出来るかい?」
身を屈めてハチワレにお願いするゲールマンに、ハチワレは照れ臭そうにいつもやっている討伐のポーズ――青いさすまたで討伐している時のポーズを披露した。
「エイッ、ヤーッ!……こ、こんな感じです」
「「わー可愛い~!なにこれぇ!もう一回!もう一回!」」
「え……と、ヤッ……ヤッー!」
小さな全身を使い、討伐のポーズを見せるハチワレにゲールマンと人形はきゃっきゃっと手を叩いた。ハチワレの目線に近くなろうとしゃがんだ人形は、ハチワレとハイタッチして満足そうにする。人形の白くほっそりとした手と、柔らかくてふんわりとしたハチワレの手が触れ合った。
「脚がこれだからね。私が共に行けたら良かったんだが――」ゲールマンは口を噤んで、ハチワレの真ん丸な瞳を見た。「来ちゃった以上は仕方がないか……、ハッちゃん、狩人のお仕事出来るかね?」
「まだよく分かりませんが、討伐ならよくやってますから出来ると思います」
人形は躊躇いがちにハチワレとゲールマンを交互に見詰め、彼女なりに考えをまとめたところで、壁際の大きなキャビネットから黒い箱を取り出した。箱には味のある色褪せたラベルが張ってあり、ブルーブラックのインクで流麗な筆跡で「狩人様の鞄」と書かれている。箱の中身は白い薄葉紙で丁寧に包まれた革の鞄が入っていた。
「ゲールマン様、これを小さく出来ませんか?」キャラメルブラウンの艶を帯びた革の鞄を差し出し、人形は訊いた。「ハチワレ様が使えるよう小さくして欲しいのです」
「ああ、懐かしい品だ。古の狩人が遺した鞄だな、それは。……小さく出来るとも」
人形から鞄を受け取ると、少し待ちなさい、とゲールマンは作業デスクへと移動した。小道具が散乱する作業デスクに鞄を置き、真鍮の留め金が付いた裁縫箱から鋏や針、糸を取り出すと、何やら拵え始めた。慣れた手つきで鞄を解体し、生地の余裕のある部分を使って小さなパーツを幾つも作ると、ゲールマンは針と糸で繋ぎ合わせていく。古びた鞄がリメイクされ、素敵な品に変わるまで時間は掛からなかった。かなり小振りな鞄が完成すると、ゲールマンはハチワレに身に着けさせた。
「これを使いなさい、ハッちゃん。道中で見つけたアイテムが少しは入るだろう」
「ありがとうございます。ゲールマンさん、人形さん」
陽光とランプの灯りでハチワレの鞄のバックルや装飾ピンが光った。ゲールマンは頷き、狩人が着る装束一式はヤーナム市街の中か、屋敷の外で待機している水盆の使者から入手出来ると教えてくれた。人形はハチワレの鞄の中にこっそり回復アイテムを幾つか入れて――全てミニチュアサイズの小瓶や容器に移しておいた――、小さな狩人の役に立つよう願いを込める。
「最初はヤーナム市街の灯りをつけなさい。そうすると、いつでも私達の所へ帰ってこれるからね」
ゲールマンはハチワレを膝上に乗せると、気を付けていってきなさいと言い、見送ろうとした。だが、自分と人形を見上げる健気な姿に良心が痛んだのか、結局ヤーナム市街の大橋まで一緒についていくことにした。
静かで幻想的な狩人の夢の世界から、鮮やかな朱色の光が街を照らすヤーナムへとハチワレは向かった。新人狩人にあるべき緊張感と警戒心はどこへやら、獣狩りという仕事で報酬は出るのか、何か美味しいものは買えるのだろうかと、そんなことがハチワレの頭を過っていた。
「……なんとかなるよね。頑張ろうっと」
一人で出発させるには心配だから――と、ゲールマンと人形にヤーナム市街の大橋まで見送られたハチワレは急に孤独感を感じ、深い溜息を吐いた。ゲールマンに推奨された通り、ヤーナム市街の灯りは付けておいた。灯りの近くの家屋に誰かいたようだが、祈りの声と独り言が多くて怪しかったのでハチワレは無視した。
「ここがヤーナム市街かぁ……」
よく分からない世界に来てしまった以上、頑張って”狩り”をしようと思ってはいるが、何をどうすればいいのか少しも理解していなかった。
空を見上げると大きな夕陽が街を照らし、輝いている。橙色をした落ち葉のような色に染まった石造りの大橋をぽてぽてと歩き、橋と下水路を繋ぐ建物の中に入った。
大橋の周囲には罹患者の獣や獣狩りの群集、狂犬などが徘徊していたが、ハチワレが小さすぎて”狩人”として認識していないようだった。完全にスルーしていた。ただ、「なんか小さくて可愛いのがよちよちお散歩している」としか思っていないようで、彼らが残酷な攻撃を仕掛けることはなかった。
「うーん、よく分からないよ……。何をどう倒すの……?」
鮮烈な夕陽が射し込み、光と闇のコントラストが見事な建物を進むと、大きな樽やゴシック調の棺、がらくたが置かれた窓が見えた。窓枠は壊れて半分以下になっており、小さなハチワレでなくても通り抜け出来そうだった。気になって窓を通って外へ出てみると、床が剥き出しになっており、古い複数の板――幅広い板が通路代わりに打ち付けられた空間に通じていた。ハチワレは落ちないように足元に注意を払いながら歩いた。板の隙間から下の様子が見えてぞっとした。得体の知れない異形――人間の形をした獣が武器を携えてうろうろして、狩人の新鮮な血と肉を求めていた。獣狩りの群衆の一味がこの建物の中にもいた。
「……あれが敵なの?なんか怖いよ」
洗練された外装とは大分違って、この空間は穢れが多く、冷たい空気と嫌な臭いが混じり合っている。朽ちかけた建造物はくすんだ内壁と、用途の分からない品物が収納された棚と木箱、そしてがらくたの宝庫だった。
木材で作られた階段を上がると、全身にちくりと刺激が走った。何者かの視線を感じて、ハチワレは自分以外の存在を意識した。監視の視線は鋭く、ハチワレの小さな身体を射抜く。ふと前方を見ると背の高い人影が小さい侵入者を凝視していた。異様な格好をした狩人の存在にハチワレの心臓が早鐘を打ち始めた。
「あんた、まさか新人の狩人かい?」
落ち着いた女性の声――年を重ねた年配の女性の声で、とても凛としている――がして、ハチワレはびくっとした。
陰鬱な空気に包まれたヤーナム市街を睥睨する者――鳥羽の狩人と呼ばれているベテランの狩人は鳥の嘴のような物が付いたペストマスクを被り、漆黒のロングコートを鳥の羽で飾り立てていた。鴉の羽を集めて装飾に使用したようで異様なコートだが、それがペストマスクと上手くマッチしている。あらゆる暴虐と理不尽に耐える為の黒鳥の装束は魅惑的でもあった。
幾つかの道具が装着された腰のベルトには使い込まれた慈悲の刃――歪んだ双刃と獣狩りの短銃を装備しており、夕陽を浴びて刃が邪悪に煌めいていた。
「あたしはアイリーン。狩人を狩る者さ。理性を失った狩人を狩るのを仕事としている。……しかし、驚いたね。あんたみたいな小さい子が今宵の獣狩りに出てくるなんて」
アイリーンがいる場所の深い静寂をかき乱してしまった気がして、ハチワレは申し訳なさそうに口を開いた。「その、急にここに来てごめんなさい。ゲールマンさんからヤーナム市街でその……狩り?をするように言われて来ました」
「はっ、ゲールマンがあんたをよこしたのかい。信じられないことが起きるもんだね。よりによってゲールマンの遣いとはね」
ハチワレの言葉に一瞬驚き、アイリーンはバサッと鳥羽の装束を翻す。湿った風が吹いてきて、二人の間をすり抜けていく。淀んだ夕刻の空気が流れる中、アイリーンはマスクの下で非情な笑みを浮かべ、小さな狩人を見た。
「あんたがどうやって戦う気か知らないが、餞別をあげよう。”狩人の確かな徴”だ。何かの役に立つだろう」
「ありがとうございます。アイリーンさん」
焼け焦げ、ボロボロになった洋紙に大きなルーン文字が刻まれた図を数枚受け取ったハチワレは鞄の中に仕舞おうとした。だが、どう見てもハチワレには大きすぎるのでアイリーンが丁寧に折り畳んで小さくし、鞄へと仕舞ってくれた。
「狩人の確かな徴はあんたが最後に使った”灯り”に戻れる優れものさ。大事に使いな」
「はい。大事にします」
ハチワレはこくんと小さく頷く。アイリーンは一瞬黙り、少し間を置いてからまた話し出した。
「ヤーナム市街は複雑な迷路のように入り組んでいる。小道や大通りにも獣が沢山いるからね、気を付け――」
「アイリーンさん、その子何なんですか?」突然、誰かがアイリーンの話を遮ってきた。ハチワレとアイリーンが振り返ると、片目の鉄兜を被り、官憲の服で身を包んだ強者が佇んでいた。黒っぽくも見えるチャコールグレイの生地の装束には複数の装飾ピンが留められており、夕光りによって宝石のように輝いていた。
「この人、かっ、顔が見えないよ!アイリーンさん!」
鉄兜を被った狩人の姿に恐れを抱いたハチワレが叫ぶと、アイリーンは「なに、大丈夫だよ。これは味方さ」と教える。ハチワレはほっとし、気を落ち着かせてから挨拶した。「ハチワレです。あの、獣狩りというのに参加するので宜しくお願いします」
「えっ……!こんな猫ちゃんみたいな子が狩人?は?何かのドッキリ?アイリーンさん、俺を騙そうとしてます?」
小さくお辞儀するハチワレを指さし、鉄兜の狩人はえらく慌てた様子でアイリーンに視線を移す。「いや、嘘でしょう?だってこんな可愛くて小さい子が獣狩り?武器は?」
「それが本当に狩人なのさ。この子はゲールマンから狩りをするよう指示されているらしい。そういやあんた、得物は?何使ってるんだい?」
「えと、これです」
ハチワレは両手を出し、青いさすまたを顕現させるとそれを軽々と扱って見せた。とてつもない動きとスピードでさすまたを回転させ、しっかりと握るハチワレの姿にアイリーンと鉄兜の狩人は思わず声を漏らし、拍手を送った。さすまたにびっしりと生えた小さな刃を見て、ノコギリ鉈の代わりになりそうだなとアイリーンは考えた。ヤーナム市街やそのほかのエリアを占拠する獣の多くはノコギリ型の武器による攻撃に弱く、武器自体にもノコギリ特効の効果が付与される。小柄なハチワレが扱うには丁度良い武器かもしれない。――見掛けはただのさすまただが。
「えっと、ハチワレちゃん?俺はハッチって呼ぶけど、獣狩り初心者でしょハッチって。俺がベテラン狩人に声掛けて援護してもらえるよう頼んでみるよ」
「え、いいんですか……?」
「当たり前だよ。こんな可愛すぎる猫ちゃんみたいな子を一人で狩りに出したら大変だって。ちょっと待ってて」
狩人は細やかな彫刻が彫られ、錆びついた銀の鐘――古人呼びの鐘を軽く振って鳴らし、反応を待った。不可視の波動が広がり、召喚に応じた狩人が次々に顕現する。召喚された歴戦の狩人達は鉄兜の狩人から説明を受け、ハチワレを見て唸り、すぐさま自分の持つ古人呼びの鐘を使用する。新たな狩人が召喚され、鐘を使い、また別の狩人が呼び出され……というのを繰り返し、最終的に三十人程の狩人が集まった。ベテラン狩人集団改めハチワレ親衛隊である。
上質な仕立ての装束を着た狩人から変態御用達の装束を纏った狩人まで――携帯する武器の種類も多彩で、強敵が配置された難易度の高いエリアである実験棟や漁村で獲得した武器を愛用している狩人もいた――、多種多様な狩人が現れたことにハチワレは驚き、目を輝かせていた。
「わっ!わっ!こんなに沢山の狩人さんが!」
「よろしくね、ハチワレちゃん。本当に可愛い~!」
目隠し帽子を被り、聖歌装束を着こなした女性の狩人がハチワレの小さな手を握り、優しく握手する。そこからハチワレ握手会が始まり、ハチワレは三十人近くの狩人と握手した。白いふわふわの手を掴んだ狩人達は乙女のように頬を赤らめ、「こんなに愛らしい握手は初めてだ……」と何だか夢見るような瞳でぼんやりとしている。
「一人じゃ何にも分からないから皆さんが協力してくれて嬉しいです。ありがとうございます」
えへへと笑顔を見せ、ついでに可愛らしい舌を出したハチワレに狩人達は惚け、夢中だった。天然のあざと可愛い生き物を拝み倒し、「狩人やってて良かった!啓蒙を吸う糞ったれ脳喰らいとか、ほおづきとか、星界からの使者とか全く可愛くない訳分からない連中と戦ってきたけど、あー、ハチワレちゃんのお陰で癒された!」「愛らしい小さないのち……」「ベロ!尻尾!なんて魅力的なんだ!」「ふかふかのネコチャァァン、かわよ」「ベリーキュートな狩人誕生にワイ感激」と口々に言う。恐るべし、ハチワレ。
アイリーンだけは冷静さを失わず、ゆっくりと狩人の集まりを見回してぼやいた。「何なんだい、この連中は」
「よしっ!出来た!着てみてよ、ハチワレちゃん」
ヤーナム市街に濃い黄昏の光が押し寄せる頃になって、装束のリメイク作業が終わった。ゲールマンが鞄を作り直してくれたように、狩人達もハチワレの為に装束を手直ししてくれたのだ。
ベテラン狩人達がヤーナム市街で手に入る狩人装束――狩人の一人が帽子、戦闘用の装束、手袋、ズボンといった一式を取りに行ってくれた――を小さいサイズのものへと繕い直してくれ、ハチワレはそれを着た。
小さ過ぎる身体にフィットさせるには、なかなか苦労したが、ハチワレが着こなしたのを見て狩人達は安堵し、感激したように手を叩いた。純粋な喜びの拍手である。
「よく似合ってるよ、ハチワレちゃん」弾んだ声で古狩人の装束姿の狩人が言う。「どこからどう見ても立派な狩人だな!」
「えへへ……ありがとうございます。何だか身が引き締まる思いです」
ぺこりと頭を下げた後、小さな手を動かして微笑むハチワレを愛しそうに見詰める狩人集団をアイリーンは呆れた顔で見ていた。彼女はこの後ハチワレを待ち受ける試練――巨大な二足歩行の獣との戦闘を心配し、口を開いた。
「あんたたち、その小さい子を甘やかしすぎちゃ駄目だよ。”聖職者の獣”がその子の最初の狩りだ。気を抜いたら一瞬で狩られる」
慎重に話すアイリーンの言葉が静けさの中に反響し、それまではしゃいでいた狩人達の表情が強張った。”聖職者の獣”という言葉に反応したハチワレは「それはでかつよみたいな討伐対象ですか?」と尋ねる。
「でかつよって何だい、ハッチー。聖職者の獣っていうのは巨大な獣さ。そこら辺の獣とは違って、俺ら人間よりかなりでかい。攻撃のパターンが豊富、部位回復のある奴だよ。左腕が妙に強化されてて、その腕から繰り出される一撃一撃が重い。暴力的な動きをするし、注意しないと一気に体力を削られるよ」
教会の黒装束を着込んだ狩人が簡単に説明すると、ハチワレは狼狽えた。人間の狩人よりも大きく、攻撃力の高い獣を狩らなくてはいけない――。何度か瞬きし、少し心を鎮めてからハチワレは口を開いた。
「その聖職者の獣を最初に倒さないといけないんですね?」
「そうだよ。下水橋の先にあるオドンの地下墓って所にガスコイン神父っていう厄介な男もいるが、あんたが最初に挑むには聖職者の獣の方が良い。倒せばそれなりに良いこともあるさ」
アイリーンが話していると、二人の会話を聞いていた煤けた狩装束の狩人が遮って「あいつを倒すと遅延毒っていう毒状態を治療する、白い丸薬が手に入るようになるんだよ。この先の獣狩りで白い丸薬はかなり使うアイテムだから持っていた方が良い。血の遺志も手に入るし、ハチワレちゃんも強くなれるよ」一気にそう言った。ベテラン狩人らしい、確信に満ちた物言いだった。
「じゃ、最初は聖職者の獣との戦闘だね。ハチワレちゃん」
「え……と、はい。分かりました」
他の狩人達にとっては共有されている情報だが、いまいちボス的存在の獣について――特にヤーナムにおける戦闘について理解していないハチワレは小さな声で答えた。
「やっぱり、”大きい討伐”みたいな感じでいいのかなぁ……」
自信なさそうに呟くハチワレを励まそうと狩人達は一斉に声援を送った。無駄に明るく声を出し、やたらと大げさなリアクションをする彼らは賑やかし芸人のようである。
「大丈夫だよ、ハッチ!俺達も助っ人として戦闘に参加するからさ!」
「ハチワレちゃんが上手く聖職者の獣を倒せるように立ち回るから!」
「ハチワレちゃんと我々は一心同体、一蓮托生だ!目指せ全上位者撃破!ついでに月の魔物まで倒しちゃおう!」
わいわいと賑やかな会話をする狩人がいる一方で、ハチワレの身を心から心配し、現実的な思考を巡らせている狩人もいた。「念の為、油壷と火炎瓶、発火ヤスリ十個ずつ持たせようか?でかい一撃食らっちゃったら体力一気に減っちゃうから、ヨセフカの輸血液も持たせようかな……」
すっかり浮かれ、ハチワレの周りで色々と話している狩人達を眺めていたアイリーンだが、ついにブチ切れて彼らの頭を何処からか取り出したスリッパで叩いた。神速のスピードで叩かれた狩人達の頭からなかなか良い音が響き渡る。
「馬鹿かい、お前たち!普通は一人で上位者戦に挑むんだよ!あんたら三十人近くが聖職者の獣の所に押しかけたら瞬殺じゃないか!そんな楽な戦闘でレベルアップして意味あるのかい!」
アイリーンの怒声に動揺せず、逆に闘志を滾らせた狩人達は声を揃えて叫ぶ。「「「「だってハチワレちゃん一人で戦わせたら危ないじゃん!」」」」
「危なくても一人で戦うんだよ!そういう流れだろう!」
「ハッちゃんを一人で戦わせるなんてとんでもない!」
「そうだ、とんでもないぞ!アイリーン!文句言うならあんたが行け!」
アイリーンへの激しいブーイングを続けながら、狩人達はハチワレを守るようにさっと囲んだ。「え?え?」とハチワレはただ驚き、自分を守るように取り囲んだ狩人集団を見上げている。
「なんであたしが聖職者の獣を倒さなきゃいけないのさ!獣を狩るのはあんた達の役目でもあるだろう!ちゃんとその子もいかせな!私は狩人狩りを仕事にしてるんだ、獣はあんた達が成すべきことだよ」
冷静な口調でそう告げ、それっきりアイリーンが口を噤んでしまうと、狩人達は互いに顔を見合わせて「信じられない」という反応を見せた。
「ハチワレちゃんに何かあったら俺病みそう……。もう狩人やっていけないかも。……推しが狩られるなんて鬱展開、耐えきれねぇよ」
「俺もだわ」
「ワイも」
「私も」
三十人近い狩人が一斉に嘆き出した。場の空気が一気にネガティブなものに切り替わってしまった。いつの間にかヤーナムの狩人達の推しにまで昇格したハチワレをアイリーンは困ったように見詰め、長い溜息を吐いた。
「あんた達、ヤーナムに癒しがないからって新人狩人にそこまで入れ込んだらおしまいだよ」
「可愛いんだからしょうがねーだろ!こんなに何か小さくて可愛い生き物、他にいるか?いねぇよなぁ?」
アイリーンはペストマスクの下で唇を結び、いかつい眼差しを皆に送ったが、瞳を震わせているハチワレを窺うように見ているうちに折れたようだった。渋々と仕方がないと零した。肩をすくめてみせ、「……余計な手出しはしないと言うなら、良いよ。あんた達でその子を聖職者の獣の所に連れて行きな」そう話した。
数多の凶悪な獣が蠢いているとはいえ、威風堂々たる邸宅や格式のある中世の城のような建物が並ぶヤーナム市街は美しかった。狩人の一人――黒フードの鉄兜とヤハグルの黒衣を身に着けた狩人がハチワレを肩に乗せ、目的地へ導こうとしていた。
壮麗な建物のすぐ近く、石造りの橋の表面が陽光で照らされていた。市街に流れる下水も赤く染まり、光を反射している。朱色に光る石段を歩きながら、ハチワレは共に行動する狩人達からヤーナムの歴史を聞いていた。そこで初めてヤーナムという街について知った。狩人の多くが上位者と呼ばれる存在と血の意志、血晶石に並々ならぬ関心を抱いていることも。
狩人達が靴の音を響かせて橋を渡ると、いよいよ戦いの時間が近づいた。何処か近寄りがたい陰鬱な空気が充満する異様な場所――高い柵と古の建物が聳え立つ場所にハチワレは案内された。
「――ここが聖職者の獣が出現する場所だよ、ハチワレちゃん」
狩人の静かな声にいつになく不安になったが、ハチワレは覚悟を決めてさすまたを握った。狩人装束の内側に発火ヤスリを数個仕込んでいたが、使うタイミングが分からずにいる。聖堂街の教会の鐘の音と共に、耳を劈くような獣の咆哮が響いた。何かが空気を切り裂く音と前方から迫る敵の唸り声がはっきりと聞こえた。
「――ハッチ、来るよ!」
狩人が叫んだ。巨大な獣の鋭い爪が橋の敷石を引っ搔いて火花を散らすのをハチワレは見た。――聖職者の獣だ。
その場の雰囲気が一変した。巨大な獣から悲鳴のような叫び声が喉から漏れ、ハチワレは完全に慄いた。自分より何十倍も大きい獣の強烈な叫びに、勇気が潰えそうになる。何も考えられず、身体が硬直していた。
ハチワレに迫る獣――聖職者の獣はバフォメットのような二本の角を生やしていた。トナカイの角のようだが、太くしっかりと発達していて、歪んで捻じれている。頭部は真っ黒で、殺意に満ちた両目を確認することが難しい。片腕が肥大化しており、上半身は筋肉隆々だが、下半身は細く締まっていた。肉の盛り上がりもあるが、胸部から骨が剥き出している異質な身体だ。全身にアッシュグレイの豊かな毛を纏っていて、聖職者の獣が呼吸する度にふわりと揺れ動いた。
敷石を軋ませ歩いてくる聖職者の獣にハチワレは混乱していた。はっきり言って”でかつよ”と戦う恐怖を上回っている。でかつよはまだ可愛い方で、ヤーナム市街の狩人を見張っているこの聖職者の獣からは底なしの恐怖を感じた。巨躯の獣の視線は執拗にハチワレの様子を追い、攻撃の瞬間を見計らっているようだった。
というのも、小さなハチワレの後方に三十人近くのベテラン狩人がいて、しきりに武器を構えて参戦するのを待っているので、聖職者の獣としては慎重にならずにはいられなかったのだ。
「ハッちゃん、大丈夫?いけるか?」
「援護が必要ならすぐ行くよ!」
狩人の声を力強いなと思いながらハチワレはさすまたを握り締め、「――分からないけど!分からないけど、何とかなれー!」と発火ヤスリでさすまたを擦った。
赤々とした炎がさすまたの先端を包み、燃え上がった。立ちのぼる煙が夕空に向かって流れていく。火のついたさすまたを両手で握り、ハチワレは聖職者の獣の元へ突っ込んでいった。
地面が震え、恐ろしげな金切り声が響いた。聖職者の獣が猛烈な勢いで拳を繰り出す。ハチワレはさすまたを猛烈な速さで振り回し、聖職者の獣の身体に当てようとした。「エイッ!ヤーッッ!」
その時だった。勇ましいハチワレの叫び声に合わせ「「「「「エイッ!ヤーッ!!」」」」」と狩人達が飛び出した。待機していた狩人が次々に跳躍し、聖職者の獣目掛けて攻撃を繰り出す。まるで悪夢のような光景だった。頑丈な身体に狩人達の斬撃が襲い掛かり、派手に血飛沫が上がって肉片が飛び散った。大勢の狩人による新手の拷問のようだった。聖職者の獣は絶叫した。ちょっと卑怯じゃない?と抗議の声を上げたかったが、無限にあったかのように思えた体力が一瞬でゼロになり、聖職者の獣は斃れた。
「え、え?あれ?」
燃えるさすまたが聖職者の獣に少しも当たらず、討伐が終わってしまったことに驚いてハチワレはぽかんとする。発火ヤスリを使ってまだ十秒足らずだ。おかしいな、と再度渾身の力でさすまたを振り回すと、ハチワレの目の前に躍り出ていた狩人――フードを目深に被り、異常者の装束を着た男性の狩人で、右手にロスマリヌスを装備していた――の臀部に突き刺さった。それも丁度、よく絞まった窄まりへと勢いよく食い込む。ズブリと。炎のア●ルファックである。
「ファーッッッ!アンギャーッッッッ!イッデェェエェェェェェェェェェェェェ!」
狩人は獣のように叫んだ。経験のない鮮烈な痛み――全身に走る激痛に呻き、悶え、ロスマリヌスをぶん投げて地面に背をつけてゴロゴロと移動する。さすまたを刺してしまったハチワレはア●ルファックで撃沈した狩人を見て、「ごっ、ごめんなさい!わっ、どうしよう……!どうしよう!」と鞄を漁る。人形が入れておいてくれた輸血液を使用しようとするが、それより先に他の狩人達が動いた。
「わっ、どうしたの、コイツ。尻燃えてない?」
「ヨセフカの輸血液使う?聖歌の鐘もあるけど……何してるのよ。そういうプレイ?」
「ボス戦で何やってんだよ。ケツ燃やして参戦なんて、信じられねぇな」
「ハチワレちゃんの前で何やってんの、この人。変態は還した方が良くない?」
臀部を激しく燃やしながら這い蹲っている狩人を怪訝そうな顔で観察し、狩人達は回復アイテムを彼の尻に使った。発火ヤスリの効果が切れ、炎が消えたさすまたを握り、ハチワレはひたすら謝った。押し寄せる罪悪感に責め苛まれていた。「ごめんなさい。上手く戦えなくて……」
不甲斐なさから涙を滲ませるハチワレに異常者の装束の狩人は「……だ、大丈夫だから。泣かないで、ハチワレちゃん。聖職者の獣を斃したんだし……」と優しく言葉を返す。仲間が投げて寄越した回復アイテムのお陰で傷を癒した狩人はぼうっとしながら、「正直、無防備な金玉叩かれる痛みよりきつかったな……」小声で呟いた。
強い罪悪感と安堵の入り混じった複雑な想いで立っていたハチワレを囲み、狩人達は祝福の言葉を贈った。ハチワレの力ではなく、彼らの力で斃した上位者戦の勝利をめでたく思っているようだ。
「やったね!ハチワレちゃん!」
「ハチワレちゃんおめでとう!」
「ハッチ、聖職者の獣撃破おめでとう!啓蒙と血の意志、剣の狩人証が手に入ったでしょう?」
「あ、ありがとうございます。えと、啓蒙と血の意志って一体なんですか?」
聖職者の獣撃破と同時にハチワレは啓蒙と血の意志――この世界の経験値に当たるものでレベルアップや武器強化、アイテム購入などに使用する――四千と剣の狩人証を入手した。ついでにア●ルファックという強烈な技も取得した。
「啓蒙は説明が難しいんだけど、新人の狩人はあまり高めない方が良いね。血の意志はハッちゃんをレベルアップさせてくれる。ゲールマンの所に帰ったら人形ちゃんに強くしてもらいな」
「分かりました。灯りから戻ったら、お二人に聞いてみます」
幾分か落ち着きを取り戻したハチワレは橋の上に出現した灯りに近付き、命の火を灯すように付けた。質素な作りのランプにふんわりとした幻想的な光が宿り、四体の使者が現れて祈りを捧げている。狩人の灯りを守る使者は小さな骸骨で、とうの昔に役目を終え、人々の記憶から葬り去れた死者の成れの果てのようだった。
「次はガスコイン神父と戦うからしっかり武器も強化して、自分もレベルアップしておいてね」
「私達も一緒に行くから!」
「待ってるよ、ハチワレちゃん」
大勢の狩人達――ハチワレ親衛隊はまだ獣狩りの本当の恐ろしさを知らないハチワレを見送る。きっと次の上位者戦も上手くいくよと言われ、彼らの優しさと言葉に鼓舞されて、ハチワレは灯りの前でしゃがんだ。
狩人の夢の中に戻る前に「皆さん、本当にありがとうございました」と丁寧にお礼を伝え、ハチワレは控えめに手を振った。小さい手が振られると、狩人の顔がほころび、柔らかい微笑みを浮かべて別れの時を惜しんだ。
使者が囲む淡い光がハチワレを包み込み、その輪郭を曖昧なものにした。ヤーナム市街から狩人の夢に帰還する際、またあのメロディが聞こえてきた。ゲールマンと人形がいる優雅な屋敷から流れる甘美な調べが。
揺らめく輪郭が消える瞬間、狩人達はハチワレに手を振り「また会おう」と言った。ハチワレは「はいっ」と元気よく返事し、消えて行った。小さな狩人の姿が消えると、集められたベテラン狩人達は手をゆっくりと下した。唯一残されたもの――使者の灯りだけが煌々と光り、静寂がその場を満たした。
「ハチワレちゃん、強くなるかな……」
一人の狩人がそう零す。ハチワレは最初の戦いを終えたばかりだ。まだ見ぬ敵と脅威が待ち構えている。ヤーナムという奇病と死が蔓延する街で。血と死臭が溢れる路地と大通り、無数の骸が眠る墓地、死者の亡霊と獣が彷徨う悍ましい場所で、戦いの物語は始まった。
そう、ハチワレと狩人達の獣狩りは、まだ始まったばかりだ――――。
――討伐の帰りに友を探して彷徨っていると、気が付いたら濃霧に包み込まれていた。
驚くほど冷えた空気に出迎えられ、同時に美しすぎる旋律が聞こえてきておかしいと思った。それだけでなく、仄かに甘い香り――嗅いだことのない上品な花の匂いも感じ、ああ、ここは何処か違う空間なのだと分かった。
霧の向こうに立派な屋敷が建っていて、怪しい雰囲気に顔を顰めたが、取り敢えずそこへ行こうと思った。友の行方が、自分に何が起きているのか分かるかもしれない。
「プリャ」
ずんずんと歩き、解放された屋敷の扉の中へ入る。足取りにも心にも迷いは一切ない。屋敷に入った途端、何かが軋む音がして、すぐに警戒した。愛用の武器を構え、気配を探る。車椅子が移動するギィッという音の後、低い声で話し掛けられた。
「――おや、君は誰かね?」
「ウラッ!」
狩人の夢の世界に新たに迷い込んだ小さな狩人候補――うさぎは束の間、ゲールマンを見詰めて「フゥン……」と腕を組む。ゲールマンの素性を探ろうとする視線に、それまで黙って成り行きを見守っていた人形が困ったように首を傾げた。この小さい可愛い生き物は強者だ。ハチワレと違って紛れもなく能力が一級であり、強き狩人になる。そんな予感がして、人形は唇を半開きにする。言葉は出てこなかったが、ゲールマンにも何かが伝わったようだった。
「ちょっと何だろう、ハッちゃんのお友達?それにしちゃ、いい器だな……。逸品かもしれん」
「ハア?ハア?」
人形と一緒にハチワレの帰還を待っていたゲールマンの元にやってきたのは、ハチワレの友人のうさぎだった。
うさぎは部屋の隅々まで眺めると、ハチワレがいないと分かって「ハァ!?」と叫び、ゲールマン達に何らかの説明を求めるのだった。
ハチワレボーン【ヤーナムへようこそ】