【五歌】ウェディングフォト【硝歌】ーー先輩の周りは空気が綺麗だ。
呼吸がしやすい。煙草もいらない。
歌姫がそこにいるだけで場が清められる。
『硝子には健康で長生きして、一緒にいて欲しいの』
医師免許を取得し高専に勤め始めてからというもの、「医者の不養生」を地で行く硝子の生活を心配した歌姫には、強く禁煙を勧められた。
ニコチン中毒と化していたので症状を耐えるのは正直辛いのだが、「一緒にいて欲しい」と言われたのは嬉しかったし、歌舞を主体にする歌姫の術式に配慮するならば、もっと早く紫煙を断てば良かったとも反省している。
歳の離れた先輩でヤニ仲間だった日下部からは、「禁煙出来たら俺も庵に認められたかな」と苦笑いされた。
ーーそれに比べて。
この図体のデカい黒づくめの同期は、医務室にいるだけで空間を圧迫してくる。多忙を極めるこの男が硝子のテリトリーに長居するという事は、歌姫の事で何か話したい事があるのだ、と経験則で解る。そして、話題は大抵マウント取りか牽制だ。
というわけで、硝子は先手を打つ事にした。
「この間、先輩とウェディングフォトを撮ったんだ」
「ーーああ」
地を這うような低い声で五条は唸る。硝子は束の間の優越感を味わう。
「私も先輩も結婚願望はないが、先輩が『普段和装ばかりだから、ドレスは着てみたかった』と言うんでな。都内のスタジオで撮ったんだ。今は同性カップル向けのプランも色々あるんだな」
「……いつ硝子と歌姫がカップルになったんだよ」
「先輩が前に居酒屋で酔った時に、『健やかなる時も病める時も永遠の愛を誓うわ』って」
「オエッ。酔っ払いの戯言だろ」
苛立たしさを隠さない同期を、さて何処までからかってやろうか、と考える。こんな時、夏油が隣にいたらと思う。
「硝子と先輩のヴァージンロードは、私と悟が父親役で歩けばいいのかな」位言ってくれただろう。同好の士を失ったのは惜しい。
「まあ先輩が愛を誓っていたのはビールの大ジョッキだ」
「やっぱただの酔っ払いじゃん」
ただ、生徒や生徒の属する家の関係もあり、職場である京都高専の職員の前では酒に酔って醜態ーーもとい隙を見せないよう気を配っているようではある。年の離れた後輩にあたる七海や伊地知の前でも同様だ。
硝子と五条の前でだけ、酔いに任せた無防備な姿を晒す。硝子が介抱し、五条が抱き抱えて運ぶ。
「ーー先輩は」
「ん」
「誰か特定の一人を好きになることは無いって言ってたよ。みんな等しく大切なんだと。先輩らしいな」
「それこそ酔っ払いの戯言でしょ」
そうだ。手の届く範囲にある人間全てをあの人は慈しむ。愛せる。だが。
ーー「嫌い」だと嘯くのは、たった一人だ。
「スマホに入ってんなら写真見せてよ」と五条は強請る。
「いくら出す」
「冥さんかよ」
「君にドレス姿の写真を見せたと知ったら、先輩怒っちゃうだろ 口止め料込みだ」
「言い値でいいけど。その代わり、データ全部転送して」
適当に告げた金額がネット銀行にリアルタイムで振り込まれたのをスマホの通知で確認し、半ば驚き呆れつつ、硝子はスマホの写真フォルダから望みの品を五条のアドレスに送る。
自然光の差し込む白い内装のチャペルで二人並んで撮った写真は、硝子にとっても宝物だった。わざわざ目隠しを上げて、五条はスマホの画面をスクロールしている。
ーー先輩の隣に並ぶ姿でも想像してるのか。
そこは私の居場所で、君の入る隙は無いんだよ。
「……傷、隠したんだ」
「先輩はそのままでいいと言ったんだが、メイクさんが綺麗にしてくれて。ほら、私のクマも綺麗にカバーされてる。撮影後に画像加工もしてくれたみたいだな」
「ふうん」
傷が付いてからこれまで、歌姫に浴びせられた憐れみと悪意の数々と、それを跳ね除けて凛として己を曲げなかった彼女の姿を思い起こしたのか、五条は何か言いたげだった。
「傷があっても無くても、先輩が綺麗な事には変わらない」
五条はケラケラと乾いた笑いを上げる。
「硝子、生徒だけじゃなくて自分の視力検査した事ある」
「失礼な奴だな」
「この間、関西方面の特級案件まとめて片付けに行った時、歌姫の家に泊まったんだ」
ーーほら来やがった。
予想通りの話の展開に、硝子は煩わしげに眉根を寄せる。
「何でホテル取らないで先輩んちに泊まってるんだよ」
「予約は伊地知がしてくれるけど、チェックインとチェックアウトがめんどくさい。書類仕事は大体伊地知に投げてるけど、宿泊清算の報告ダルいじゃん だから歌姫の安マンションに連泊したよ」
「伊地知に任せないでテメエでやれ。先輩の優しさにつけこむな」
こと歌姫の事になると、この男は硝子に対して優位を誇りたがる。夏油がいればとりなしてくれただろうが、如何に自分が彼女にとって特別な存在なのかとアピールせずにはいられないらしい。
ーー安心しろ、君は先輩から世界で唯一、本気で嫌われている。
「歌姫の作る料理、酒のアテかおじいちゃんおばあちゃんが好きそうな物ばっかりなんだよね。温野菜に煮物とか煮魚とか。ハンバーグリクエストしても豆腐とひじき入ってたし」
「さすが先輩。植物性タンパク質と鉄分が取れていいじゃないか。嫌なら食わなきゃいい」
「美味しかったよ」
硝子は眉間を揉む。頭痛がする。五条も大概だが、歌姫も歌姫だ。何でそこまで甲斐甲斐しく面倒を見てやっているんだ。
振り返ってみれば高専時代からそうだった。
五条の誕生日の時、「手作りのケーキが食べたい」としつこくせがまれ根負けしていた。歌姫当人は甘い物は苦手なのに、調割烹着姿で生クリームを泡立てていた、静かな背中が蘇る。
「眠れない」と訴えられれば膝枕で日本どころか世界各国の子守歌を歌ってやっていたし(硝子的にはモンゴルの子守唄が興味深かった)、制服に穴が開けば縫ってやっていた。
あそこまで世話を焼かれたら、五条でなくとも勘違いするだろう。
スマホの中の、純白のドレス姿の歌姫を見つめる。
「私から先輩を取るなよ」と五条に釘を刺す。
「それはこっちの台詞だよ」