雨の日の缶詰 雨、雨、雨……。梅雨の宣言が出てから二週間あまり連日の雨、しかも窓の外は叩きつけるような大雨だった。雨は嫌いだとドラルクは言う。故郷の冷たい雨とは違って日本の梅雨はじめじめと不快感を感じる、それにこの退屈さにいい加減死にそうになってる。百年ほど前、日本にやって来たばかりの時はこの梅雨と言う季節についていつも文句ばかり言っていた。でもそれも数年経った時には慣れた。たった一月我慢すればいいだけだから。年月の流れも瞬く間のはずだったのに。この三十年は違う。まるでゆっくり時間が進んでいく。人間の世界に馴染んでいくと時間の感覚まで似てくるのかもしれない。
しかし……
「退屈で死にそうだ」
そう呟くドラルクの身体の一部は本当に砂になっている。スマホの天気予報アプリを見ると見事に今週はずっと雨。しかも今日は記録的大雨で外になんか出れる状態じゃない。
『不要不急の外出は避けましょう』もちろん。……ん?先週も今週も雨って事は
「あ……しまった」
冷蔵庫の前に立って呆然とした。冷蔵庫も、野菜室もすっからかんだ。雨の日の外出が嫌でまとめて買い出しした食材を使って作り置きを作って何とか凌いでいたがこれは早急に買い物に行かなければならない……。そう思っていると窓枠がガタッと揺れた。それと同時にバチバチと雨音とは思えないような乱暴な音が聞こえる。こんなものに当たったらきっと家を出た瞬間に砂になって流されてしまう。
隣ではジョンが「ヌンが行きますよ!」と言っているがそんな危ないミッションを大切な使い魔にさせる訳にはいかない。かくなる上は、と思いドラルクは予備室の扉に手をかけた。
開くと同時にむせ返るような男の匂いがして、身体がざらざらと崩れ落ちた。
「おい、若造!筋トレもいい加減にしろ!こんなくっさい部屋で配信する身にもなれ」
懸垂を続ける若造と呼ばれた男は世間一般に見れば「若造」とは言い難い見た目だ。顔に刻まれた皺やなんかを見れば歳の頃は五十そこそこ。だが同年代の男性と大きく違う点はその筋肉の付き方だ。しっかりと鍛えられていて整っている。露になった上半身には細かな傷が幾つもついて、ただの趣味で筋トレをしている
「若造じゃねぇわ」
トレーニングの手を止めて少し息の上がった壮年の「若造」ロナルドはドラルクに言った。
五十代といえ、体格に似合わず整った顔立ちに銀髪の髪でモデルと言われても疑う者は少ないだろう。
汗が筋肉に沿って流れていく。その汗さえも美しい、とドラルクはこの男の色香と匂いにクラクラとする。
何故かと言えば、毎晩の様にこの男に抱かれているのを思い出すから。
「ち、ちょっとトレーニングを控えたらどうだ?ゴリラ臭くてかなわん」
「なんで自分の家なのに指図されなきゃいけないんだ。それとも、ベッドで一緒に汗流すか?」
出会った頃の自己肯定感の低さから来る自信のなさは一体どこに行ったのだろう。それを育てたのは紛れもないドラルクだった。
「エロ親父め……」
「コロコロ呼び方を変えんな。んで、何か用なんだろ?」
「ちょっと買い物頼まれてくれない?」
「は?今か?」
「今」
ジョンを抱えたドラルクが頷く後ろで雷鳴が轟いている。
「この状況で?」
「もう冷蔵庫空っぽでさ……」
「オムライスは?」
「できない。鶏肉がない」
少しは日持ちのする野菜や卵はあるが肉や魚のような主菜になるものはない。
「嘘だろ……?」
世界が終わったかのようにロナルドはショックを受けている。
じゃあ買い出しに行ってくれるだろう、そうドラルクがそう思った時ポケットに入っているスマホからけたたましいアラート音が叫びをあげ、その音に驚いて死んでしまった。
「な、なんなんだ?」
ロナルドのその言葉と同時に部屋の電気がバチン、と消えた。
停電だ。
スマホの画面には「大雨警報につき外出するな!」との警告が書かれていた。
これはいよいよ外出なんてできそうにない。
「こいつは……困った」
家にあるものでなんとかこの筋肉ゴリラの腹を満たさなければならない。でもどうやって?
「あ!」
また、驚きで体が崩れる。
「そういえばこの前、退治の礼にもらったもんがあったはず」
暗闇の中ロナルドが手探りでキッチンにやってきて床下の収納をゴソゴソと漁る。
ガラガラと金属同士がぶつかる音が聞こえる。
「お、あった、あった」
ビニール袋にいっぱい入ったそれは、缶詰だった。
「これでなんか作れねぇか?」
大小さまざまな缶の中には肉に魚、果物種類も多い。最近ではケーキやパンの缶詰でさえあるらしい。
確かに今は非常事態だ。とにかく今はこれで夜食を作るか。
「わかった。これでなんとか作ってみよう。お前もとにかくシャワー浴びてこい。マジでくさい」
ロナルドは言い返そうとしたが自分の体を嗅いですごすごとバスルームへと消えて行った。
さぁ、さて何を作ろうか円柱の缶詰を前にドラルクは腕組みをして「ふん」と鼻を鳴らした。
***
停電はまだ復旧はしない。だが幸いにもガスだけは無事だった。そのおかげでシャワーもなんとか冷水でなくて済んだ。ロナルドは濡れた髪をタオルで拭きながら暗闇に慣れてきた目で食卓へと向かっていく。
先ほどから何かを焼く音や良い香りが脱衣所にいてもしてくる。
ドラルクの料理の腕は間違いない。どんな食材でもたちまちご馳走に変わる。
もちろん、金属の缶詰に入った保存食であってもおそらく揺らぐことはないだろう。
テーブルの上にはキャンドルとさまざまな料理が並んでいる。
「うぉ!これ全部缶詰?」
「そうだよ。あとは冷蔵庫に残っていた野菜だけどね」
「あれ?オムライスはできねぇって言ってなかったか?」
「いいから食べてみて」
テーブルに腰掛けパンっと手を合わせるスプーンで掬ってみるがいつものオムライスと変わりない。口に運ぶと微かに甘いそれに炭の匂いもする。
「ん?これ」
「そう、焼き鳥の缶詰」
なるほど、さながら洋風親子丼みたいだ。
あとは鯖缶と玉ねぎのマリネ、それにツナ缶のリエットにクラッカー、デザートは桃缶のパンケーキ。
まるで缶詰パーティだ。
「ヌイシー!」
むしゃむしゃとロナルドとジョンは次々と料理を口に運んでいく。
五十を過ぎたロナルドがまるで子どものようにはしゃいでいる。
外は相変わらず大嵐だったが、そんな彼の姿を見るとドラルクの憂鬱だった気持ちも少しずつ晴れていく。
「おい、これも開けてみるか?」
ほとんどの料理を平らげてしまったロナルドは袋の中にあったオイルサーディンの缶をカシャリと開けている。
「ふふっ」
雨の日は嫌い、だけれどもたまにはこうやって閉じこもっているのも悪くない。今年の夏がやって来るまでもう少し。
今年の夏は何が起こるだろう。今から何が起こるか心が躍る。中身が見えない缶詰に似ている。銀色の缶の中にはどんなものが詰まっているのだろうか。甘いのか辛いのか、酸っぱいのか、塩っぱいのかそんなものは開けてみないとわからない。いつの間にか数十年経ったけれども彼といると本当に退屈しないな。
「お、この赤くてでかい缶は何入ってんだ?」
みかんの缶詰を開けたロナルドは次に平たい円柱の缶に手を伸ばしていた。
「ん?」
あの缶詰は見たことあるような、とドラルクは思案する。
なんだろう……ものすごく嫌な感じがする。
「……!あ!待てロナルドくん‼︎」
蓋に缶切りが突き刺さりそれと同時にひどい臭気が部屋中に広がる。生臭いような例えようのない臭い。予備室のロナ臭なんて比べものにならない。
「うぇぇぇぇぇぇ‼︎」
「ヌェーーーーー‼︎」
「スナァーーーー‼︎」
雷鳴をかき消すような叫び声が部屋に響き渡る。
それは以前ドラルクがイタズラをするために買っていたスウェーデンの「世界一臭い食べ物」シュールストレミングの缶詰だった。
イタズラしようにもこれを開けるということをドラルクは失念していて持て余していたのを忘れていた。
それから二週間、梅雨が終わるまでの間ドラルクとジョンは実家に帰ることになり、ロナルドは事務所で寝泊まりをすることになったのだった。