「にゃあ!」
茶とらの猫は勢いよく鳴いた。テーブルの下をうろうろと歩き、飼い主に食べ物をねだる。燐音は動き回る猫に、自分のささみを一切れ差し出した。駆け寄ってぱくりと食べた猫は、うれしそうにぺろぺろと燐音の指を舐めはじめる。
「そんな甘えたってもうやらねぇぞ」
「そう言って兄さんはいつもわけてるじゃないか」
「食べられるもんだけだよ」
「最近鶏肉料理が多いね。それもたれをかけるタイプ」
「…」
「成長期だけどあまり甘やかすと太るよ、猫が」
「成長期なら血肉になンだろ」
そういって燐音はふいと一彩から顔をそむけた。猫は満足したのか、燐音の足元で丸くなっている。一彩はささみのポン酢かけに箸を伸ばしながら、心内で兄の激愛っぷりを嘆いた。
二月の半ばにふらりと現れたこの子猫は、すっかり天城家の頂点に君臨していた。最初は迷子猫として一時的に保護していたのだが、貰い手が現れなかったためにこうして天城家に迎え入れられた。親をなくした小さな子猫は、燐音の庇護欲をたっぷりと刺激したらしい。一彩はだんだんと猫に夢中になっていく兄の姿に、少しばかりの不満を抱いていた。
この猫が現れるまでは、自分が兄を独り占めできていたのに。子供じみた不満は、大人げなく一彩の心を埋め尽くす。しかし猫にあたったところで仕方がない。親猫に捨てられたのか、自ら冒険して迷子になってしまったのか、いずれにせよ一人では生きていけなかったのだ。すこしばかり空いた窓からこの家へ入り込んだ猫は、幸運の持ち主だろう。
一彩はメインディッシュとして鎮座していた胸肉のステーキを食べ終えると、丁寧に箸をそろえた。
「ごちそうさま。皿洗うから、置いておいて」
「おそまつさまでした。俺がやるよ」
「兄さんが作ったから僕が洗う。決めたことだよ。とらきちと遊んであげて」
「さんきゅ。……っし、とら、遊ぶか!」
立ち上がった燐音に元気よくついて行ったとらきちを見ながら、一彩は皿をシンクへと運んだ。とらきちという名前は燐音が付けた。それは別に考えたわけではなく、ただ保護していた時にその名前に反応したからという単純な理由である。
カチャカチャと皿を洗っていると、ふいに一彩の足を暖かなものが包んだ。下をみると、猫が遊んでほしそうにこちらを見上げている。とらきちは賢い猫で、一度テーブルやシンク周りに上ったことを叱ればそれがいけないことだと理解した。なーなーと鳴くとらきちを足で挟んだりして構いながら、一彩は兄を探した。キッチンから首を伸ばしてリビングを見れば、ソファのアームから赤い髪がひと房垂れていた。どうやら寝てしまったらしい。
一彩は手早く残りを洗い終えて、リビングへと移動した。ソファですぅすぅと寝息を立てる兄は起きる気配がない。のびきった腕から落ちたねこじゃらしをとらきちがくわえた。キラキラとした瞳でこちらを見るから、一彩はソファの前へ移動して、とらきちから猫じゃらしを受け取ってひょいひょいと動かして見せた。狩人のように猫じゃらしに向っていくとらきちの相手をしながら、兄の様子をうかがう。
今日はどうやらハードワークだったようだ。お互いの仕事はなるべく把握しているが、それでも不規則な仕事のために家事を交代できないことは多々あった。それに新しく猫の追加された猫の世話。成長期真っ最中のとらきちのために、燐音は献身的だった。
一彩は空いた手で兄の前髪をすくった。一彩のものとは違いまっすぐな毛質は、さらさらと手から零れ落ちていく。すこしかさついた唇へ顔を寄せようとして、胸元にかかる体重に一彩は顔を向けた。
「なんだい」
「にゃあ」
「だめだよ、いくら兄さんに愛されてるとらきちでも、こればかりは譲れない」
「にぁ」
「兄さんからおいしいものはもう貰っただろう。だから、これは僕が貰うんだ」
そう言って一彩はとらきちを抱き上げた。なぁなぁと鳴く猫を撫でながら、自分の唇を兄へと寄せる。
赤くかさついた唇は、一彩の大好きな味がした。