一彩はじりじりと相手を隅へ追い詰める。人としての尊厳を捨てて、四つん這いになって睨み合った。退治する彼も手放す気は無い、と汚くなったタオルハンカチを噛み締めた。
「・・・」
「・・・」
やがて相手の背中がぴたりと壁につく。一彩はじっと見つめながら、手に持った新しいタオルハンカチを差し出した。
「・・・これにしてくれ」
「・・・」
「見てごらん、それよりもふわふわじゃないか」
「・・・」
睨めど動かない毛玉に、一彩はがくりと額を地につけた。完敗だ。はぁ、と大きなため息をつくと、一彩は体をごろりと床へ転がした。退治する猫は「やっとか」とでも言うようにお気に入りのタオルハンカチの上に寝転がる。
昨夜から続いているこの攻防は、一彩の貴重な休日をおおいに奪っていた。ぺろぺろと毛ずくろいをする茶トラの猫を眺めながら、一彩は兄から厳命された『タオルハンカチの洗濯』をどう遂行すればいいのかと考えをめぐらせた。
2月に転がり込んだこの子猫が天城家の一員となって早くもひと月が経とうとしている。保護期間を含めれば数ヶ月、それだけあれば猫が我が物顔で部屋を歩くのは当たり前の事だった。
そんな子猫がお気に入りのように連れ回すのが、ターコイズブルーと白のストライプ柄のタオルハンカチだった。元は部屋に上がり込んだ日にベッド代わりとして使ったもので、もとは一彩が使っていたものだった。何故かいたくお気にりになったようで、昼寝をする際は必ずこのタオルハンカチを側へ持っていく。そうやって引きずり回すものだから、あれよあれよと綺麗だったタオルハンカチはぼろぼろになり、所々にほつれすら出てきていた。挙句の果て、どこでひっかけたのやら、端の方は穴が空いている。
それに気づいたのが数日前。燐音はたまたま休日を貰っていた一彩に『洗濯ついでに直しとけ』と言い放ち仕事へ出た。数泊の予定で、メールによれば今日帰ってくるらしい。一彩はなんとしてでも兄が帰るまでにタオルハンカチの補修と洗濯を終わらせたかった。兄に『猫に遊ばれてんなァ!』と笑われるのは必須だからである。
すやすやと寝こけ始めた猫を見て、一彩は息を潜めて起き上がった。似たブルーのハンカチを握りしめ、猫の元へと近寄る。ボロボロになったタオルハンカチに手をかけたところで、ぱちりと猫の目が開いた。
至近距離で目が合う。
一彩は腹を括った。思い切りタオルハンカチを引き抜くと、素早く代わりを猫の顔に被せて洗面所へとダッシュした。後ろから悲鳴のような猫の叫び声が聞こえるが無視だ。ばたばたと洗面所へはいると、予め用意していたガムテープでタオルハンカチに引っ付いた毛を剥がす。猫が嫌っている風呂場に置いておいた水桶にぶち込んでペット用洗剤を規定量そそぐ。ざぷんと入れてしまえば、こちらの勝ちだ。水に溺れたターコイズブルーのタオルハンカチを見て、一彩は勝ち誇った気分になった。やった、あとは三十分程度つけて干すだけだ。タオルハンカチならすぐに乾くだろう。四月の暖かな太陽がこれを新品とはいかずともきれいにしてくれる。
ふー、とやりきった気分に浸っていると、不意にズボンに爪をたてられた。下を見れば、睨むようにこちらを見上げる毛玉が一匹。一彩はその猫を抱き上げて目線の高さまで持ち上げた。
「仕方ないだろ、お前の匂いですごかったんだぞ、あのタオルハンカチ。気に入ってくれたのは嬉しいけど、洗濯しないと」
「それに、あれはもともと僕が兄さんに貰ったものだ。丁度いいのが無かったから使ったけど、お前用じゃないんだ」
一彩は声色をなるべく優しく言った。この猫は賢くて、人間の言うことをきちんと理解する。だからタオルハンカチだって洗わせてくれればいいのにと思うが、猫にとってはそうでは無いのだろう。相変わらず許してくれない猫の視線に一彩はおやつで機嫌をとるべくキッチンへ足を向けようとした。
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「ひいろっ、ただいまっ!」
「おかへぶッ!!っ、ぬいぐるみッ!?」
一彩は飛んできたぬいぐるみを顔でキャッチした。その姿に爆笑しながら燐音が靴を脱ぐ。足元で猫が落ちてきたぬいぐるみを拾い上げ、燐音は猫ににゃあにゃあと話しかけた。一彩は猫ファーストな兄の対応に皺を寄せて言った。
「っもう、いきなり投げないで欲しいよ」
「ん~、俺っちととらきちは秘密の条約を今かわしてンだ、夕飯食べたい」
「は?」
そう言うと燐音は荷物と猫と部屋へ入っていった。
1人残された一彩は、兄の言葉に疑問を持ちながら、とりあえずと夕飯の準備にかかった。
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「っくく、へぇ、それでか」
「笑い事じゃないんだよ兄さん!明日藍良に怒られるよ・・・『アイドルが顔に傷を作らない!』って」
一彩はため息をついてテーブルにひじをついた。泊まりがけの仕事から帰ってきた燐音は笑いながら一彩の話を聞いている。ぶすくれた一彩の頬には赤い線がひとすじ。燐音は手を伸ばしてそのラインを優しくなぞった。
「とらきちを説得しないからこうなるんだよ」
「説得した。応じなかったから強硬策に出るしか無かっただけだ」
「強硬策なら当然の報いってやつだな。あー、イケメン面がもっと良くなってるぜ、っはは」
「思ってもないくせに、よく言うよ」
笑いながらビールを煽る燐音を睨んで、一彩はつまみにと出したナッツをひとつ摘んだ。ちらりとリビングを見る。兄がお土産だと持ってきたふわふわのぬいぐるみを抱きしめて、猫がぐうすかと寝ている。反抗した爪は仕舞われ、のんきに腹を出す姿は立派な家猫そのものだ。あれほど拘っていたターコイズブルーのハンカチは未だぶらぶらとピンチハンガーにぶら下がっていた。自宅に帰ってきた燐音はそれと一彩の顔を見て吹き出した。頭の回転が早いことが、この時ばかりは恨めしかった。一彩はもう1つナッツをつまむと、思い切り噛んだ。
その様子に燐音は笑いながら、労いの言葉をかけた。よしよしと頭を撫で回されれば、単純な思考は上向きになる。一彩はわざとらしくため息をついて、自分の脳にどれだけ大変だったかを思い出させた。
「そんなに疲れたのかよ」
「疲れたさ。なんであんなにあのタオルハンカチにこだわってたんだろう。あんなに簡単に乗り替えるなら、僕の苦労はなんだったんだ」
「あはは、俺は分かるぜ」
「え?」
どうしてだい、と言いかけた唇を燐音に塞がれる。ビールの苦い味と兄の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。燐音はニヤリと笑って言った。
「お前が好きだからだよ」
「はぁ?」
「お兄ちゃん数日間はお仕事で離れてたけど、」
一彩の横へたった燐音が一彩を立ち上がらせた。
「こっからは俺の時間だから」
そう言って燐音は一彩を抱きしめて、その唇に改めてキスをした。