「おい、とらきち」
タオルを首からかけた燐音は、思い切り凄んで言った。相手がひるむように、しかしその下敷きになっている恋人が起きないように、器用にぴりぴりとした空気をまとわせる。ぎろりと視線をするどくするも、悠々とあくびをしてみせた猫はかわいらしい声色で「にぁ」と鳴いて、再び丸くなった。それを見た燐音は、しばらく思案したのち、ひとつ息を吐いてソファでねこけている弟の上に鎮座する猫へひざをついた。小さく目を開いた猫に顔を近づけて、ひそひそと声をかける。
「なぁ、約束したじゃん」
「な」
「な、じゃねェんだよ、ちゃんと一彩の匂いがするぬいぐるみやったろ? それに二人きりでいちゃいちゃもさせた」
「そこって寝心地よさそうだよな」
「譲れよォ、お兄ちゃん疲れてンだけどぉ」
「なぁ」
のんきに返事をする猫に、燐音はあきらめてソファの下に寝転がった。時刻は夜十時。先週から始まったライブツアーを一つ終えて、明日からは次の開催地に行くまでの小休止期間だった。
つい二時間前までスポットライトを浴びていた燐音は、どうしても家に帰りたくてひとりホテルを取らずにバスを乗り継いで帰宅した。メンバーからは「猫か弟か」と揶揄されたが、そんなことはどうでもよかった。燐音が今必要としている癒しは間違いなく弟だった。
Crazy:Bの初めてのツアーは、準備期間から大忙しだった。経験のある要と二人、ツアーのスタッフたちと意見を飛ばしあっては譲歩したりしなかったり、とにかく考えることが多すぎた。規模が違えばやることが増えるのは目に見えていたはずなのに。今までのライブハウスとは全く違う様式に、桁の違う観客の数。最初からかなりしっかりと準備をしていても、当日が近づくにつれて現場は忙しくなっていく。挑戦と不安で入り混じった数か月は、燐音に大きな負荷を与えた。
ごろりと寝返りを打って、燐音はスマホを開いた。震えた指でSNSを開けば、ライブを終えたオフショットをHiMERUがアップしていた。汗だくで笑う三人に混じる自分の姿。遠くからあの歓声がきこえてくるようだった。
燐音は目を閉じてペンライトの海を思い出した。キラキラと光る会場に、ファンの歓声。横に立つメンバーの笑顔。高揚感につつまれたあの空気は、間違いなく燐音が求めてやまないものだった。すべての席が埋まっていた。ひとつの空きもなかった。それがどれだけありがたいことか、燐音は身に染みて知っている。乗り越えた一つの山場に満足して、燐音は身を起こそうとした。
「にゃ」
「ん、どうしたとらきち。今度は俺の腹か」
一彩の影からひょこりと顔を出した猫は、身軽な動きで燐音の方へと降り立った。まだ子猫とはいえ成長した重さに、燐音はうっ、と声を出した。起こそうとした身を再びラグへと横たえて、燐音は優しく猫を撫でた。
「労わってくれンの?さんきゅな」
かるく顎をかいてやると、ゴロゴロと嬉しそうにとらきちは目を細めた。しばらくそうやってかまっていると、不意にとらきちが燐音の上で立ち上がり、ベッドの方へと離れていった。燐音は視線だけで追いかけながら、「おい、もうちょっと労わってくれてもいいんじゃねェの」と言った。しかし、猫はひとつ大きなあくびをした後、燐音があげたぬいぐるみを抱きしめて背中を向けてしまった。
燐音は猫のつれない態度に、「とらきちは俺っちに似てきまぐれだからなぁ」と声に出して言い訳した。そしていい加減部屋で寝ようと視線を戻したとき、こちらを覗く青い色彩に心臓が飛び出るほど驚いた。
「ッ」
「兄さん、帰ってきたのなら起こしてくれればよかったのに」
「いや、なんかつかれてそうだったし」
「疲れたのは兄さんの方だろう、おかえりなさい」
「ん、ただいま」
ソファの上にいた一彩が手を伸ばす。燐音はそれに顔をよせて答えようとしたが、その手は予想とはずれて床の方へと向かった。
そのまま、一彩は軽い身のこなしでソファから燐音の上へ降り立った。顔をあげていたせいで至近距離になった弟の顔に、燐音はライブとは違う高揚感が身を包みだすのが分かった。一彩はそのまま燐音へと口づけを落とす。軽いそれは幾度もおこなわれ、燐音の疲れた心を満たしていく。燐音が一彩のズボンへ手をかけたところで、一彩は口を開いた。
「今日はしないよ」
「は⁉」
「だって疲れただろう。兄さんが数か月前からぴりぴりしていたのは知ってるからね。今日は一緒に寝よう。僕でよければ、快眠を提供するよ」
にこりと笑った弟に、燐音はつられて笑う。
「へぇ。じゃあ一彩印の快眠術をお聞かせ願おうかね」
「僕を抱き枕にしておくれ!」
・・・
おまけ
「だって兄さん、いつも僕を抱っこするとよく眠れるって言うじゃないか」
「いつの話だよ、よく覚えてンな」
「ならやめておくかい?実はアロマももらってきたんだ」
「いいや、お前にしとくよ、っはは」