燐音は自室のベッドで意味なくスマホをいじっていた。時刻は夜九時。明日からツアーの開催地へと泊まり込む燐音の、最後の休日だった。
本来なら弟と同じベッドに入り込み、ゆっくりと夜を楽しんでいたはずだった。しかし燐音は一人きりでむなしく枕を抱いている。SNSを開いて、ただただトレンドを検索しては眺めていた。後ろの戸が開く気配はしないし、自分で開ける勇気もない。燐音は自分のしでかした行動に、おおきなため息をついた。
自分が悪いのは分かっていた。偏屈で、ひねくれていて。それが弟相手になれば輪をかけてひどくなる。兄としての矜持と、恋人としてのワガママ。それが燐音の中で合わさってはごちゃごちゃになって吐き出されていくのを、この関係になってから何度も体験した。
「最新のラテアート、ねぇ…」
トレンドにあがっていた美しい模様のラテアートを、燐音は弟に例えた。いつもまっすぐではっきりとしている。境目がはっきりとしたラテアートは、弟であり恋人であることを両立させている一彩そのままだと思った。
それに比べ、自身はどうだ。ぐちゃぐちゃにかき回された失敗作だ。恋人と兄と、何が何だかわからなくて微妙な色合いになったアートと呼べないものだ。それなのに、一彩はそのラテをいつも飲み干してしまう。それがどうしようもなく嫌で、燐音はまた意地悪とも呼べるようなかんしゃくを起こす。それでも一彩は笑いながら受け入れるのだから、燐音はもう打つ手も思いつかなくなって、話を打ち切ってひとり自室に閉じこもる。それがいつもの流れだった。
暗くなった思考が嫌になって、燐音は持っていたスマートフォンをぽいと投げた。枕を抱えなおして、ため息を枕へ押し付ける。本当は一彩と甘い時間をゆっくり過ごすつもりだったのに、差し出そうとしたきれいなカフェオレはあっという間にぐちゃぐちゃになって、差し出すに差し出せない。
「…どう考えたって俺が悪い、んだよなぁ」
思い出すのはつい数時間前のこと。晩御飯を済ませた燐音は、一彩に皿洗いを任せて保護した茶とらの猫と遊んでいた。しかしツアーの合間の休日とはいえ、仕事がないわけではない。ソファでごろりと寝転がれば途端睡魔が襲いだし、燐音は猫じゃらしを持ったまますやすやと寝てしまった。思えばそれがいけなかったのだろう。当然暇を持て余した子猫は新しい遊び相手の元へ向かう。そして燐音がぱちりと目を覚ました時、一彩はにこにこと茶とら猫を抱きかかえて、キスを送っていたのだ。それも燐音の眼前で。
猫にやきもち。猫に嫉妬。言葉にすればばかばかしい事この上ないのに、寝起きの自分にとってそれは何よりも許しがたかった。保護した時から一彩に懐いていたが、奪っていいとは言ってない。
そんな不満を、燐音はちょっとした言葉とともに吐き出した。すると一彩は笑いながら「猫にやきもちかな?」と燐音の頬を優しくなでたのだ。そのしぐさが恋人として嬉しく感じる一方で、燐音の兄としてのプライドがこんなの嫌だとわめきだす。そして恋模様のラテアートは無様にかき回されてしまった。
どうにも耐え切れなくなって、燐音は「俺っちは疲れたから寝る」とソファの背を飛び越えて浴室へと足を向けた。一彩は気にも留めずに「兄さんの部屋に寄ってもいいかな」と言ったから、燐音は「ダメだ」と拒否した。
どすどすといら立ちのままシャワーを浴びて、リビングにいる弟へ声もかけずに自室へ閉じこもる。
ばかばかしい。どう考えてもばかばかしいことこの上ない。生後数か月の子猫にやきもちだか嫉妬だかを抱いただけでもおかしいのに、それを気にせずに笑って受け止める六つも下の弟兼恋人。年上のとしての矜持も何もない。子供はどちらだ。
燐音は自身に宿る醜い嫉妬心とプライドに泣きたくなった。そしてニキの家に泊まりたい、と無性に思った。あそこでなら泣ける。家族に一番近くで、でも家族ではないニキの存在は燐音にとって大きかった。いつも何も言わずにそっとしてくれる優しさが恋しくなった。
ぐすり、とみじめに鼻をすすりながらスマホに手を伸ばそうとした時、燐音の顔に影が
落ちた。燐音がとろうとしていたスマホを取り上げて、後ろ手に隠す。顔を上げなくても分かった。いつの間に入ったのだろう。
「…返せ」
「誰と話すつもりだったのかな」
「別に。眠れねェからいじろうと思っただけっしょ」
「寝る前に触ると、逆に眠れなくなるよ」
そういって一彩はよいしょ、と燐音のベッドへ侵入した。慣れたように持ってきた枕を置いて、ごろりと横になる。燐音は一彩に背を向けて、瞼を閉じた。拒否する姿勢を見せる燐音を一彩はそっと後ろから抱き込んだ。
親しんだ暖かな感触が燐音を包む。ほっとする心に、燐音は舌打ちしたくなった。どうしてこうも単純なんだ。後ろから伸びた手が、燐音の手を包む。すっかり成人となった手は骨ばっていて、燐音の記憶にある小さな手ではなかった。指が絡む。一彩の親指がそっと燐音の指を撫でて、ぎゅっと包まれる。
「兄さん」
「……」
「…明日からのツアー、頑張ってね」
「……」
「おやすみ、兄さん」
一彩はそういうと、絡んでいた手を緩めた。燐音は耐え切れなくなって、振り返る。
青い瞳と目が合った。燐音が振り向いたことに驚いて丸く開かれた瞳から、一筋、涙が落ちる。慌てた一彩が、「あ、いや、その、…あくびが」としどろもどろに言い訳したが、それが嘘であることは明白だった。何年、兄をやっていたと思っている。
「なんで泣くんだよ」
「いや、別に」
「そんなに離れるのが嫌か?」
「そういうわけではないよ」
「とらきちと二人きりが嫌? あんなに懐いているのに?」
「懐いているのは兄さんの方だろう。いつも兄さんにご飯をねだってる」
「あれは俺がいつもやるからだろ。…じゃあなんで泣いてたんだ」
「気にしなくていいよ。僕の醜い心さ」
一彩が言い放った言葉に、燐音は驚いて声を荒げた。
「お前のどこが醜いってんだ!」
「醜いさ。僕は兄さんよりずっと、ずるい人間だ」
「そんなワケねぇだろ、お前は醜くなんかない!」
「そうかな。僕はいっつも、ずるく予防線をはってばかりだ」
目を伏せて言う一彩に、燐音は先ほどまで考えていたことなど忘れて一彩へかみついた。お前のどこが醜いって? いつもまっすぐに生きているお前のどこが。いつも俺のことをまっすぐに受け止めてくれるお前が、どうして醜くなければならないんだ。
「誰に言われたんだ、俺が全部否定してやるから言ってみろ」
「自分で考えただけさ」
「じゃあ教えろ。こんな状態でお前を置いてツアーなんか行けるか」
「それは困ったね」
一彩は眉を下げて笑った。真剣な燐音の様子に、本当に言うつもりはなかったのだと、前置きをしてからぽつぽつと話し始めた。
「…僕は、兄さんに嫌われたくないんだ」
「お前を嫌うわけないだろ」
「そうだね、いつもそう言ってくれるから、僕は安心するよ」
「他は」
「それから、いつも兄さんはまっすぐに僕へ感情を向けてくれる」
「…はァ?」
「好きだってことも、いやだってことも」
「……そうか?」
燐音が戸惑いながら言うと、一彩は「そうだよ」と笑った。
「さっきだってそうだ」
燐音は思わず息を詰まらせた。さっきまで己が醜いと思っていたことを、弟はやっぱりまっすぐ受け止めていたのだ。燐音が少し顔を顰めたのを見て、一彩は優しく微笑みながら話した。
「兄さんは僕に全部見せてくれるじゃないか。僕はそれを美しいと思うよ。僕のことを全部信頼してくれている証拠だと思うから。それに比べ僕ときたら、」
はぁ、とため息をついた一彩の言葉を、燐音は静かに待った。
「兄さんに嫌われるのが怖くて、さらけ出すことができないんだ。兄さんのことを愛しているし、兄さんに愛されていることを分かっているのに」
話しながら、一彩は取り上げた燐音のスマホをかかげて見せた。
「嫉妬してばっかりだ」
「…そういや、『誰と話すつもり』とか言ったな」
「だって椎名さんに電話をかけるつもりだったんだろう?」
きょとんとした顔で「ニキの家に泊まりたいって言ったじゃないか」と言い切った一彩に、燐音は目を泳がせた。一彩はその様子を見て「ほら、やっぱり」とさみしげにスマホをぎゅっと握って話した。
「兄さんが誰かに頼ろうとするだけで嫉妬するんだ。椎名さんくらい、許さなきゃと思うのに」
「いや、恋人のお泊りは否定しろよ」
「そんなに心の狭い恋人になりたくない」
「お泊り拒否は狭くないから安心しろ。むしろ俺が悪い。ごめんな一彩」
燐音が優しく一彩の髪をすくと、一彩は目を細めながら「兄さんは謝らなくていい」と言った。すり寄るように一彩が近づいてきたので、燐音は腕で抱きしめて答える。しばらくあやすようにせなかをさすっていると、一彩が満足したような声を漏らしたので、顔を覗きこむ。そこにはさっきと違って幸せそうな瞳がこちらを見上げていて、燐音は内心ほっと溜息をつきそうになるのを心の中でこらえた。一彩の腕が伸びて燐音の背中へと回る。ぐりぐりとおしつけながら、一彩は柔らかな声色で言った。
「どきどきした」
「なんで」
「だって、兄さんにそういった事を話すのは初めてだからね。いつだってかっこよくいたかった。…それも醜いなと思うのに時間はかからなかったけれど。見栄を張る、意地を張るのはよくないね」
「かわいいもんじゃねぇか。恋人にかっこよく思ってもらいたいのは普通のことだろ」
「でも兄さんは全部素直に見せてくれるから。僕はそっちのほうがかっこよく思うよ。心を見せるって、怖いことだったから」
「そんなことねぇよ。俺だって、ばかみたいに八つ当たりしてちょっと、…あー、いや、かなり後悔してばっかだったよ」
「別におかしなことではないと思うけど。恋人の前で素直になってくれるのはとてもうれしいよ」
「それを言うなら、お前の見栄はりだっておかしくなんかねぇけど。むしろ猫にはりあう俺の方が恥ずかしい野郎じゃん」
「そんなことないさ。僕だってとらきちと日々戦っているよ?」
「は?」
「兄さん、」
一彩の手が頬へと伸びて、顔が近づく。柔らかくあてられた唇が、やさしく啄んだ。甘いそれを享受して、燐音は瞳を閉じた。弟の吐息。ふわりとかおる匂いが、燐音の心をふわふわと夢見心地にさせていく。とろんと溶け切ったところで、一彩の手が首筋をなぞり、腰骨へと回っていった。溶けた心に期待の波紋が広がる。答えるように一彩へ顔を摺り寄せて、小さな声で「準備、してる」と答えた。