雨宿り「雨宿り」
「お疲れ様でした」
ぺこりと頭を下げて、一彩はスタジオを出た。MVの収録に向けてのレッスンは順調で、今日も予定通りに終わった。残って練習するといった藍良と、それに付き合うマヨイを置いて、一彩は巽と二人ビルの入口へと降りた。
「雨はやみませんな」
「すっかり梅雨になってしまったね」
「えぇ、季節を感じますね」
「ウム。嫌いじゃないよ」
ざあざあと振り続ける雨が地面を暗く濡らしている。一彩はカバンから折りたたみ傘をだすと、巽を振り返った。しかし彼は自身のカバンをがさがさとあさっていて、首をかしげている。あきらめたようなためいきをついた姿に、一彩は笑いながら話しかけた。
「珍しいね、巽先輩が傘を忘れるなんて」
「はは、どうやらこの間急に降った時に使って干したまま、忘れてしまったようです」
「ふふ、梅雨だからね。どうぞ」
「ありがとうございます」
一彩が傾けた傘にかがみながら入った巽は、「俺がもちましょう」と一彩から傘を受け取った。ビルの隙間から見える空は、重い雲で覆われている。駅までの道を歩きながら、一彩は巽へ尋ねた。
「巽先輩に聞きたいことがあるのだけれど」
「俺に分かることでしたら」
「六月が結婚シーズンというのはどうしてなのかな。こんな梅雨なのに」
「あぁ、ジューンブライドですか」
巽はにこやかに笑みを浮かべながら、一彩へ説明した。
「もともとはヨーロッパの風習です。いくつか由来はありますが、出産や結婚の女神であるジュノが守護する六月に結婚することで、幸せに暮らせるよう祈りを込めていたという話が一般的です。そもそも、農作業がありますので五月までは式を禁止されていたという現実的な説もありますが」
「なるほど。農作業の手は欲しいから仕方ないともいえるね」
一彩はひとつ頷いて、故郷を思い出した。雪解けが終われば作付けの時期だ。畑を耕して、種を植えて。男手が必要だと里を回っていた記憶がよみがえる。それが終わるころには梅雨に入っていて、作物や山の心配をしていた父の背中を、一彩はよく眺めていた。
「しかし、日本では梅雨になってしまうからあまりいいとは思えないね」
「そうですな。もともとはホテルなどが呼び込むために使ったようですし、実際、あまり気にしない人も多いようですよ」
「そうなんだね」
そのまま会話はとぎれ、二人は駅についた。帰りの電車を待ちながら、一彩は兄が返ってきてからのことを考えた。
兄がいる会場でのツアーは今日から三日間にかけて行われ、終われば帰ってくる。その時に、ジューンブライドにかけて兄を式場へ連れて行こうと、一彩は考えていた。見学くらいならばさせてくれるだろうと思ってのことだったが、どうやらあまり気にするものでもないらしい。それなら別にこだわらなくてもいいだろう。一彩は予定を変えて、兄を少しそれらしいレストランにでも連れて行こうと考えた。付き合ってもう一年。お試し期間はあったが、祝ったって文句は言われまい。
乗り場についた電車に乗り込んで、ゆらゆらと揺れる。スマートフォンでレストランを探していた時、巽がふと一彩へ話題をもちかけた。
「ジューンブライドと言えば、一彩さん」
「なんだい?」
「サムシング・フォーをご存じですかな」
巽の言葉に、一彩は首をかしげてその言葉を約した。
「『何か四つ』?」
「えぇ、欧米での結婚式の慣習です」
巽はひとつずつ説明を始めた。
『サムシング・オールド』…なにかひとつ、古いもの。祖先や伝統をあらわし、母親や祖母の婚姻衣装をひとつみにつけること。
『サムシング・ニュー』…これから始まる生活のこと。新調した白いものを用意する。
『サムシング・ボロード』…友人や隣人から借りたもの。幸せな生活を送る人々にあやかるため、ハンカチやアクセサリーを借りる。
『サムシング・ブルー』…聖母マリアを示す青色、つまり純潔を表すもの。
そして巽は最後に、「六ペンス銀貨を、靴の中にいれるんです」と言った。
「六ペンス銀貨? その四つと、どういう由来なのかな」
「もとはイギリスの古い詩にあるそうです。身に着けておくと、花嫁は幸せになれるのだとか」
「へぇ、素敵なおまじないだね。藍良なんかが好いてそうだ」
もっとも、藍良がまじないを信じるのは大抵ライブの抽選の時だけだが。巽は笑いながら、「そうですなぁ」と言ったきり、口を閉じた。
一彩は話を反芻しながら、こっそり準備してみようと思った。知らない間に花嫁のおまじないに囲まれた兄が、どういう返事をくれるのか。きっと、いい返事であればいい。
雲の切れ間から、一彩へ光が差し込んだ。